第99話 カリブの波間 ⑩ビーチ

 ビーチでふたりを波打ち際のチェアまで案内したボーイは、マカレーナの美貌に見惚れるあまりうっかり二度も他の客の寝そべるデッキチェアにぶつかった。

 ふっと笑みを洩らすマカレーナと目があって思わず頬を染めるボーイはまだ十代の半ばと見える。


 車で二時間の旅の間もずっと目深にかぶって、その肌を人の目と太陽とから守っていた麦わらの帽子はいまも、マカレーナの貌のほとんどをそのおおきなつばの下に隠していた。そうして麦わら帽はマカレーナを守り通すことにほとんど成功しかけていたのに、荷物を持つため腰をかがめたボーイはふと見上げた先に帽子の下の、ぞっとするほどの美貌に一瞬で魂を奪われたのだ。


 マカレーナは水着の上に白いガウンを着て、今日も太陽の下に肌を晒す気はないらしい。

「無理して海に来なくてもよかったのに」

 もうTシャツまで脱いで泳ぐ気満々のガブリエルが笑う。マカレーナが海へ行くと急に言いだしたのは、昨日の明け方のベッドの上だった。

「うっさいわねえ。どこに行こうとあたしの勝手よ」

 デッキチェアに横になって、パラソルの下に肌を隠すと、つっ立ったままのガブリエルを見上げた。

「泳いできたら?」

「でも、マカレーナは海に入らないんだろ?」

「ガウンを脱ぐわけにはいかないわねえ。でも、あんたはあんた。あたしにつきあうことないわ」

 自分を曲げることないマカレーナの言葉に、太陽のような笑みを残してガブリエルは波のなかへ飛びこんだ。




 一時間ばかりも泳いだガブリエルが満足して戻ってきたとき、ビーチでマカレーナは男たちに囲まれていた。いやな予感にあわてて走り寄ると、マカレーナは何人もの男たちにかしずかれて、華やかに笑い声を上げている。


「……心配して損した」

 思わず天を仰いだガブリエルの声を聞きつけて、マカレーナがふり返った。

「なんだ。まだ海で遊んでてもよかったのに」それから男たちに向かって、「残念。本命が帰ってきちゃったわ。またね」と追い払った。


 未練を残した男たちの羨望の視線をちらちら受けながら、

「あーもう、勘弁してくれよ、心配したじゃんか」と、ため息を吐くガブリエル。

「あら、心配してくれたの」

 うふふ、とつややかな笑みを含んでマカレーナが応えた。

「当たり前じゃん。またケンカ売ったのかと思ったよ」

「なんだ、そっちか」

 ――嫉妬してくれたわけじゃないのね。

 マカレーナの眸がさっと冷たくなるのにガブリエルは気づかない。

「そりゃ出会ったときの印象が強烈だもん」と無邪気に笑った。

 その言葉に、マカレーナはまだ一年も経たない前の出会いを思い出して、膨れっ面をして見せた。

「そういやあのときは、余計なことしてくれたわね」

「変わってないなあ」とガブリエルは苦笑い。

 ――変わったわよ。あのときあたしは自由だった。だれだってあたしを繋ぐことなんてできなかった。


 マカレーナはすまして答える。

「心配だったら、あたしを独りにしないことね」

 ――ずっとあたしを繋いでいて。


「はいはい。もう泳ぐのはいいよ。着替えて、散歩でもしようか」

「まだ動くつもり? やっぱ若いってすごいわ」

 おおげさに肩をすくめるマカレーナに、ガブリエルは憎らしくなるほどの無邪気な笑顔で言った。

「マカレーナのがよっぽど子供だよ、おれに心配ばかりさせてさ」

 手をとりホテルへと戻るガブリエルのあとを急いでついてって、マカレーナは雲ひとつない楽園の空を見上げた。



  ***



 陽のあるあいだ存分にはしゃいだ疲れに、幼なのようにあどけない眠り顔を見せるガブリエルを、夜更けに目を覚ましてしまったマカレーナは起き上がって見下ろした。


 昼に見た空の淡青、海の紺青と樹々の濃緑がまだ瞼の裏に残っている。

 ビーチから部屋へ戻って着替えるとすぐ、マカレーナはホテル裏手の山道へと連れ出されたのだった。


 曲がりくねる坂の途中で、おおきな葉が陽を照り返す下に、バナナの房が尻を天へ突き出し豊かに実っていた。人の手を借りず山中に育ったバナナは、せっかくの食べ頃をだれの目にも触れないままいずれ黒くなるのだろう。と思うとガブリエルが手を伸ばして、ひと房もぎった。

「思い出すなあ」

 水色の空、夏の雲が山にかかる故郷で、揺れるバナナの葉の下をくぐって学校へ通ったのだと話してくれた。兄弟で通学路の近道としてバナナ農園に入り込んでは気まぐれに、バナナをもぎって食べていたのだと言った。

「泥棒じゃん」

 マカレーナが笑うと、ガブリエルも笑った。

「ほんとだ。でも、一度も文句言われたことはなかったな」

 ガブリエルはなつかしい目でふっと眼下の崖下にあらわれた海を見た。

 つられて見下ろした先には透明なエメラルドの海。白い波がゆっくりと打ち寄せていた。左右を崖に遮られ人の目から隠された小さな砂浜には、人影ひとつも見あたらなかった。




 ガブリエルはそんな子供の頃から本質は変わってないんじゃないかというほど無垢な姿で眠っている。無防備に割れた上下の唇を愛しげに撫でて言った。

「あたし幸せよ」


 今日も一日幸福に包まれていた。でも、なにがこんなにあたしを不安にさせるのだろう。

 ガビを失うのが恐いから。

 それとも、ガビを堕落させてしまうのが恐いから。

 ダニーを不幸に落としてしまうのが恐いから。

 この幸せがいつか手からこぼれ落ちて、永遠に戻らなくなる日を予感してるから。


 心を乱して見つめるマカレーナの眼の下で、ガブリエルは安らかな寝息を立てている。

「ねえガビ、あたしずっと地獄のなかにいるの。早くあたしを救い出して。あたしに止めを刺して」

 あんたと出会う前、あたしはこんな地獄は知らなかった。自分を疑うことなんてなかった。あたしはだれよりも自由だった。

 こんな狂おしい幸せも知らなかった。

 この幸せを知って、あたしは身を焼き尽くす地獄に囚われてしまったのよ。


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