第91話 カリブの波間 ②愛憎

「顔色わるくないか? 今日は休んだら?」

 カクテルを作ろうとカウンターに寄ったついでに、カタリナは長身をくの字に折ってマカレーナの顔を覗きこんだ。

「うふふーん。やさしいじゃん。どうしちゃったの、もお。愛してるぅ?」

 しゃらしゃらと笑って抱きつこうとするのをさっとけて、

「言いたくねえならそれでいいけど。……無理すんなよ」

 そう言うとぷいと背を向け客の待つテーブルへ戻って行った。


 実際マカレーナにはこのところ、眠りの浅い夜がつづいている。

 だがそれを人に告げるつもりは欠片もないし、それどころか自分の心をさえ欺いて、なにも問題ないのだと言い聞かせていた。



  ***



「シャンパン持ってきて! 今日はお祝いよ」

 ソファの中央に座るマカレーナが陽気に上げる声に、ガブリエルは急いで盆にグラスを並べた。隣でざざあっと音を立てて氷をシャンパンクーラーに流し入れているナボに、そっと耳打ちする。

「なんのお祝い?」

「さあねえ。うちの女王様は気まぐれだから」

 と笑って、シャンパンを入れたクーラーをわたした。


 向かう先は、署長とその取り巻きが捜査経費を惜しみなくマカレーナに貢いでいるテーブルだ。

 マカレーナの顔の色はいつにも増して蒼白で、熱を帯びた眸は妖しい光を宿し、病的なほどの色香が全身から匂い立っていた。

 その妖艶に客の男たちは当てられ、女たちでさえ陶然となった。そこへシャンパンとグラスをテーブルに運んできたガブリエルの声が、客たちを飛び越えマカレーナまで届くと、浮かれるマカレーナをはっとさせた。

「大丈夫? 顔真っ蒼だよ」

「余計なお世話。あたしは元気よ。あんたはおとなしくお酒もってくればいーの」

 それから署長の胸にしなだれかかって、ガブリエルを責めるような目で見上げた。

「さ、開けてちょうだい、あたしのために。お祝いしてよ」


 ガブリエルが開けたシャンパンは、客と女たちに振る舞われてあっと言う間にからになった。ホールは陽気な喧騒で満たされ、男も女もますます浮かれて、男が卑猥な冗談を飛ばせば女は婀娜あだな調子で返した。

 マカレーナは次から次へと新たな余興を思いついてはまわりを巻き込んで、祝いの空騒ぎはいつまでもつづいた。

 今夜も署長はお預けを喰らうようだ。



 行き着く果ても知れないような野放図な宴にもやがて終わりは訪れ、客たちが帰るのを見送ったと思うとマカレーナは店の裏口へ飛び出した。

 闇に溶ける漆黒のナボがその後を追って、うずくまったマカレーナの華奢な背中をさする。その足下にあるのはいまき出されたばかりの、今夜飲み食いしたものすべて。

「酔いつぶれるなんて、めずらしいな」

「なによ。文句ある?」

「いつもよりペースが早かったぜ」

「気づいてんなら止めなさいよ」マカレーナは苦しげに歪めた顔を下へ向けたまま。


「……まあね。飲みたそうな顔してたからさ」

 すまして答えるナボは、止めたって聞かないくせに、とは口にしない。代わりに、扉から店のなかへ顔を突っ込んでガブリエルを呼んだ。


「女王様を頼むよ」

 ぐったりした体を押しやると、自然と受け取ったガブリエルはマカレーナを抱えて、ホールをふり返った。

 警察署長御一行は退散して日付もとっくに変わっているが夜の宴はいよいよたけなわ、男も女もたがの外れるにまかせて抱き合って、どこやらから悩ましげな嬌声まで洩れ聞こえてくる。

 いつもながらの光景と腕のなかのマカレーナとを見比べ、物問う顔を向けると、ナボは肩をすくめて返した。

「今日は、店はもういいから」



 深夜二時、三階のマカレーナの部屋には、いつもと同じく鍵が掛かっていなかった。

 寝室まで抱えていったマカレーナをベッドに下ろすと、酔いにしかめた顔がうえを向いて、すこし開いた唇が意外とあどけない。喉元まで覆ったドレスの紐を緩めてやって、寝顔を見下ろした。


「おやすみ」

 そう言って背中を向けた途端、うしろから伸びた手に絡めとられた。

 ふり返れば瞼の上がりきらない、ぞっとするほど白い顔が、半ば以上は酔いと眠りのなかにいる。

「ガビ……なんでここにいるのよ?」


「もう行くよ。おやすみ」

 だが立とうとするガブリエルを、マカレーナの手は離さなかった。

「あんた、あたしと結婚するって言ったわよね。あれ、本気?」

 据わった目で見るマカレーナをまっすぐ見返して、

「本気だよ」とガブリエルはやさしく言った。

「ばかね。娼婦なんかの言うこと本気にしちゃって。だれがあんたなんか、本気で好きになるってのよ。勘違いしないで」


 階下からはかすかな嬌声が届いていた。ふたりきりの寝室でマカレーナは花のような芳香を放った。夜がマカレーナをそそのかして、なにもかも白状させられそうな気がした。

「あたしはごめんだわ、あんたみたいな愚図。フアンの方が、百倍も素敵」

 熱に浮かされたように毒を吐くマカレーナに、ガブリエルは黙って頷いた。

「フアンだったら頼りになるし、男だし、お金だってあるし、意外とやさしいとこもあるしね。フアンはあたしの言うことなんだって聞くのよ。だってあたしのこと、愛しちゃってるんだもん」


 言葉を途切らせると頭ががくっと落ちて、ガブリエルの胸に当たった。その胸に体重をあずけたまま顔を上げて、

「お酒ちょうだい」

「だめ。もう水飲みな」

「けち」

 と言いながら、ガブリエルのわたすボトルを素直に受け取って飲むと、

「あんたなんか、好きなわけないわ」

 そう言ってボトルを返した。受け取ろうとするガブリエルの手に触れた指をさっと引いて、相手の顔をきっと睨む。

「あんたほんとはあたしのこと、好きでもなんでもないんでしょ」

 その眸から涙がひとつぶ落ちた。


「好きだよ。愛してる」

「そんな言葉が聞きたいんじゃないわ」

 頬に差し伸べたガブリエルの手を払って、マカレーナが言った。

「あんたは、だれだって愛してるのよ」


 憎しみをこめて、熱く潤んだ碧の眸でガブリエルを睨んだ。その目からはまた涙がこぼれて、化粧と一緒に流れた。

 ふるえる体を支えようとガブリエルが手を伸ばし――その瞬間、マカレーナは発作的にガブリエルの胸へと身を投げた。

 顔を押しつけて、お仕着せの白シャツで涙を拭いた。夜の化粧の匂いがシャツに移って、ガブリエルの汗と混じった。

「あたし、あんたを許さないわ。あたしに地獄を教えたのはあんたよ。あんたなんかに、会わなきゃよかった」

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