第8話 マカレーナ ⑧アナ
マカレーナが階段を上っていく途中、二階では店の娘が客と戯れる媚声が恥ずかしげもなく部屋から洩れている。気にせずそのまま三階へと上った。すると上ってすぐの部屋の扉に、アナマリーアが白い肌着姿で顔を出していた。
「マカレーナ」
「どうしたんだい、こんなとこでさ? 間違って男どもが三階まで上がってきちゃったらいけないから、隠れときな」
この建物は元はアパートだったのを、一階ホールをまるまる娼館に転用したものだ。娼館の領域は、個室の並ぶ二階まで。三階から上は女たちの住まいに当てられている。七年前まで続いた内戦で生まれた孤児や難民たちが身を寄せ合っていた古いアパートがいつの間にか娼館になって、フアンのカルテルが用心棒となり保護するうちに、住民も女ばかりになっていた。
マカレーナの部屋は、店から上がって直ぐの階段横にあった。なにか揉め事でもあれば、真っ先に危険に晒される部屋。
アナマリーアは内戦の末期にマカレーナが拾ってきた子だ。敵への内通でもばれたのか、蜂の巣になって斃れた母の遺体の傍らで泣いていた。その頃はよくあった話だ。戦争の終わった今ではギャングどもが飽きもせず同じことを繰り返している。
内戦で家族を喪うことさえなければアナマリーアは恵まれた家庭に育つことができたのだろうと、彼女の白い肌を見ながらマカレーナは思う。その純血を保った欧州人の肌の色は、征服者フランシスコ・ピサロ以来この地に君臨してきた支配者の証。
透き通るような肌と同じ白色の肌着を揺らして、アナマリーアは部屋のなかへと引っ込んだ。つづいて部屋に入ったマカレーナに背を向けたまま訊ねる。
「あの男がいたでしょ? 声が聞こえたから」
「それで心配になって降りてきたの?」
アナマリーアの部屋は四階にあった。エレベーターのないこの娼館アパートで、毎日四階分を上り下りするのはなかなか骨だ。機会あるごとに文句をつけるアナマリーアとダニエリだったが、それでもマカレーナは少女たちが三階の部屋へ移ることを許さなかった。だが幼い頃からふたりが、暇さえあれば三階のマカレーナの部屋へと遊びに来るのを禁じることまではできないまま、もう七年になる。
通い慣れた部屋の、馴染みのダイニングテーブルに手をかけアナマリーアは振り返った。元は白かったはずのささやかな四人掛けダイニングテーブルの上は、子供たちが七年かけて描き続けた落書きのおかげで今は極彩色になっている。
「あのひと嫌い。怖い顔してるもん。いつかマカレーナ酷い目に遭うわ」
「うふん。アナはいい子だね」思い切り抱きしめて、「でも大丈夫、たとえフアンだろうと、あたしに手を上げたりなんかさせないわ」
「お酒臭いっ」
アナマリーアはべったり寄せてくる肩をうるさそうに押し返した。可愛らしく尖らせた鼻に皺を作って。その鼻のまわりにはそばかすがうっすら泛ぶ。
「また鍵かけてなかったよ。ちゃんとしてよ、ほんとに」
肩から手を離し説教するアナマリーアの責めに、マカレーナは両手を頬の高さに上げて降参のポーズをとった。
「ごめんごめん。つい、ね。だってあたしの部屋なんか、盗るものなんにもないんだもん」
そう言う通り、テレビさえ置いていない殺風景なリビングには落書きまみれのダイニングテーブルが一つ。その奥にはドアが開け放たれたまま丸見えの寝室に、大きいベッドと衣装棚。あとは床に箱が乱雑に積み上げられているだけ。
「そうじゃなくって! 変な男が入ってきたら危ないって言ってるの!」
女王を相手に、アナマリーアは責めの手を緩めない。
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