第38話 ダニエリ ⑬虎口
ダニエリは、すぐ横を通り過ぎる男女二人連れに注意を払わなかった。
数日ぶりにガブリエルと顔を合わせて浮かれている少女には、ほかのことは目にも耳にも入らない。
「ねえガビ、もうひと口」
「だめだって。これ以上やったらおれ、夜まで持たねえもん」
「けち」
テーブルを通り過ぎるとき耳に入った会話に、マカレーナの口許が
いい話聞いちゃった。もしこのあと死んでも、最後に聞いたダニーの声がこれなら、笑って死ねそう。あーでも、この子をからかう前に死んじゃうのはちょっと心残りね。
すぐそばで目を閉じ笑みを浮かべるマカレーナには気づかず、ダニエリは氷だけが残ったプラスチックコップのストローを意味もなく噛んで、ガブリエルが最後のフェイジョアーダひと
だがふっと、ダニエリはフードコートの現実に引き戻された。
漂ってきた香りに気づいたのだ。それは身に馴染んだ香り。いつもマカレーナのつけている香水に、体臭が雑じった匂い。間違いようがない。子供の頃からアナマリーアとふたりマカレーナの部屋に入り浸って、あたたかい記憶とともに胸の奥にまで沁み込んだ匂い。
思わず立ち上がって周囲を見回した。
不思議な顔でダニエリを見上げるガブリエル。
ダニエリの視線の先には、背を向けゆっくり歩む細身の女。すぐうしろには黒服の男がぴったりと寄り添う。
ダニエリからは、前を歩く女の顔は見えなかった。そのうしろ姿は、マカレーナらしからぬ装いに身を包んではいる。肩を露出したシャツ、ジョギングにでも行くかのようなトレーナー風パンツ、帽子は少年がかぶるようなワークキャップ。
「しゃんとした格好しないとね。『太陽』の女主人がみっともない
その言葉通り、マカレーナは部屋着のような格好で外に出ることは決してない。
だがその一見
シャツの上からでも分かる均整のとれた体のラインが、肩の病的なほど白く輝く肌が、悠然と歩む物腰が、帽子に束ねきれずこぼれ落ちる豊かな銀髪が――すべてこの女がマカレーナだと告げていた。なにより、彼女を見るなり吸いついて離れなくなる周囲の視線が、この女の絶世の色香を証していた。
がたんと音を立てて立ち上がったダニエリにも知らぬ顔で歩きつづける前方の女に、声をかけようとしてダニエリは途中で止めた。
なにかが変だ。
服装だけではない。
例えば連れの男。マカレーナにぴったり体を寄せて、いまにも背中から抱きしめかねないほど。店のなかならともかく、昼の往来でマカレーナは男にこんな
そして、男の格好。この暑いのに大振りのジャケットを羽織って、目深くかぶった帽子から額にも頸筋にも大粒の汗を垂らしている。
違和感の正体が分からないまま凝視していた男の、右手を突っ込んだポケットから鉄の黒色がちらっと覗くのが目に入った。――銃だ。
ダニエリはあわてて椅子をテーブルの下に押し込んだ。がたがたっと音が鳴るが男女二人組は気にせず出口へと歩みをつづける。
「どうしたの?」
ダニエリのさっきからの不審な動きに、ガブリエルが問うた。
「しっ」
小声で制してダニエリはふたりの方を目で追った。つられてガブリエルも小声で、
「あのふたりがどうかした?」
勢い、ガブリエルの顔がすぐ間近に来る。心臓が高鳴ったが、それはマカレーナのただならぬ様子に対するものだと、そう信じてダニエリは疑わない。
「あれ、もしかしてマカレーナ? なんでこんな……」
言いかけるその口を左手で押さえつけて、自分の唇に右のひとさし指を当てた。
「黙って。あの様子、いつもと違う」
そのままふたりのあとを尾けだした。ガブリエルも砂糖黍のジュースを飲み干すと、すぐダニエリのあとを追った。
***
男が誘導する駐車場まではもうほとんど距離を残していなかった。最後に暗い通路を過ぎれば、もうゴール。車に乗せられどこかへ連れ去られ、さてその先は……?
「痛いのはやだなあ」
「なんか言ったか?」
男がマカレーナの顔を覗きこむ。そこにあったのは震えるほどの美貌――思わず心臓が
「やさしくしてね……って言ってんの」まっすぐ男の目を見つめて。
つられて男はうっとり両の手を前に差し出した。霞をとらえるような覚束ない手がマカレーナの体を探す。
マカレーナが男の上着から拳銃を抜き取っても、男は気づかない。マカレーナの眸から目が離せないのだ。
一方マカレーナも、すこし困惑していた。
軽い気持ちで冒険してみたけれど、これほどあっさり引っかかるなんて、この男。ちょろいなあ、ちょろ過ぎる。こんなのでアロンソファミリー、大丈夫なのかしらん。
さて。
マカレーナはごくっと唾を呑んだ。
一歩踏み出せばもうあとへは戻れない。ここらでひとつ、運試し。賭け
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