第90話 カリブの波間 ①娼館の夜
山中から戻って三日、マカレーナはガブリエルとまともに会話をしていない。顔を合わせるのを徹底的に避けているのだ。
ガブリエルが遠くから心配そうに見ている視線を無視して、わざと部屋のなかに籠った。四階の部屋に子供たちが集ってはしゃぎ声を上げているのを背中に聞きながら、一階のホールに下りてナボと無駄話に興じた。
それでいながらマカレーナは、大学へ出るとき帰るとき、ガブリエルが階段を上り下りする靴音が聞こえてくるのに、部屋のベッドで耳を澄ませた。階段のすぐ横にあるマカレーナの部屋には、二階の男女の嬌声も、四階の子供たちの声もよく通って、もちろん階段の靴音などは筒抜けだ。
だが店が開けば、ホールで働くガブリエルと
おかげでマカレーナは、ガブリエルから逃げるようにカウンターを脱け出し、ソファに座って男たちを歓待することが増えていた。今日は久しぶりに店にやって来た、州警察の幹部たちに囲まれ女王の艶やかな笑みを湛えている。
ナボの指示でテーブルの会話を聞きに行っていたガブリエルが、呆れ顔で帰ってきた。
「なにあれ? フアンとの関係知ってて、マカレーナに迫ってんの? 全然捜査っぽい話はなかったよ。人には聞かせられない猥談ばっか。警察って……なんか、いい加減?」
声をひそめるガブリエルに、
「この店んなかは休戦、がお約束」と、磨いたグラスをカウンターに並べながらナボが答える。「戦場にだって緩衝地帯があるみたいに、警察との追っかけっこにもひと休みする場所はあっていいのさ。口の悪い連中は、
そう言って片目をつぶり、魅惑の笑みを見せた。
「じゃあおれ、なんのためにここで仕事してるんだろ?」
「さあ? 警察にもいろんな奴がいるからね。なかには休戦を守らない奴なんかも出てくるかもしれないし。……それと、それだけフアンが本気ってことかな」
「ほんと、妬けちゃうわ」
トイレがてらにカウンターに寄ったアレクサンドラが言う。
「だれと抱きあってたって全然眼中にないってふりしてるけどさ。フアンったら、たまに棄てられた子供みたいな目してマカレーナを見てるんだもん」肩をすくめて、天井を仰いだ。「あんな目されたら、堪んない。放っとけないわ」
あんたには解んないかな、と笑ってガブリエルの額をこづくと、また客の許へ戻って行った。
「もう帰ったら? 明日の仕事に差し支えちゃうんじゃない?」
深夜の一時を過ぎて、警察の面々もいつの間にか数をおおきく減らしている。適当なところで見切りをつけて帰ったか、あるいは相手を見つけて二階で楽しんでいるのか、取り巻きが順々に姿を消していったあとも署長はひとり、マカレーナを隣に侍らせ飲みつづけていた。さっきから話は同じところをぐるぐるまわり、口調も
「ほらあ。疲れてんのよ」
マカレーナの言葉に署長は首を振って、心配そうに覗きこむ女王の顔に髯の茂みの奥から唇を近づけた。
「だーめ。今日は帰るのよ」
手を貸して立ち上がらせると、腕を組んで扉まで見送る。
「しっかりしてよ、市民を守るんでしょ」と背中を叩いて、太陽のような笑みを見せた。
署長が帰ったあとの扉を閉めて、マカレーナはホールを返り見た。世間から隔絶した夜の海で、客たちはひとときの享楽に溺れている。その海のうえを、涼しげに泳ぐ男がひとり――ガブリエルだ。
女たちから酒を届けるよう頼まれ、カウンターとテーブルとを往復し、ときどきいたずらされてからかわれ……そんなガブリエルの様子をしばらく見ていると、ふっとこちらへ顔を向けたガブリエルと目が合った。あわてて視線を逸らそうとする前に笑みを送ってくる。
つい笑みを返してから、しまった――と思ったがもう遅い。
つと寄って来たガブリエルに、マカレーナは迷惑そうな顔を見せた。
「なんの用?」
冷たく言い放つマカレーナにも、ガブリエルは平気な顔だ。
「疲れてるみたいだから」
「ふぅんだ。あんたこそ、体調はどうなのよ」
コカ畑から戻って以来、ろくに会話もしなかったマカレーナは、あの後ガブリエルの体調が回復したのかさえ知らないでいる。
「絶好調」
ガブリエルが肩を前後にまわして見せると、お仕着せの白シャツが青い光の下でやわらかに波打った。
「そりゃなによりだわ」
あさっての方を向いて吐き出すマカレーナの顔を覗きこんで、
「おれよりマカレーナが心配だよ。なんだかいつもの元気がないみたい。もしおれが原因なんだったら――」
最後まで言わせずマカレーナは、相手の襟をつまんで空いたテーブルのところへ引っ張りこんだ。
「いつまでもつまんないこと言ってんじゃないわよ。あれは忘れて」
「でも、きみは」
まだ言おうとするガブリエルのシャツの上からきゅっとお腹を抓って、背伸びし耳に一言ずつ押し込んだ。
「とにかく、あれは
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