第7話 マカレーナ ⑦フアン

 マカレーナは気分屋。ひどく親切でやさしいと思えば、次の瞬間には悪魔のように残酷な仕打ちをする。自由で、何者にも遠慮しない。

 大金の入った鞄を抱えたままマカレーナを諦めきれない男を置いて、またホールをおよぎはじめた。



「ど? やっていけそう?」

 歩きだしてすぐ、ソファで男の膝の上に座る赤毛の娘に耳打ちすると、娘はちいさく頷いた。DVの夫から逃げ出した彼女が、伝手つてを頼って娼館に併設されたアパートに身を寄せたのが一週間前。店に出るようになったのは昨日の夜からだった。

「つらいときは言うんだよ? それと、ひどい客がいたらちゃんとあたしに言いなよ、蹴っ飛ばしてやるからさ」

 娘の頭をぽんと叩いて笑みを見せると、すぐに背を向け奥のテーブルへと向かう。


 すると通りがかりのテーブルから手が伸び、マカレーナの裾を掴んだ。だが黒いドレスは小魚のようにしなやかに男の手を逃れる。捕まえ損ねた男がソファに沈んだ体から声を上げた。

「マカレーナ!」ふり返るマカレーナに、「おれともっとでかい街へ行こう。きっと幸せにする!」

「ありがと。気持ちだけもらっとくわ」と投げキッス。



 ほうぼう寄り道した末に辿り着いた一番奥のテーブルでは、暗闇で男女が抱き合っていた。マカレーナに気づいた女が顔を上げる。

「ああ、マカレーナ。今日はご活躍だったらしいね。長く太陽に当たって疲れたろ? あとはあたしが見とくから、上でやすんできなよ」

「いいの?」

 返事の代わりにと笑うのは暗いホールに褐色の肌が溶けこむ大柄な女。その立派な体躯は、上に乗っかる男の方が頼りなく見えるほど。ダンスのあとの汗が光る額からは、細かく編んだ縮れ毛が幾本も垂れている。


「じゃ、頼んだわね、カタリナ」

 手を振って裏へ抜けようとするところで、今度は突然現れた若い男に手を握られた。


「マカレーナ、本気なんだ。あんな男といつまでも一緒にいちゃいけない。おれと逃げよう。絶対後悔させないよ」

 青年の顔が赤いのは酒に酔ったか、緊張のためか。よく見ると青年は端整なかおだちをしている。マカレーナは甘いため息を吐いた。

「ほらほら。酔っぱらっちゃったのね? だめよ、酔いが醒めたら、あんた肝を冷やすわ。フアンに睨まれるよなこと言わない方がいい。危ないわよ」



  ***



 ホールを抜けて部屋への階段を上ろうとすると、階段にスーツを着込んだ男が座りこんでいた。いつまでも蒸し暑さの退かないカリブの夜に、ネクタイはつけず、シャツもボタンを二つ外している。やわらかい襞のかかった光沢あるグレーのスーツは、汗をたっぷり吸っていようと一目でそれと判る高級品だ。そんな服を着ながら一世紀分の脂が染みついたような階段を気にもせず腰を下ろす男を、マカレーナは醒めた目で見下ろした。


「フアン、こんなとこにいたの? ホールに出てきたらよかったのに」


 フアンは眠りからいま覚めたかのような顔を上げ、マカレーナを見た。

「……ふん。香水臭いとこなんかごめんだ」

「あんたの硝煙の匂いの方が、よほどな匂いさせてるわよ」

 フアンが座るせいで段の半ば以上が占められた横、狭い隙間にマカレーナは足の置き場を見つけてハイヒールを進めた。

「うるせえ」

 フアンはそのまま通り抜けようとする足首を掴んだ。拍子に体勢を崩して、階段に手をつくマカレーナ。


「なにすんのよ。あっぶないなあ」

 マカレーナの非難を無視して足首から腿裏ももうらへと指をすべらせるフアン。マカレーナは膝をすりむいていないか確かめる間フアンの触るがままにさせていたが、その指先が脚の付け根まで伸びてくると脚をぴしっと閉じて無遠慮な手を挟んだ。肩から振り返ってフアンを睨んで見せる。


「調子に乗らないで。あたし今、気分じゃないの」

 脚の力を緩めるとフアンが手を抜いた。大げさに手首を労わるポーズで、

「気のつええ女だ」

 言うと立ち上がり、マカレーナにはもう目もくれず、裏口から外へ出た。



 これが、この七年で急速に拡大したカルテル『旅団』を束ねる切れ者、狂犬のフアン。

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