第77話 コカ畑 ①新生活

 男と逃げて行方不明のままのラファエラの部屋まで、案内も立てずにガブリエルは真っ直ぐ向かった。扉を開けた途端漂い出した女たちの残り香が、ほんの七日ぶりというのにやけに懐かしかった。


「ガビ」

 すぐうしろをついてきたダニエリが声をかけるのに、「なに?」と振り返ったところを抱きつかれた。頬をシャツにくっつけて、見下ろすガブリエルからは黒い髪しか見えない。

「無事でよかった」

 その髪に手をのせて、ガブリエルはやさしく言った。

「ありがと。おかげでおれは元気だよ」

 ダニエリはそのまま五秒ほど抱きついていたが、突然

「あー、もう限界!」と言って顔を離した。

「ガビ、あんたって……超くっさいわ」鼻にぎゅっと皺を寄せて笑う。「雰囲気もなにもあったもんじゃないね。もお、早くシャワー浴びなよ」



 七日ぶりのシャワーで汗とほこりあぶらと垢と、その他諸々の汚れをすっかり洗い落として久しぶりにさっぱりすると、ズボンを穿いて部屋に戻った。

 部屋のベッドのうえでダニエリは、自分の肩に鼻を押しつけて、と匂いを嗅いでいる。

「なんだろ。あたしにまで匂いが染みついちゃったかな? あんたのせいだからね」

「ん? 匂わないよ、大丈夫」

 ガブリエルが体をかがめてダニエリの額、髪の生え際あたりに鼻を近づけ言った。そのまますうと息を吸いこむガブリエルの気配に、ダニエリの身は固まってしまう。体じゅうの毛穴が開いて、汗がしゅうっと噴き出した。


 そこへノックもなしに扉が開き、ふいっとマカレーナの顔があらわれた。

「ああ、ダニー、やっぱりここにいた」

 あわててガブリエルから身を離したダニエリの真っ赤な顔を見て、マカレーナはしゃあしゃあと言った。

「なんだ、ヤってないの? つまんない」



 ***



「ずいぶんゆっくり寝てたのね。大学生って暇なの?」

 ふたたび娼館アパートに居候するようになって三日目、すっかり陽が高くなってから出かけようとしていたガブリエルに、ちょうどホールに下りてきていたマカレーナが声かけた。そう言う彼女自身、いま起きてきたばかりだ。

「市場の仕事、クビになったんだよ」

 頭を掻いてガブリエルが言う。



 市場での襲撃のあとしばらく姿をくらまし、挙句に警察に連れていかれたガブリエルを雇いつづけることは、零細商店にできることではなかった。彼の不在の間に新しいアルバイトを雇った店主は、三週間ぶりに姿を見せたガブリエルに、もう仕事の空きはないと残念そうに告げた。

 実際、頑丈な体と真面目な働きぶりはずいぶん頼りになったし、なによりその善良を絵に描いたような性質は店主も気に入っていたので手放すのは惜しかった。だがやはりもう一人余計に雇う余裕はこの零細な商店にはなかったし、市場を襲った大惨事に関与していたと噂される青年を店に引き入れるのは危険な気もしたようだ。



「そういやお金、このアパートの。どうしよう」

「なに? 家賃でも払おうっての?」

「そりゃ無賃タダってわけには行かないだろ?」

「でも、収入ないんだよね?」

 マカレーナの問いに、ガブリエルは詰まった。

「無理するこたないわ。貧乏人から金むしり取るよなことしないから安心しなよ」

 困ったときはひとに頼るもんよ、と笑ってガブリエルの意外におおきな背中を叩いた。



  ***



「ふうん……仕事失くしちまったのか、あいつ」

 円滑なスライドの動きを取り戻すため一度分解したベレッタを再び組み立て直しながら、フアンは感情を動かす様子もなく言った。

 うしろから肩にもたれかかるマカレーナの手がさっきからしきりと、本体から外されたままの銃身を取り上げようとするのをうるさそうに払いのける。払いのけられた右手は銃身に未練を残さず、代わりに引き締まった腹部へと向かって割れた腹筋を撫でた。

「ま、店主にしてみりゃ仕方ねえ話だ」

 銃身を覗きこみながらフアン。一緒になって銃身を見ながらマカレーナは、

「まったく、運のない子だよね。ばか正直ってのは、運にも見放されるもんなのかな。ま、あいつが愚図なのが一番わるいんだけどさ」

「手厳しいじゃねーか」

「見ててイライラすんの。あんな甘ちゃんで、ひとを疑ったりしないで、そんな力もないくせにひとを助けようとしてさ」


 ますます我儘に体重を乗せるマカレーナの腕が首に巻きついて、フアンはぐぇと喉を鳴らした。豊かな白い乳房がフアンの背中でやわらかくつぶれた。

「……おれに当たンなよ」

「当たってなんかないわよ。フアンはガビと全然ちがうもん。あいつはまったくお人好しの甘ちゃん。そんなでこのきっつい世のなか渡ってけるかっての!」


 フアンは組み上がった拳銃を両手で握って構えた。いったんスライドを引くと弾倉を外して、スライドが戻る動きを確かめる。その出来に一瞬満足げな顔が浮かんですぐ消えた。さっき首を絞めたマカレーナの左手は今はフアンの腋の下をくすぐって、銃を確かめる動きを邪魔するのに興じている。唇はフアンの耳許でとんがらせて。

「警察でさんざ殴られてんのに文句も言わないで、おもしろかった、なんて言うのよ」

「気に入ったみてーだな、その甘ちゃん」

 ようやくフアンは銃から目を離して、ふり返った。

「はァ? ばかなこと言わないで。イラつくって言ってんでしょ」

「仕事ねえなら、おれが紹介してやろうか?」

 マカレーナの反応に取り合わず、フアンはその紅潮した顔を見つめて言った。

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