第74話 州警察 ⑩替え玉

 ホテル玄関につけてあったリムジンに乗り込むと、フアンは足を投げ出し横になった。

「ま、結果オーライだな。それなりに犠牲は払ったが、とにかく奴は釈放だ」

 隣に座ったマカレーナはフアンを見下ろし、彼の髪を撫でた。額にかかるのは濃茶色の癖っ毛。梳いてやると細く白い指の間でいったん真っ直ぐに伸びたあとすぐまた戻ってカールした。


「お前もえらい女にケンカ売ったもんだぜ」

 ほろ酔いの陶然とした眸でマカレーナはフアンの髪をまだいじって、その言葉に深い考えもなく返す。

「刑事課……だっけ? 若いのに、デキる感じだったわね」

「刑事課ってのは嘘だ。ヒメネス刑事ってのも嘘」

 よくわからない、という顔をするマカレーナに、フアンはからの盃を掲げて、乾杯の仕草をして見せた。

「組織犯罪課だよ。クロエ・リサ・フローレス・フェレイロ組織犯罪課長。まだ二十代だったか――お前と幾つも違わねえ。超エリートの切れもんだ」


「きれいな女だったわね」

「お前の方がきれいさ」

 他の男ならそんな決まり文句、右から左へ聞き流すところだが、フアンだけは出会ったときからマカレーナにお座なりの言葉をかけようとはしなかった。一方のマカレーナはなかなか胸の奥をフアンに晒さず、代わりに心の苛立ちだけは隠さずフアンにぶつけた。フアンを愛しているかと問われれば「まさか」と冷笑するだろうが、それが本心かどうかは自分でもわからない。ただ、彼がこの世で唯一の共犯者であることは確かだった。この、神様にうっかり忘れ去られた世界の涯で、運命に抗い生きる共犯者。

「あんたはだれよりあたしに似てるわ」

「そうかよ」

 同感だ、と声には出さず一瞬真剣な表情になって車の天井を睨んだ。それから気安い調子でマカレーナの肩に手をかけた。振り向いたマカレーナに嘘っぽい笑い顔をつくって、何気ない風に訊いた。

「なんであんな奴にこだわったんだ?」

「助けてって言ったのはダニー。あたしは知らないわ、あんな愚図」

 窓の外で景色が流れるのを見ながら言うマカレーナのうなじが美しいのにフアンはしばらく見惚れて、

「どうだかな」

 と低く呟くと目を閉じ、そのまま娼館の前にリムジンが着くまで口を開かなかった。



  ***



 ガブリエルは留置場で六日目の夜を迎えようとしていた。毎日殴られるのにも慣れて、もはや新たにできた生傷も気にならない。

 留置場のお客は日ごとに入れ替わり、いつの間にかガブリエルが一番の古顔になっていた。夜遅くまで飽きもせず続いた取り調べを今日も終えて鉄格子のなかへ帰ると、また新たなお客が増えていた。褐色というより漆黒という方が近い肌の上に、派手な色柄のシャツが腰の下まで垂れている。


「どうも」

 軽く挨拶して横になろうとしたところで、そのけばけばしい原色シャツの男が顔を寄せてきた。

「あんた、ガブリエルだな?」

 低声こごえで問うのに黙って頷くと、

「交代だ。明日あたり出られる筈だぜ」

 男はひねた笑顔でつづけた。黒い顔の真ん中にぽっかり口が開いて、奥から覗く歯がやけに白い。上の犬歯の欠けているのが胡散臭く見えた。


「どういうこと?」

「フアンが手をまわしたのさ。おれが入って、あんたは出る。ポリ公としちゃ勘定は合うってわけ」

「なんだよそれ?」

「だーかーらーさあ、フアンが取引したの。あんたを見逃す代わりに、ほかの奴を差し出せってな。ほかにも幾つか土産を献上したらしいぜ」

「おれを見逃すって……おかしいだろ? おれは、ダニーとマカレーナを守っただけだ。そのうち疑いが晴れて、解放される筈だろ。なのになんで」

「おいおい、本気で言ってんじゃねえだろな? なにが正しいかなんて関係ねえのさ。奴らがその気になりゃ、お前を二、三年ぶち込むなんて屁でもねえんだぜ?」


 訳知り顔で冷たく笑う男に、ガブリエルは考えこんでしまう。

「……おれのことは、まあ仕方ないや。でもあんた、それでいいの? おれの身代わりなんてさ」

「へ。おれに退け目を感じるってのかい? まったく甘ちゃんだな。フアンが決めたことだ、お前はそれに乗っかってりゃいいんだよ。いいか? 組織に属するってのはそんなもんだ。才覚のある奴は上を目指す、ねえ奴は鉄砲玉でもなんでもやって組織の末端に居場所を探す。運よく居心地いい場所を見つけたられたら、なにがなんでもしがみつく。そんで一時いっときでも旨い汁を吸えりゃ上出来だ」

 悟ったような暗い笑みを床面に向け、ガブリエルとはもう目を合わせない。

「おれの居場所は、こうやって組織のために牢屋にぶち込まれる役目だったってわけだ」

 そう言って男は、留置場にも慣れた仕草で寝る場所を空けさせると、易々と横になった。

 ガブリエルはまだ納得できずにしきりと男に話しかけたが、男の方はもう話は済んだというのか、うるさいという風に適当に相槌を打っているうち、鼾をかきはじめた。



  ***



 昨夜遅くまで考えこんでいたために久しぶりの朝寝を貪っていたところを、なかに入ってきた警官が腹を蹴って叩き起こした。

「なんだよ、もう取り調べ? 朝食もまだだぜ?」

 六日洗っていない頭を掻いて起き上がるガブリエルのシャツの襟首を掴んで、警官が一言一言吐き出すように告げた。

「今日は朝食はなしだ。とっとと荷物をまとめろ、うすのろ。外に出してやる」

「え」

 と思わず原色シャツの男を振り返った。男は涼しい顔を横へ向けている。



 手早く荷物をまとめて、原色シャツになにか言おうと顔を向けたとき、彼の方からすっと近づいて耳打ちした。

「ひとつ教えといてやるよ。この取引はおれにも都合がよかったんだ。報償金が出るんでな。その金で、おふくろの入院費が賄える。懲役喰らってる間は飯は食えるし。塀のなかでくたばっちまう危険もあるけど、そりゃ外にいたって同じだ」

 はっと目を上げたガブリエルに、

「ちょっとは気が楽になったか?」

 不吉なほどに白い歯を見せて、だが昨日とは異なる明るい笑顔で言った。


「あんたがおれの身代わりになってくれたこと、おれは忘れないよ」

「まったく、お前は甘ちゃんだな」

 男は笑って手を振った。

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