第23話 ガブリエル ⑪娼館アパート

「いらないわ、子供扱いしないで」

 帽子を返したあと、ガブリエルが家まで送るというのをダニエリは一度は断った。

 だが、ダニエリの言うことに耳を貸さないガブリエルが勝手についてくるのを断固振り切る気はしなかった。


 ふたり歩いているうち陽がかげり、海からの風が吹き出した。海岸へ目をやるといつもはエメラルドグリーンの海が、いまは波が立って白の色が勝っている。スコールが近いのだ。

 空に追い立てられるようにふたりはだんだん足早になった。早足につられてダニエリは、気持ちまで余裕をなくしていく気がする。つい口調も挑戦的になった。

「……これで分かったでしょ。あたしは、ガビにかばってもらう資格ないんだ」

「ははっ。ダニーは、自分がいい子だってわかってないんだな」

「いい子は盗んだりしないわ」

 不貞腐れ顔で言うダニエリの頭を、ガブリエルが二度軽く叩いた。

「自分じゃわからないんだな。ダニーはほんとはいい子だよ」

「わかってないのはガビだよ」と声に出さず胸の裡だけで言ったあと、ダニエリは黙ってしまった。



  ***



 ふたりがアパートの前に着いたとき、ちょうど雨がぽつぽつと道に落ちてきた。

「ここよ」と素っ気なくダニエリが示したのは、あからさまに誘惑するランジェリー姿の女が描かれた看板。壁にはデフォルメされた裸の女。呆気にとられるガブリエルの手を引いて、ダニエリは裏口の方へ案内した。

 表から裏へと回るあいだにも雨は大粒になって、もう街のあちこちをうるさく叩きはじめている。


「びっくりした? だから娼婦の子だって言ったでしょ? あたしここに住んでるんだー。子供の頃からだから、もうなんとも思わないけど」

 ……ガビは気になる? と問いたくなったが口には出せない。


 代わりにそっと隣りのガブリエルの表情を窺うと――その顔はなにか感銘を受けたように輝いている。

「……驚いた。すっげえ看板……あんなの初めて見た! 兄貴に自慢してやろ」

「なにそれ?」ダニエリの、張っていた肩の力が一瞬で抜けた気がした。途端に口も心も軽くなった。「観光名所じゃないんだからね。人んに失礼よ」

「すごいなあ。都会にはほんとにあるんだなあ」

 ダニエリの注意も耳に入らないように、感嘆の声を上げるガブリエル。ダニエリは思わず笑ってしまった。


 裏口の扉を開け中へ入ろうとしたところで、ガブリエルは「じゃ」と言って背を向けた。そのまま本降りのスコールのなかへ飛び出そうとするTシャツの裾を、あわててダニエリが捕まえる。

「こんなスコールに打たれようなんて、あんた、正気? ちょっと雨宿りしてきなよ」

 言ったあと、ガブリエルと目が合うとつい横を向いてしまった。

 ぽっと赤くなった顔を隠したのだ。ダニエリが男を部屋に上げるのは、これが初めてだった。そう気づくともうガブリエルの目をまともに見れなくなって、そっぽを向いたまま言った。

「ほ、ほら、気にしないで入ってよ。お茶ぐらい出すからさ。裏口からなら、店のたちとも会わずに済むよ」



 ところが階段を上がると、上ったところでカタリナに出会でくわしたのだった。ダニエリは天を仰いだ。そして、それを見るなり声かけるカタリナ。


「ダニー! マカレーナが心配してたよ、顔出してやんな。ケンカしたんだって? たしかにあの子は口うるさいけどさ、あんたのこと気にかけてんだ、察してやんなよ。って、えええーーっ⁉」


 一息に言ったあと、ダニエリがうしろに男を連れているのを見つけて、最後は思わず高い声になった。

 廊下じゅうにとどろく悲鳴にも似た驚きの声に、ダニエリは片耳ふさいで迷惑顔。構わずカタリナはその肩を両手で掴んで、嬉々として揺すぶった。


「ダニー、あんた。男なんか連れて! うっわ、どういうこと? てゆっか、恋人? 恋人? いつの間にそんなことになってんだよ? え? ねえさんに話してごらん、ん? ん?」


 際限なくカタリナが問いつづけそうなのを、「そんなんじゃないよ」とダニエリがうんざりした調子で遮った。

「助けてもらったんだ、今日。そんで送ってもらって……スコールのなか帰すわけにも行かないしさ。マカレーナには内緒にしてよ?」


「誰に内緒だって?」

「げ。マカレーナ」

 薄暗い廊下の向こうからすっと現れたマカレーナ。ダニエリはあわてて言い訳する。

「マカレーナ。誤解しないでよね」

「なにが? めでたいじゃん、ダニーが男連れてくるなんてさ」

 マカレーナの笑みが、心なしか意地悪シニカルな色を帯びている。

「だから、違うんだって! このひとは、あたしを助けてくれたってだけ。そんで――」

「なんで助けてもらったの?」

 途中で遮り問い詰めるマカレーナ。返そうとして、ダニエリは言葉に詰まった。


 ……しまった。

 思わずダニエリは顔を背けてしまう。盗みで警察に捕まりかけたなんて言ったら、長い説教になる。そして最後にはまたケンカだ。


「ダニー」

 黙りこんだダニエリに、マカレーナは真剣な顔を寄せた。

「またやったんだね? 今度はなにを盗ったの?」と静かな声で問うマカレーナに、ダニエリはうつむいたまま答えられない。


「責めないでやってくれよ。盗ったんじゃない、この子、ちゃんと返したんだ」


 脇から突然口を挟んだ男を、マカレーナは冷たい目で見た。今まで存在に気づかなかった、とでも言うように。

「ご苦労さんだったわね、色男。なにかいいことできるとでも、期待した?」くびすじを撫でた手を胸へ這わせると、心臓の上をどん、と突いた。「関係ない奴は素っ込んどいて」

 獰猛な目の色で言い放つマカレーナに、ダニエリが抗議する。

「あたしの友達よ、関係ないって言い方はない!」

「……ふうん」


 そしてガブリエルを上から下まで見直して、ふっと気づいた。

「あれ? あんた、なんか見覚えあるわね。どっかで会った? お店かな?」

 そのマカレーナの言葉に、ガブリエルが笑う。

「はー。思い出してくれたか。おれは最初に気づいたよ」

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