第64話 アロンソ ⑫王殺し
ふっと感じた背中の寒気に、考えるより先、本能的に右手へ身を
「避けやがったか。相変わらずの悪運だな」
後方からの声は、刻んだ年輪と同じぶんだけ皺が寄った響き。フアンがふり返り、そこに頭の禿げあがった男を見た。
「……サムエル。まだ生きてたんだな」
サムエルは『自警団』長老の一人。かつてフアンを組織から追放した際、強硬に彼の処刑を主張した一人でもある。あれから十五年を経てさすがに体力の衰えは隠せないが、その堂々とした構えに往年のフットボール選手の名残が感じられる。
揺らぎひとつない銃口をフアンの眉間へ向けたまま、サムエルが問うた。
「アロンソになんの用だ?」
フアンはグロックの銃口を下へ向けたまま答える。
「会いにいくのさ。爺いはおれの親父みたいなもんだ。最期くたばる前に会わねえままなんて、親不孝だからな」
「ふん。くたばるのはどっちのつもりだ?」
外では大量の警察車両が鳴らすサイレンの音が着実に近づいていた。『旅団』の部隊は大半が撤収を済ませたようだ。『自警団』の連中の姿も、邸内にはもう稀にしか目にしない。
「あんたは、逃げねえでいいのか?」
フアンが問うが、影絵のように逃げ惑う連中を横目に、サムエルは動かない。
「アロンソを殺すつもりなら、ここは通さねえ」
「……あんたのそういうところ、嫌いじゃなかったぜ」
グロックを握る右の拳に、フアンはゆっくりと力を籠めた。
「ふん。おれは最初っからお前が気に喰わなかったよ」
直後、銃声がふたつ、同時に轟いて――回廊に反響し、その甲高い音が徐々に小さくなっていき、やがて完全に消える前に――老いた体が、ゆっくり崩れ落ちた。
「あんたの腕じゃ無理なんだ。残念だよ……ほんとに」
もう聞いていない死体へぼそっと声かけ、ふたたびフアンは奥の書斎へと大股で歩きはじめた。陽はもうほとんど海に沈んで、空には最後の残光が雲を照らしている。
アロンソの書斎は回廊の一番奥で花の匂いに囲まれていた。ハイビスカス、ブーゲンビリア、アザレア、ジャカランダ、フアンには名も知れぬ花々……。
三十代の半ばで命を落としたアデライーダは花が好きだった。彼女が勝手に植えた樹々はその死後も気儘に枝を伸ばして、四半世紀のあいだに花の一大王国をつくった。年じゅう狂ったように咲き誇る花々は、神の前で婚姻を結ぶ機会を得ないまま逝ってしまった愛人の墓標のようだ。
夕暗がりのなかで息づく花々がフアンを迎え、十五年ぶりにフアンはその扉を開けた。扉に鍵は掛かっていなかった。
「爺い。最期を見届けに来てやったぜ」
書斎のいちばん奥に座る老人のほか、室内に人の影はなかった。
「やっぱりお前が来たな」
革張りの椅子に深く腰掛け、アロンソは窓の外の喧騒に耳を澄ませていた。幽かに射す夕陽が、七十を目前にしてまだ精力の衰えない横顔を浮かび上がらせる。
「フアン。お前がおれの跡を継ぐんだろうとは思ってたよ」
「爺い……ずいぶん取り巻きが減ったじゃねえか」
ふたり以外にだれもいない室内をぐるっと顎で指して言った。外から散発的に届く怒号と銃声もどこかわびしい。一刻ごとに弱くなる光の下で、アロンソの顔が皮肉に哂っているように見える。
「ギャングの晩年なんて、そんなもんだ。ま、無事晩年を迎えられるだけ幸せ
「……今からだって、引退して楽隠居って道がなくはねえぜ?」
銃を下ろしたままフアンが言うが、アロンソは首を振った。
「くだらねえ。おれに染みついた五十年分の返り血が、そんな虫のいいこと許すはずがねえのさ。『自警団』は役目を終えた。おれも消えるさ」
「心残りはねえのか?」
フアンの問いに、アロンソは目を瞑る。
「半世紀もこの街を仕切ってきた。おれなりに義務は果たしたぜ。最後に、お前に役目を引き継いで死ねば、おれの仕事は完成だ。死んだあとは地獄に落とそうが、唾吐きかけようが、好きにするがいい」
「待てよ、まだ終わりじゃねえだろ。これがあんたのユートピアだったのか? ……こんなのが」
ユートピアと聞いて、初めてアロンソの顔に笑みが浮かんだ。
「……憶えてたか。そうだよ、結局完成はしなかったがな」瞼を上げると、おだやかな目でフアンを見つめる。「言ったろ? ほんとのユートピアなんてねえんだ。でもやっぱり作らずにいられねえのさ。……お前だってそうだろ?」
口を
「さ、話は済んだろ。もう引き
フアンの顔が歪む。
「なにか言い残すことぐらいねえのかよ、親父」
「なんだ、まだ
正門と通用門の二手に分かれてアロンソ邸に突入した軍警察がまだしつこく抵抗する残党どもを排除し、豪壮な邸宅の奥の院に辿り着こうとしていたとき、最奥の書斎から一発の銃声が聞こえた。
踏み込んだ軍警察の精鋭がそこに見たのは、眉間を撃ち抜かれて机に突っ伏したアロンソの死体と、部屋中に散らばったブーゲンビリアの赤い花だった。
フアンがアロンソの『自警団』を叩き潰して街の最大勢力となった日。街じゅうの者がそれを知るのに、一夜も必要としなかった。
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