第37話 ダニエリ ⑫拉致

 折しも時刻は午後一時、人のあふれるフードコートで男もあからさまに銃を取り出しはしなかった。ただ服の下に隠した銃を目線で示して、言葉なしに伝える。おとなしくついてこいと。

 マカレーナは逃げるどころか、男の肩に手をかけ爪先立つと、その耳たぶに唇を寄せた。


「あんた、こんなとこでぶっ放す気?」

「おまえが逃げるならな」

 うわずった声が若い。耳から唇を離して、あらためて男の顔を見定めた。そこに見たのはマカレーナよりまだ年下だろう幼い顔つき。

「ふうん」

 マカレーナは余裕のある笑みを見せた。

「甘いね。あたしが独りでのこのこ出てくると思う? あんた、囲まれてるわよ」

「そっちこそ。おれ一人なわけないだろう? 市場の周りに二十人ばかりが張ってるんだぜ。フアンの奴らが出てくるなら返り討ちだ。好都合ってもんさ」


 ブラフに引っ掛かってあっさり手の内を明かすあたり、やはりまだ若い。

 だが、二十人。多少のサバは読んでいるとしても、振りきって逃げるには敵が多すぎる。


 なだらかにうねる腹部に銃口の冷たさを感じながら、マカレーナは周囲を見まわした。それらしいやくざ者の姿がたしかにちらほら見える。

 彼らの狙いは明らかだ。マカレーナをさらって餌にして、フアンを引きずり出そうというのだろう。


 最悪、死体にしてもいい。そのぐらいのつもりかな?

 マカレーナは相手の出方を推した。

 出した答えは、ノー。生かしておいた方が断然使い道の巾は広いのだ。貴重な交渉カードをむざむざ殺すなど、できれば避けたい筈。つけ入る隙は、そこにある。

 だが――騒ぎになれば、市場の客たちも巻き添えを喰らうだろう。フードコートにはダニエリがいる。


 と、ここまで考えを巡らせると――

「ふうん。あたしを真ん中に銃撃戦なんて冗談じゃないわね。分かった、降参」

 ふっと笑って、肩をすくめた。

 脅しにおとなしく従うのは、本当はマカレーナの趣味ではない。だがここで下手な抵抗をして、ダニエリを巻き込んでしまうようなシナリオは断固拒否だ。


「ものわかりいいじゃねえか。助かるよ」

「で、あたしをどうする気?」

「騒がねえでついてきてくれりゃいい。狙いはフアンだ。奴が出てきさえすりゃあ、あんたは自由だ」


 その言葉を真に受けるほどマカレーナも世間知らずではないが、ここは乗っておく。

 男は、周囲からの邪魔だてなしに拉致したい。女は周囲を、つまりダニエリを巻き込まずに済ませたい。マカレーナがおとなしくついていけば、互いのねがいはめでたく叶う。

 艶然とうなずき、マカレーナは促されるまま前へ進んだ。その横顔に、男はつい見惚れてしまう。


「あんた、うわさ以上に綺麗だな。ちぇ、フアンの野郎、うまいことやりやがる」

「そ? ありがと。うちの店に来れば相手したげるわよ?」と澄まし顔でマカレーナ。魅入られたように顔を近づけてくる男の唇を、人差し指でやんわり押し返しながら。

 唇に触れる指の腹のなめらかな質感に、鼻をくすぐる甘い匂いに、男はうっとり目を閉じる。隙の多い男だ。マカレーナは苦笑した。

「で、どっちに進めばいいの? 道案内してくんなきゃ、ねえ?」


 すると夢からまだ覚めやらないまま、男はあわてて取り繕った。

「こっちだ。さ、おとなしくしてくれよ」

 市場に併設された駐車場へとつづく出口を男が指し示すと、マカレーナは女王らしくしゃんと背筋を伸ばし唇を結んで歩きはじめた。


 だが進む向きがよくない。このまま進むと、ダニエリたちのテーブルのすぐそばを通ることになる。さりげなく別の出口へ向きを変えようとするマカレーナの肩を引っ張って男は、

「妙なことすんなよ? こっちだ」

 と、いよいよダニエリのテーブルの方へと押しやった。



 マカレーナに背を向け座るダニエリとガブリエルは、男に連れられマカレーナが近づいてくるのに気づかなかった。一方マカレーナからは、ふたりの横顔がときどき見えた。幸せそうにガブリエルを見つめる、打ち解けた笑顔。

 男が苦手のダニエリが、男の前でこんなに顔を輝かせているなんて。


 どうか気づかないでよ、とマカレーナは心中に念じて、同時に自身の装いを見あらためると、天を仰ぎたくなった。

 肩から先が露わになった部屋着のシャツは、サイズこそ大人に合わせているが、見た目は小娘の着るよな少女アニメのプリント柄。年明けの誕生日、子供たちがお小遣いを出しあいプレゼントしてくれたそのシャツは、まだ八歳のアンジェリカのチョイス。笑いをこらえるダニエリを、マカレーナは睨んだものだった。

 そして、下は黒のトレーナー。アパートを飛び出すときは着替えるなんて思いもつかなかったとはいえ、よりにもよって、こんな服。


「まさか」

 ハッと気づいて、両手で胸を掴んだ。

「げ」

「どうした?」と黒服が問う。

「なんでもないわよ」

 ……ノーブラじゃん。痛恨。そんなことにも今のいままで気づかないほどテンパってたとは、娼館の女王としたことが。

 だがそんなだらしない格好も今となっては怪我の功名、図らずもダニエリへの目晦めくらましになっている。あたしがこの格好で外に出るなど、あの子は考えもしないだろう。

 そう胸のうちで呟いて、マカレーナは自ら慰めた。


 右の屋台を覗く風に、ダニエリから顔を背けてゆっくりとテーブルへ近づいていく。

 後ろについた男の股間が妙に固くなって、さっきからときどきお尻に当たるのは大目に見てやることにした。


 とにかく目立たないこと。ダニエリに気づかれないこと。

 それだけ考え、マカレーナはダニエリの隣をゆっくり通り過ぎた。

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