第88話 コカ畑 ⑫好き

「で、なんにも覚えてないのね?」

 とマカレーナが訊いたのは、動顛していつになく口早になったガブリエルの頬をはたいて黙らせたあとだ。それでようやく落ち着いたかに見えるが、目の前のマカレーナが裸のままでいるのを忘れてしまっているあたり、やはりどこかまだ正常ではない。


 思い出そうとして首をひねるガブリエルにマカレーナはため息いて、そっぽを向いた。

「べつに……傷つけられちゃいないから、気にしないでいーわよ」

「でも、その……しちゃったの?」

「そうね」

 上目遣いに見るガブリエルの顔を横目に、素っ気なく。

「やっぱり! しでかしてしまったんだ! きみを傷つけてしまった! 昨日のおれは、どうしてたんだろう? マカレーナ、おれを打ち据えてくれ、気のすむまで」

「ガビ、ガビ、ちょっと落ち着いて」

 また暴走しはじめたのを止めようとするが、

「おれは最低だ」

 自分の頭を殴りはじめるガブリエルは止まらない。

「だから、落ち着きなさいよ!」

 頬骨を殴ろうとする手をとって、マカレーナは自分の胸にぐにゃっと押しつけた。やわらかな女の感触にはっと気づいて、ガブリエルは正気に返った。その手から力が抜ける。

 抗わなくなった掌を胸に当てたまま、マカレーナは赤くなったガブリエルの顔をまっすぐ見て言った。

「無理やりじゃないし、乱暴でもなかったわよ」

 ――というか、意識朦朧としていて、あたしがリードしなきゃなんにもならなかったしね。


「だいたいね。あたしは娼婦なんだから、だれとでも寝るの。いちいち傷ついたりもしないの。つまんないこと気に病むんじゃないわよ」

 ふっと目を逸らすマカレーナの顔をガブリエルが追った。

「きみはそんなひとじゃないよ」

「ずいぶん買い被ってくれるじゃない」

「きみはそんな、だれとでも寝るって女じゃないよ」

「はいはい、ありがと」

「ほんとだよ」

 顔を背けたまま適当にいなそうとするマカレーナに、真剣な表情で言う。

「じゃ、それでいいってば」

「だから、おれが無理やり」

「ちーがーう、って。しつこいな、もう!」

「じゃあなんで」

「あんたが好きだからよ!」

 叫んでしまってから、あっと口をふさいだ。


 思わず顔が朱くなるのをごまかすように、そそくさとドレスを手にとった。その手をガブリエルがつかむ。

「待って、マカレーナ。いまのほんと?」

「なにが」

「おれを好きだって」

「んなわけないでしょ、自惚れんじゃないわよ」

「こっち向いて言って」

 顎に手を添え顔を上げさせると、マカレーナの朱に染まった顔があらわれた。


「……やっぱり、ほんとなの?」

 まっすぐ見つめられてマカレーナは一瞬怯むが、すぐ気を取り直し、おおきく息を吸いこんだ。

「違うって言ってんじゃない、愚図!」ガブリエルの手を振り払い、その額に指を突きつけて。「たとえほんとだったとしても、気の迷いよ。き・の・ま・よ・い! あんたと間抜けなやりとりしてたら、百年の恋も冷めるわ」

 ガブリエルの目の前ではだかの乳房が揺れるのも気にせず、マカレーナは勢いつけて極めつけた。

「だから、勘違いすんじゃないわよ、いいわね?」



 ガブリエルがおとなしくなったのを見定めたところで、マカレーナはそそくさとドレスを着て、小屋の扉を開けた。それから振り返ると、さっきまでの話は済んだとばかりに陽気な笑みを見せる。

「いつまで裸でいるつもり? とっとと服着て、そと出たら? もう朝よ」


 あわてて下だけ穿いて、上は裸のままマカレーナにつづいて外へ出ると、陽はもう山の端から姿をあらわして、コカの葉を濃緑に照らしている。

「ちょっと散歩しよーよ」

「いいの? 陽に焼けるんじゃない?」

「うっさいなあ。いーの、いまは陽を浴びたい気分なの」

 ガブリエルの手をとって、マカレーナは強引にコカの若木のなかへ連れ出した。


 歩きながら、ガブリエルの顔を見ずに念を押す。

「ダニーにはぜえっっったいに内緒だからね! あの子死んじゃうわ」

「マカレーナが言うならそうするけど」

「誰がなんと言おうとそうするのよ! あんたバカ? ほんと女心をひとっつもわかってないのね」


 ガブリエルはまだ足元が定まらないのか、中途半端に上げた足がうねにひっかかって、ふらつくのをマカレーナが支えた。

「もう、愚図ね」

 体重がかかるのをぎゅっと唇を結んで持ち上げる。眉に力が入った。

「ダンスの相手もできないんだから……ほんと愚図」

「元気だったらいけてると思うんだけどなあ。けっこ踊れたんだぜ、おれ。高校のときはさ」

 頭を掻くガブリエルを視界の端に置いて笑い、

見栄みえ張んないの。もういいわ。やすみましょ」

 コカの若木のあいだに植わった山桃の木陰を指して、先に立って歩きだす。


 自身は枝に手をかけ立ったまま、先にガブリエルを木陰に座らせた。ふと山桃の実がるのを見つけて手を伸ばすと、その拍子に剥き出しになった肩がガブリエルの目に入った。

 朝の陽はまだ低く、陽射しはやさしい。それでも肩の透きとおるような肌はうっすら赤くなっている。

「だから言ったのに」

 心配そうに見るガブリエルの膝のうえに、マカレーナは思いきり体重をかけて座りこんだ。

 痛っと思わず声を洩らす口に、山桃の実をひとつ押し込んで言った。

「生意気に、人の心配してんじゃないわよ。あんた病人のくせして」

「病人にこれはないんじゃないの?」

 膝の痛みをうったえるが、マカレーナはまるで取り合わない。すまして山桃を口に入れた。

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