第79話 コカ畑 ③毒リンゴ

「ガビ、あんた仕事する気ある? フアンが仕事回してやろうかって」

 部屋にマカレーナが飛びこんで来るなりまわりも見ずに言った。ノックなしに扉を開けるのもいつもの通り。


「ほんとに? 助かるよ、もう懐がめーっちゃくちゃ厳しくってさ」

 そう言って振り返ったガブリエルのまわりには、アパートの子供たちがみな集っていた。

 呆れ顔で子供たちの顔を見まわすマカレーナに、アナマリーアが面目ないという表情を返す。はじめは、ずっと学校をサボって進級が危ぶまれるダニエリひとりがガブリエルに勉強を見てもらう筈だったのだ。

 それが、まずマリオとアンジェリカが一緒に勉強すると言いだし、ふたりを連れ戻すつもりで部屋に入ったレメディオスがいつまでも帰らず、痺れを切らして様子を見に来たアナマリーアまでがいつの間にかダニエリと並んでガブリエルの教えを受けていた。


「……なにやってんのよ、あんたたち」

「見ての通りよ」

 テキストからちらっと目を上げ憮然と答えるダニエリは、諦め顔だ。




 勢い込んでマカレーナが紹介する仕事の説明をガブリエルは熱心に聞いていたが、最後に残念そうに首を横に振った。

「その仕事は無理だなあ、おれには」


 仕事内容は見張り番。フアンの部下たちが仕事をしている間、警察が来ないか見張っているのが役割だ。この際フアンの仲間だとまわりに気づかれてはいけない。

「簡単な仕事だって、フアンは言ってたよ?」

「でもおれにはできないよ、やっぱり」

り好みしてる場合じゃないんじゃないの?」

 横からレメディオスが口を出した。アナマリーアより二つ年少でやはり両親を亡くしマカレーナに拾われたレメディオスは、いつもマリオとアンジェリカのお守り役を買って出ているせいか、年齢より大人びている。


「うーん」ガブリエルは頭を掻いた。「例えば、さ。メメは、すっげえ腹が減ってて、マカレーナからリンゴもらったら、それ食うかい?」

「食べるよ、たぶん。美味しそうならね」

 問われたレメディオスは即答。隣でアンジェリカが興味津々に聞いている。

「じゃ、そのリンゴに、毒が入ってたら……やっぱり食うかい?」

「食べないよ、そりゃ。なんなの、その前提?」

「あたしが毒リンゴわたすっての? あんたあたしをなんだと思ってんのよ」

 頬を膨らせてガブリエルの首を絞める手をダニエリが押さえる。「たとえだって、決まってんじゃん。もお、落ち着いてよ」

「でもすっっ……っげえ腹減ってたら、それでも食ってしまうかもしれない」

「ばかにしないでよ、食べないったら」

「メメは食べると思うなー」うれしそうな顔でアンジェリカ。

「食いしんぼだもんね」とつづけるマリオの頭をレメディオスがはたいて続きを促す。


「もし食べたら、やっぱりその瞬間は美味しいし、腹も満足すると思うんだ。でもそのうち腹がむかむかしてくるんだよ。それから後悔したってもう遅い。げえげえ吐くし、下痢は止まらねえし、もう最悪」

「も少し上品に言えないの?」

 バナナチップを口に入れていたアナマリーアが非難がましい目で見るが、ガブリエルは気にしない。

「おれがこの仕事を受けられないっていうのは、つまりそういうことなんだ」



  ***



「そうか、断りやがったか」

 めずらしく娼館のフロアに姿をあらわしたフアンが、カウンターの向こうに立つマカレーナの話に頷いた。

「ま、世界が違うか。仕方ねえな」

 ナボのつくったカクテルを飲み干し、グラスをカウンターに置いた。細かくクラッシュされた氷がグラスの中で湿った音を立てる。


「残念?」

 からかい気味の流し目で訊くマカレーナに、

「まあな」と素直に答えた。「ちょっとは惜しい。いい仕事人になると踏んだんだがな。ま、ただの直感だ、当てにすることでもねえ」

 口ではそう言いながら、フアンはたしかにガブリエルを身内に引き入れ損ねたことにがっかりしていた。自分でも思いがけずに。

 胸の奥を覗きこむようなマカレーナに背を向けフアンは、ホールで繰り広げられる男女の戯れをなんとはなしに眺め渡した。


 しばらく休業していたあいだ得られなかった歓楽の日々を取り返そうとするかのように馴染みの客たちは女の許へと連日通いつめ、今日も娼館は賑わっている。

 ふとそのなかに嗅ぎなれた匂いを発する男を見つけて、フアンは顔をしかめ、ゆっくりとスツールから立ち上がった。

「ちょっと、フアン」

 カウンター越しに肩に手をかけるマカレーナを振り払って、その男の方へ進む。男はすぐに気づいて、女の頸すじに粘っこく落としていた目を上げた。男の膝に座っていた赤毛のアレクサンドラもつられて上目遣いにフアンを見た。



 DVの夫から逃れて娼館に転がり込んだアレクサンドラは、初めて見たときからフアンに惹かれたが、同時に怖れてもいた。

 マカレーナに隠れてなんども誘いをかけた末に、二度ベッドを共にし存分に抱かれた歓喜も、フアンへの冷えびえとする怖れを消し去りはしなかった。つながっている最中ずっと、フアンは自信にあふれた仕草でアレクサンドラを高みから冷たく見下ろし、物のように彼女を取り扱った。


 今日もフアンの視線はアレクサンドラをすり抜けて、隣の男の方へと注がれている。この店に来るのは今日が初めてだと言った男は、遊び慣れないのか最初は話も続かずやたら酒を飲んで間をつないでいたのが、アレクサンドラのリードのおかげでようやく男女らしい空気がふたりのあいだに漂いはじめたばかりだった。その間二度三度と娼館を仕切る女王について訊ね、彼女が指さすマカレーナの横顔をときどきぬすみ見ていた。

 その視線に気づいてマカレーナは艶然と笑みを返したが、男はすぐに目を逸らしたのだった。

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