第80話 コカ畑 ④仕事

 アレクサンドラには、自分の客をフアンが怒りの目で見下ろす理由がわからなかった。彼女のことで男に嫉妬しているから――なんてことはあり得ない。寂しいけれど、それだけは判る。


 男の方はおどろいた顔で、突然ホールを横切って近づいてきたフアンを見上げている。

「なんだ?」

 問う声が固いのも、相手が『旅団』の首領と知っているならまあ当然。

「おれに用があるんだろ? 言えよ、なんの用だ?」

「なんのことだよ? 遊びに来ただけだぜ?」

「とぼけんな。てめー刑事だろ。クロエの差し金か」

 フアンの言葉に男は一瞬たじろいだが、ひと呼吸おくと冷静な声で応じた。

「……おれが刑事だとして、それがどうしたってんだ?」

「ちょっとちょっと、フアン、あたしんとこの客なんだから、からまないでよ。うちは警察だってお客で来るの。外でいがみ合うのは好きにしてくれりゃいいけど、店のなかでは休戦よ。それがうちのルール」

 間に入ってマカレーナがとりなす。

「けっ。こいつがそのつもりならいーがな」

「入るときボディーチェックはしてもらったぜ?」

「てめーは黙ってろ!」思わず荒げた声が、ホールじゅうに響いた。


 一瞬、音をなくすホール。何事かとふり返る客たちの視線は、マカレーナがすべて受け止めた。集めた視線にマカレーナは婉然と立ち上がって――次の瞬間ウィンクを返して見せると、憮然とするフアンの手をとって踊りだした。ちょうどホールに流れていたサルサの曲が、ふと気づくと音量がおおきくなっている。いつの間にかカタリナも客の手をとって踊っていた。

 つられて他の女や客たちも立ち上がり、めいめいパートナーを見つけて踊りだす。すっかりダンスフロアと化したホールの端で、アレクサンドラに見送られた刑事がこそこそと店を出た。


 曲はサルサからクンビアに移り、二曲分たっぷり踊ったあとは女も男も疲れきって、抱き合ったままソファに倒れこんだ。汗のにじむ肌を重ね、呼吸の息もひとつに溶かせて、顔を見合わせ自然と笑いあう。


「誤魔化しやがって」

 マカレーナを膝に乗せて言うフアンは、肘で汗を拭ったあとは激しいダンスの跡形も残さず涼しい顔をしている。一方のマカレーナは息も絶え絶えだ。フアンの体力まかせのダンスに引きずりまわされ乱れた呼吸で、胸をおおきく波打たせて、上気した顔で、

「ダンスなんて久しぶり」

 一言だけ言うと目を閉じてフアンの胸に体をあずけた。


 マカレーナを胸に抱えて、フアンはしばらくホールの扉をにらんだ。一度はフアンの激昂で歓楽に水を差された客たちも、ダンスですっかり気分を取り戻してふたたび一夜の享楽に身をまかせている。

「ガブリエルはいるか?」

 フアンは思いついて訊いてみた。

「きっとね。部屋に籠もってんじゃない? 夜はずっと勉強してるみたい」

「呼んできてくれ」と周りを見まわし、

「アレクサンドラ」はっと見上げる女に低い声で言った。「頼めるか?」

「ガビがどうかしたの?」

 目を閉じたまま気だるげに囁くマカレーナへ、

「奴の仕事を見つけた」

 と素っ気ない顔で言って、フアンはまた扉へ目を向けた。



  ***



 その日の夜からガブリエルは、ボーイ服に身を包んでホールに立つと決まった。

 テーブルの間をまわって、客や女たちの注文する飲み物を届け、商談のまとまった男女の精算を済ませて個室へ案内し、空いたテーブルをきれいにして――ときどき、ナボから合図のあった客の会話を注意して聞き記憶する。



「犯罪の片棒担がせようってんじゃねえ、お前はただこのホールで起こることをおれに教えりゃいいのさ。マカレーナを守るためだ」

 フアンは簡単に仕事内容を説明したあと、こうつけ足した。

「そんで客を殺したりもしねーから安心しな。そんなことすりゃ、おれがマカレーナに殺される」



 ふと漂った甘い匂いに気づいて顔を上げると、下着と呼ぶ方が近い薄手の白いドレスに身を包んだタシアニが通り過ぎる。豊かなしりを揺らせながらゆっくり歩くそのうしろ姿にうっかり見惚れていると、下から袖の肘を引っ張られた。あわてて視線を戻した先にいるのはぎりぎりまで胸を露わにしたアナローサ。

「シャンペン持ってきて、ガビ。大急ぎね」

 上客をつかまえたという印に満足の表情で右の親指を立てて見せる。油断するとその先端がこぼれそうな胸は、しなだれかかった客の二の腕に当たってやわらかく形を変えた。

 ガブリエルの視線にぶつかったアナローサがと含み笑う。ガブリエルは赤くなった顔を天井に向けた。



「これなら文句ねえだろ」

 ホールで忙しく立ち働くガブリエルに、カウンターのスツールからフアンが声かけた。

「ありがとう。助かるよ」

「まったく、面倒臭え奴だ」

 今夜はアメリカで流行っているクラブ音楽が響くホールに、挑発的な衣装に着飾った女たちが往き来して、そこここで男に腰を抱かれ嬌声を上げている。

 まだ馴染めないでいるガブリエルは、その光景に圧倒されっぱなしだ。カウンターでカクテルを受け取りしなに、フアンの耳へ顔を寄せこっそり囁いた。

「……おれ、頭くらくらしてきたよ」

「はっは。それはおれの知ったこっちゃねえ。せいぜいマカレーナに追い出されねーようにしな」

 砂糖黍由来の蒸留酒、アグアルディエンテを一気に飲み干して、立ち去りしなにフアンはガブリエルの肩をばんばんと叩いた。

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