第89話 コカ畑 ⑬迎え

 そのまま眼下にひろがるコカ畑を見わたして、眩しげに眉をひそめた。

「もしかして、やっぱり傷ついてるんじゃない? そんで、やけっぱちに日焼けしてるとか? だったら、おれ、どんな償いだってするよ。なあ、どうしたらきみの傷を癒せるんだろう?」

「まぜっ返すわね、あんた。だから、気にしなくていいんだったら」

 せっかくの気分に水を差すガブリエルを、白い眼で睨む。下界に戻ったときのあれこれを思うと、マカレーナも気が重い。

「ていうか、とっとと忘れなさいよ! ダニーの前でこんなこと言ったら承知しないからね、本当に」ますます体重をガブリエルのうえにかけて言う。「だいたいね、どんな償いするってのよ?」

「なんだって。それでマカレーナの傷がすこしでも癒えるんなら、なんだってするよ」

「じゃ、結婚する? 一生あたしのそばにいてくれる?」

「するよ」

 即答するガブリエルに呆気にとられて――ふっと頬をほころばせた。

「ばかね。本気にしちゃって。あたしがあんたと結婚する? あーもう、これだから世間知らずの子供ってやだやだ」マカレーナは立ち上がって、また日向ひなたに飛び出した。ふり返って太陽より眩しく笑う。「あたしは娼婦だって言ってるじゃない。寝た相手とそのたび償いに結婚してたら、重婚罪で一生刑務所だわ」



 立ち上がったおかげでマカレーナの視界は一気に開けた。そして――コカ畑の先に動く人影を見つけた。あわてて木陰に戻ってガブリエルにしがみつく。

 しがみつかれたガブリエルは、目をすがめて前方の人影を見定めた。その視線の先では壮年のインディオが、元は派手な色だったろう洗いざらしのシャツに身を包んで、こちらへゆっくりと近づいてきていた。



  ***



 昨夜のうちに麓の村に脱出を果たしていたフアンは、そこでエリベルトと合流すると、すぐに迎撃態勢を整え、同時に散り散りになった者どもの安否を確かめていた。

 だがマカレーナの行方だけは、朝になってもようとして知れなかった。

「まさか死にはしねえだろ」

 最初はかるく笑っていたフアンも、山に放った部下たちがマカレーナの姿を見つけられないまま帰ってくると、苛立ちを隠さなくなった。

 周辺はまだ軍警察がそこらを巡回して、捜索の手は刻一刻と近く迫っている。


「撤退するべきだ。フアン、マカレーナは警察に任せよう。捕まったところで、それがどうしたってんだ。警察にはあの女を殺すどころか、傷ひとつつけることだってできねえだろうよ」

 エリベルトが言うが、フアンはうなずかない。

「警察だ軍だって、それがどうした。臆病風に吹かれたんなら、いーから先帰れ。てめーはこのおれが、女を捨てて逃げる男だとでも思ってんのか?」

「あんたこそ、おれが大将置いて逃げるとでも? 見くびんじゃねえ」

 胸がぶつかるほどに詰め寄るエリベルトの肩を引っ張って、レナートが割って入る。

「落ち着けよ、ふたりとも」



 結局フアンはその場に残り、パブロが七人の精鋭とともに側に付き添った。エリベルトはレナートと共に、先に街へ戻ることになった。司令塔不在の本拠地で、配下に組み込まれてまだ間もない海千山千の喰えない奴らを抑えるのは、パブロよりエリベルトが適任だ。


 そこにコカ畑で働くインディオから連絡が入ったのはもうひるも近い頃。

 コカ畑の山桃の木の下にガブリエルとマカレーナを見つけたこの男は昨夜の騒ぎから察して、なにも問わずにふたりを自分の日干しレンガの家へ避難させた。

 軍警察の犬が農具小屋に踏み込むほんの半時間前のことだった。


 男の妻がふたりのためコカ茶を淹れるあいだに夫の方が集会所へ走って、カルテルの末端の者に連絡を入れると、険しい山中をものの二時間も待たないうちフアンがよこした車が着いた。


 乗り込んだ車のなかで、マカレーナはふうっとながい息を吐いた。

「ありがと。フアンはどこ? 死んじゃってたりしてないでしょうね?」

 匂う女の色気に当てられながらもルカが相手の呑気を責める。

「無事だよ、いまのところはな。……あんたが見つからないからいつまでも撤収できなかったんだ。ちょっとはフアンに感謝しろよな、ったく。いま軍と遭遇したらさすがにヤバいってのに」


「はいはい」

 とルカをいなしながら山道を下る旅は賑やかにつづいて、途中までは話に加わったガブリエルも病み上がりの疲れに、村に着くころにはまたうたた寝してしまっていた。車が停まる気配にはっとして目を開けると陽はもう山に隠れかけている。


「おっそーい」

 フアンがドアを開けるなり、前を向いて座ったままマカレーナが不満を鳴らした。

「なんでもっと早く迎えをよこさないのよ? おかげで山んなかでずっと虫に悩まされるし、陽には焼かれるしで、もう最悪だったわ」

「ガビがいたから、退屈しなかったろ?」

 さらっと言うフアンに、マカレーナは隣の半病人をちらと見て答えた。

「ばか言ってんじゃないわよ」

 無数のかずらの樹々が午後の風に葉を鳴らす音に、その声は紛れて消えた。

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