第76話 州警察 ⑫帰宅

 警察署周辺からは繁華街まで歩いて十分足らず、その道の右手には流れの澱んだちいさな川沿いに貧民街スラムが広がっている。貧民街周辺を歩く人びとの肌の色が他と比べ濃いのは、欧州からの独立後二百年を経ても変わりきれないこの国の現実の反映だ。

 彼らと比べれば、娼婦の子ではあってもダニエリはずいぶん上流の環境にあると言えた。そもそも『太陽の娘』は街でも最上層を顧客に持つ娼館、そのせいか働く女たちもどこか上品だ。ダニエリもアナマリーアも、下のチビどもも裕福な子女の通う学校に通わせてもらっている。ダニエリは自らが恵まれていると思わないわけにいかなかった。

 だが貧民街に住む彼らがこの街の最底辺かというと、そうではない。夜寝る家があるだけ彼らはマシな方であって、街には道をねぐらとし、財産といえばその身をくるむ毛布のみという者たちが溢れている。スコールをシャワーの代わりとし、道端をトイレと心得る彼らは、近づくと小便と汗との混じる饐えた臭いが鼻をついた。


 それと同じ臭いが、今日は隣を歩くガブリエルから漂っている。

「部屋に着いたら、すぐシャワー浴びるのよ。くさいの、自分で分かってる?」

 逃げるな、と言うかのようにしっかり腕を組んだダニエリが、六日シャワーを浴びていないガブリエルの肩のあたりに鼻を向けて言う。

「そりゃずっと留置場にいたんだもん。もう頭がいーのなんのって」

 言う先から痒みを思い出してまた頭を掻いた。頭上から漂ってきた新たな脂っぽい臭いにダニエリは顔をしかめながら、わざわざ臭いを嗅いで、妙にテンションの高い声を上げた。

「くっさーい!」



 ところがアパートに着いてもシャワーを浴びるわけにはいかなかった。部屋に入ることさえならなかった。六日ぶりに開けた扉のすぐ向こうにガブリエルの私物がまとめて積み上げられ、バリケードのようになっていたからだ。

 それだけではない。玄関口でふたりが戸惑っているとすぐに管理人が飛んできて、退去を言い渡したのだ。


「なんで? 家賃だってちゃんと払ってたよね? 警察に連れてかれたから? それなら無罪放免だったよ」

 短気に噛みつこうとするダニエリを抑えてガブリエルが問うたが、管理人はとにかく出て行ってほしいの一点張り。

「うーん。弱ったなあ。シャワーぐらいは浴びたいんだけどな」

「そんな問題じゃないっ! ガビ、あんたこんな理不尽許せるの⁉」

 あくまで冷たく事務的に事を進めようとする管理人と、怒りで炎を身にまとったダニエリとの間でガブリエルは呑気に頭を掻く。

「仕方ないよ。ま、なんとかなるさ」

 その呑気がますますダニエリの怒りに火を注いだ。

「あー、もおっ! じゃ、勝手にしたらいい! あたしはもう知らないからっ!」

 足を踏み鳴らして去って行くダニエリを、急いでガブリエルが追う。

「あ、荷物!」

「あとで取りに来るから、置いといて。二三日のうちにはなんとかするから」

 すぐ荷物を持って出るよう言わなければならなかった管理人も、ついそれを言い出せないままガブリエルが少女を追って駆けていくままにさせてしまった。


 アパートを出て数歩足を進めたところでガブリエルが追いついた。手をとられたダニエリは足を止めたが、ふり返ろうとしない。

「ダニー、待って。ごめん、また怒らせちゃったな」

「どうせ、なんであたしが怒ったかわからないんでしょ?」

 あさっての方向へ顔を向けたまま言うダニエリに、図星を突かれたガブリエルは「ごめん」としか返せない。

「いいよ、もう。ガビの鈍感はよくわかってる。度外れたお人好しも、いまに始まったことじゃないし」

 ようやくふり返って、ガブリエルを見上げた。

「うちおいで。またマカレーナに頼んであげる」

 そう言ったときガブリエルが邪気のないうれしそうな顔をするから、ダニエリはついなにもかもを許してしまうのだ。



  ***



 マカレーナは胸の前で腕を組んで、ダニエリに劣らず憤慨している。

「なんのいやがらせよ、それ? いいわ、そんなとこ、こっちから願い下げよ」当人の意向も聞かないで勝手に決めつけた。「とっとと引き払ってこっちに移ってきな。部屋はー、そうね、ラファエラの部屋がまだ空いてるから使っていいわよ」

 営業前でがらんとしたフロアは今日もナボが番をしていて、ちょうど水の撒いてある上をブラシで掃除しているところだった。その手を止め顔を上げて、にやっと笑う。薄暗いフロアに真っ白な歯が浮かび上がった。

「お、戻ってくるのかい? いーねえ、ピチピチの男の子」

「妙な言い方すんじゃないわよ。そんで、ガビ? わかってると思うけど! うちの子たちに手ぇ出したら、ただじゃおかないからね」

 ガブリエルの胸に指を突き立てる。

「出さないって」

 だがダニエリは、ガブリエルにその気がなくてもまわりが放っておかないと思うのだった。

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