第34話 ダニエリ ⑨犠牲

 店を閉めて三日。

 街ではきな臭い小競り合いがあるものの、まだ大きな衝突に発展することはなかった。三階の部屋の窓に頬杖ついて、目の前のトネリコの木に巣くったインコの雛がちいさな羽根をふるわせる、その姿を眺めるのがマカレーナの日課になった。ずっとフアンからの連絡は途絶えている。代わりにナボがカルテルの動向を伝えてくれるところによると、フアンにしてはめずらしく、今回は力任せな争いを戒めているのだという。


「ふうん。まさか怖気づいたなんてことはないんだろけど」

 ナボの話にちょっと考えこんだあと、顔を上げマカレーナは陽気に笑った。

「ま、なにか考えがあるんだろうさ。安心しな、最後は勝つに決まってる。あいつ、ここぞってときは頼りになるからねえ」

 そう言いながら娼館の女たちにはますます警戒するよう注意した。だがマカレーナ自身が隙あらば外へ出ようとするのに、毎日カタリナたちは気を揉まされるのだ。


 今日も出かけようとしたところを、カタリナに捕まえられ部屋へと戻されていた。「家ん中もう飽きたんだって! 退屈で死んじゃう! ちょっとだけ! ちょっとだけだからー」

 長身に引きずられながら哀願する声が廊下に響くと、子供たちがくすくす笑う。それにつられて、部屋で鬱屈していた女たちも笑った。



  ***



「あんた、『太陽の娘』のだろ?」

「ん? 店で会ったことあった?」


 その夜、マヌエラが単身出歩いていたのは、馴染みの男に会うためだった。辻立ちはマカレーナに厳に戒められていたが、店での収入を絶たれた女たちは顧客おとくいと連絡をとっては、馴染みの客の許へと通って細々と稼いでいた。

 ただしその夜マヌエラの通った相手は、彼女に金を渡すのではなく、金をむしり取ったのだったが。つまりはヒモだ。

 娼館の女たちは相手の男を非難し口々に別れるよう忠告したものだが、恋する女が素直に聞くわけがない。ますます依怙地になって稼ぎのすべてを男に貢いだ。

 マカレーナは「放っておきな」と言っていた。「本人が幸せってんならそれでいーじゃん」



 そのヒモとの情事を終え帰ってくる途上で、マヌエラは声をかけられたのだった。男の顔には覚えがなかったが、毎夜複数の客を相手にするマヌエラにとっては特段めずらしいことではない。

「んー。今日はもう店仕舞いなんだけどなー」

「そう言わずにさ」

 客の男が取り出した札入れに、マヌエラの目は吸い寄せられた。正直、お金は欲しい。店が閉まって収入が激減してるとこぼしたときの、愛人が見せた不機嫌な表情がマヌエラの脳裏にちらついた。金が切れれば彼の心が離れてしまう。

「七百で一時間よ?」

「OK」

 迷いなく金を差し出した男の柔和な表情をマヌエラは作り笑いじみてると感じたが、すぐに忘れた。それより、帰りが遅くなると心配するだろうマカレーナにどう言い訳するかということの方が頭が痛かった。



  ***



 頑丈なシャッターで閉じ切った娼館『太陽の娘』の前にマヌエラが真っ裸で棄てられているのを見つけたのはあくる日、ひる少し前。防犯カメラに映る怪しいミニバンに気づいてナボが表に出たときにはもう、バンは姿を消して代わりにマヌエラだけが残されていたのだった。


 四日客を入れていないホールに運び込まれたとき、既にマヌエラの息は絶えていた。イタリアから運んできた革張りのソファに横たえられた遺体には出血らしい出血はないが、どれだけ殴られたのか体じゅう蒼く変色して、脚はあり得ない方向に曲がっている。

 硬直したマヌエラの体を、三階から飛び降りてきたマカレーナが揺すぶった。

「マヌエラ、痛い? どこやられたの? どうしてほしいか言って!」


 声を失いふたりを見守る女たちを代表してカタリナが、マカレーナの腕をとった。マカレーナは振り向かない。

「離してやんな、マカレーナ。返事なんてできねんだ」

 もう口を開くことのないマヌエラは、顔にもあざこしらえていた。

「マカレーナ。ゆっくりやすませてやろうぜ、な?」

 やっとマカレーナを引き離すとふたたびソファに横たえられたマヌエラへ、ウルスラがタオルをかけてやった。



 マヌエラを見下ろし身動みじろぎしないマカレーナに、ナボが紙を手渡した。機械的に受け取ったマカレーナはそこに書かれてある文字に目を落とすが、なにも頭に入ってこない。

「なんて書いてんの?」

「ん。意味なんかないさ」

 その手紙は、マヌエラの口に咥えさせられていたのだという。メッセージはフアン宛に、ただ一言。


『出てこい、フアン』


 マカレーナははっとして周囲を見まわした。それからカタリナを見上げて、

「子供たち! あの子たちは?」

「学校だろ?」

「迎えに行かなきゃ!」

 飛び出そうとするマカレーナを、カタリナが押さえる。

「まあ落ち着きなよ。奴らも学校までは来ないさ」



 カタリナがそう言うのも根拠のないことではなかった。

 無法者の集うカルテルにも掟のようなものがある。その一つが、子供には手を出さない、というものだ。長くこの街の裏社会を支配したアロンソの下では特に、矜持とともにこの不文律は守られていた。

「あの子たちよりあんたの方が心配だよ。奴らが狙うとしたら、真っ先にマカレーナだ」

 カタリナが言うと、ウルスラがつづける。

「それと、あたしたち娼館の女はみんな危ないね。あー、あたしも子供のふりしちゃおっかなあ」

「……無理あんじゃない?」

「なによおー、あたしが年増だって言いたいの?」

 ウルスラの不満そうな声に、女たちがそろって笑った。痣だらけのマヌエラの体をさすって、目には涙を浮かべて。



 ふとマカレーナが顔を上げた。

「……ダニーはどこ?」

 ダニエリとは昨日またケンカしたまま、今日は姿を見ていない。


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