第35話 ダニエリ ⑩市場
ダニエリの電話にかけてみても、反応はなかった。
「ダニーって今日学校行った?」
女たちは顔を見合わせた。互いに「知らない」というしるしに首を横に振る。
つづけてアナマリーアの番号を呼び出すマカレーナに向かって、遠慮がちにアレクサンドラが手を挙げた。
「あの子なら、朝のうちに出てった……みたいよ?」
「どこ行ったの!?」
取って食いそうな勢いでアレクサンドラの両肩を掴んだ。
「し……知らないよ、あたしが『おはよー』って言っても返事しないで出てったもん」
「あの、ばか!」叫ぶと、マカレーナは勝手口へ飛び出した。出がけに振り返って、「ナボはフアンかパブロに連絡とって!」返事を待たず、止める間もなく走りだした――
***
その日ダニエリは朝から出かけて、久しぶりに大学へと足を延ばしていた。だが小一時間ほどキャンパスの中を歩き回ってもやはりガブリエルには会えないまま、がっかりした気分でキャンパスを後にしたのだった。
朝大学へ向かうときは軽やかだった足が、帰り道はやたら重く感じた。見上げた空は真っ青なのに、ダニエリの心中にはまた黒い影が育ちかけていた。あわてて宙にガブリエルの顔を思い描いて、罵ってみる――たまには元気な姿を見せろ、ばか! 同時にお腹が鳴って、苦笑い。すこし気が晴れた気がした。
「もう知らない」
明るく声に出してみて、ダニエリは首を振った。――ガビのことなんか、気にしてやるもんか。さあ、腹ごしらえだ。
ちょうど見えてきた公設市場に入ると、そのなかにあるフードコートをダニエリは目指した。
サンドウィッチ、ハンバーガー、海鮮、寿司、パスタ……。テーブルが五十台ばかり並ぶフードコートを囲む屋台には、さまざまな料理の看板が掲げられている。
手早く食べられるならなんだっていい。そう思って客の並びが一番少ないホットドッグの屋台へ向かったとき、大きな箱を胸に抱える青年に目が行った――そしてそのまま釘づけになった。
動悸が高まる。頬が緩む。目に涙が浮かぶ……不覚だ。
青年は抱えた箱を、魚を卸す店の前に並べていた。そのうしろからそっと忍び足で近づくダニエリ。背後に立つと、スキップのように弾む声をかけた。
「ガビ!」
その呼び声に、汗を撒き散らしながら振り返るガブリエル。数日ぶりの姿をダニエリは存分に見つめた。
視線の先でガブリエルは、思いがけない場で会ったダニエリに最初は驚いたのが、すぐに、つつみこむような笑顔に変わる。ダニエリにまだまとわりついていた黒い感情の残滓が、その笑顔ですべて吹き飛んだ。
抱きつきたいのを我慢して、代わりに拳で二の腕あたりをこづく。手の甲から汗に混じってガブリエルの体温が届いた。
二度三度と腕をこづいて、ダニエリは説教口調でえらそうに言った。
「学校行かないで、なにやってんのよ」
「……ダニーがそれ言う?」大げさに肩をすくめて。「学校行ってないのはそっちだろ? おれは授業は午後からなの」
「え? いつも?」
「そういう仕組み」
道理で、午前中大学へ行っても会えないはずだ。ダニエリはがっくりと
「こら、サボってねえでとっとと次の箱持ってこーい」
「はーい、すんませーん」
奥から顔を出した店主の親爺に元気よく返事して、ガブリエルが倉庫へ足を向ける。
「じゃ、仕事中だから」
手を振ってダニエリを置いて行こうとするのを、ダニエリもうしろからついていった。
「あたしも手伝ったげるよ」
「だめだめ、結構体力使うぜ?」
「じゃ、応援?」
すぐあとを早足で歩きながら言うダニエリに、思わず噴き出すガブリエル。
「応援って。なんだよそれ」
「いーじゃん久しぶりに会ったんだしさ。それに――」
そのときポケットの携帯電話が鳴った。
こんなときに、邪魔!
苛だちとともにダニエリは呼び出し音を無視した。市場の往来は人で溢れて、並んで歩くガブリエルも、それがダニエリを呼ぶ音だとは気づかない。
「それに、ガビだって、ひとり黙々と働くよりか、隣に可愛い子がいた方が楽しいよ?」
「あー自分で言うかそれ。言わなきゃ可愛いかったのに」
憎らしい笑顔で言うガブリエルの足を、思いきり蹴ってやった。
今日は人を蹴るのにうってつけとはとても言えない、丈の短い水色のワンピース。ダニエリは自身の装いを見下ろし、満足した。
うん、可愛い。ガビを蹴るのには向かないけれど、そんなことどうだっていいや。
「市場なんかになんの用だったんだ?」
ガブリエルは三往復して運んだ魚を並べながら、ダニエリに背を向けたまま訊いた。額の汗をTシャツの端で拭うとき、意外と逞しい背中が露わになってダニエリはどきっとする。
「それは――」
あんたを探してるうちこんなとこまで迷い込んじゃったのよ――と心では威勢よく言うが、口には出さない。代わりに腹の虫がまた鳴った。ガブリエルの顔が緩む。
「いい返事だ。そろそろおれ仕事上がるから、そしたら一緒に昼飯食う?」
――食う! 本当は大声でそう答えたいのを、心のなかだけに留めた。
代わりに、口ではもったいつけて返す。
「ええええー。あんまり待つのいやよ? もう腹ペコなんだから」
だが顔がにやけるのはどうにも止められなかった。
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