第75話 州警察 ⑪釈放
連日取り調べを担当した刑事ふたりは、釈放される人間に用はないとでもいうのか姿をあらわさなかった。代わりに部屋の隅で書記をしていた女性警官がひとりで付き添ってくれた。
「六日も一緒だったのに、見送りしてくれないんだ。冷たいなあ」
呑気な調子で言いながら女性警官のすぐうしろをついて、殺風景な廊下を延々と歩いた。ときどきあらわれる扉はどれも閉じられていて、終わりが見えない道を行くような感覚に思わず背中をシャツのうえから掻くと、昨日から替えていないシャツに沁みこんだ匂いが鼻をついた。悪業と穢れに
ふたつコーヒーを淹れて、片方をガブリエルに渡す。受け取る拍子に相手と目を合わせたガブリエルは、毎日顔を突きあわせていながら、今日初めてその女性警官が凛とした美しい
「彼らも暇じゃない。すぐに別の取り調べが始まることになってる。用済みの人間にわざわざ構ってられないんだ」
そもそも彼らとのあいだに親近感を育む機会など毫もなかったろうに、この男にはそんなことを感じる能力が欠落しているのだろうか、と彼女は内心呆れた。一方のガブリエルは女性警官の冷たい言いようを気にかけることもなく無邪気だ。
「じゃ、きみは暇だったんだ? おかげで美人に見送りしてもらえてラッキー」
「うっわ、おっさん! お前いくつだ?」
「二十一」
「はー」
テーブルに肘をついた右手で額を押さえる。指の間から黒髪が零れた。
「なに?」
「七つも年下のガキに、そんなおっさん発言されるとはな」
おどろいた目で自分を見てくるガブリエルからうるさそうに顔を背け、
「なんだ?」
「やー、七つも上だなんて思ってなかったから」
長らく洗っていない頭を掻きながら善良そのものの顔で笑う。脂で固くなった髪から散る饐えた匂いを嗅がずにすむよう、女性警官は息をながく止めたまま席を立ち窓際へ歩いた。
窓の下には隙なく着込んだ男や女たちが、皆一様に黙ってそれぞれの職場のあるビルへと吸い込まれていくのが見える。その日一日のそれぞれの闘いを前にした朝の静けさ。
女性警官は窓の外、下界の人びとの営みへ目を向けたまま、背中へ向け言った。
「六日も取り調べて、結局たいした成果はなかった」
「だっておれ、悪いことしてねえもん」
「なんでも正直にやってたら正しく報われるなんて信じてるのなら、お前はばかだ」
「はは。おれもそう思う」
屈託なく笑うガブリエル。コーヒーの最後のひとしずくを口に落として、カップをテーブルに置いた。
「ま、調書は適当にでっち上げて、お前のオトモダチを攻めるのに使うけど」
「それ、おれに言っていいの?」
ガブリエルがまた髪に手櫛を入れるついでに頭を掻く。もうこの匂いにも慣れてしまった。
「ふん。半人前の学生がなに言ったって無駄だ。警察はびくともしない」
「そんな
最後まで甘いこと言う学生だと鼻で嗤って、クロエは話を打ち切った。
ロビーに出る前に屈強な二人の男性警官が合流し、手錠を外したうえで出迎えに来ていた少女に引き渡した。とたんに夢中で抱きつく少女。不潔な匂いをものともしない様子に眉をひそめ目を逸らしながら、迎えに来るのがマカレーナでないことをクロエは意外に思った。
「おかしいじゃないか、恋人が釈放されるのに」
あんなに身を張って助けておいて、それほどの男を迎えに来ないのはおかしいだろ。そう胸のなかで呟いたのを聞きつけたかのように、刑事課から組織犯罪課に転任したばかりの、クロエよりは五歳年上に当たる部下が言った。
「あれは恋人なんかじゃありませんよ。マカレーナはフアンの愛人。有名ですよ、この街じゃ。ふたつ並び咲く悪徳の華、ってなもんです」
ふうん。じゃああの女は、恋人でもない男を釈放するために必死に言い争ったってわけ。
放免されたガブリエルが腕に少女をぶら下げ出て行く後ろ姿を見送りながらクロエは、得体の知れない、なにか不穏な感情が胸にこみ上げてくるのを苦々しく押し戻した。
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