泣かない鬼と、笑う魔女
にゃごたろう
泣かない鬼と、笑う魔女
物心ついたころから、僕は、自分の与えられた部屋から一度も出たことがない。
それは大変特殊なことらしく、普通の生物は、もっと自由にいろんな場所で生活することを許されているんだよと、以前、博士に教えてもらったことがある。
僕が『鬼』という、人間とは別の生き物だと聞いたのも、たしかその時が初めてだった。
なるほど、たしかに僕には頭に角という固い突先が生えていて、人間である博士にはそれがない。
角があるだけで部屋に閉じ込められるというのは少し理不尽な気もしたが、しかし、取り立てて不便と言うことはなかった。
僕が毎日過ごしている部屋というのは、僕の寝ているベッドが40個は敷き詰められるくらいのとても大きな広さで、正直にいって、僕は持て余していた。
『この部屋の外にはきみの知らない広大な世界があるんだよ』と博士は教えてくれたが、そんなに広い世界があったら僕はきっと胸がそわそわしてしまって、落ち着いて眠ることができなくなってしまうに違いない。
そんなことを博士に言うと、博士はしわくちゃな顔をさらにしわくちゃにさせて、優しく目を細めるのだった。
これは『笑う』という人間独特の表情なのだと、僕は以前に博士からもらった本で見たことがある。
博士のような人間は、楽しかったり愉快になったりすると、自然と顔が、そんな風に綻ぶものらしかった。
それから博士は僕に、外の世界のありとあらゆる夢物語を教えてくれた。
外界には、空や海や山、それに街なるものがあって、僕の想像も及ばないような生き物や自然が、互いに命を分け与えながら生活し合っているのだという。
ある時は、シャチという動物がいかにチームワークを持って獲物を仕留めるかを臨場感たっぷりに教えてくれた。
ある時は、羽虫とやらの生態がいかに謎めいているかをミステリーたっぷりに話してくれた。
博士は本当に物知りで、だからこそ、皆から『博士』と呼ばれているらしかった。
僕も博士みたく物知りになりたいと言ったら、博士は「じゃあいつか外に出て、自分自身でありのままの世界を見てみなきゃね」と、僕の頭を優しく撫でてくれた。
けど、それから博士はなぜか、「ごめんね」とも続けた。
それは謝罪の言葉だとは僕は知っていたけれど、なぜこの時に博士が僕に謝ったのかは、今をもってしても分からない。
この意味を知ることが少しでもできたなら、僕もちょっとは、博士みたいに物知りに近づけるのかもしれなかった。
ある日、いつもの日課である『実験』で、不思議な出来事が起こった。
実験というのは、部屋の中に連れてこられた生物の体を壊す作業のことだ。
対象を壊すことができれば、僕はごほうびとして、美味しいご飯にありつくことができるのだった。
流れはいつもと一緒で、部屋の天井がぱかりと真二つに開くと、壊す対象の入った檻がゆっくりと下に降りてきた。
中に入っていたのは何の変哲もない人間の少女で、これまでに何度も壊したことがあるものだった。
実験の時には博士以外にも他の博士がいて、だいたいはそういう『偽博士たち』(僕は博士以外の博士をそう呼んでいた)が僕に指示をしてくるのが常であった。
「今日の相手は魔女だ。少し手ごわいぞ」
しかし、手ごわいという割りには、相手は僕の顔を見てずいぶんと怯えているように見える。
檻の扉が自動で開いたので、近くに寄ろうとすると、どこからともなく声のようなものが頭に響いてきた。
「ね、ねえ、あんた。私と取引しない? イエスなら黙って頷く。ノーなら首を横に振って」
どうやら、話しているのはこの少女本人らしい。
しかし、少女が口元を動かしいる様子は特に見受けられなかった。
しかも、偽博士たちには彼女の声が全く届いていないらしく、僕はなおさらどう反応したらよいか困ってしまう。
そういえば博士が以前、魔女の操る異能については教えてくれていたから、きっとこの頭に響く声も、魔女の不思議な力の一種なのだろう。
「聞いて。もしも私のことをここで殺さないでくれたら、あんたを外の世界に連れていってあげる」
それは魅力的な提案だった。
僕は最初こそ外の世界は持て余すと思っていたが、この頃は博士の奇想天外な胸躍る話のおかげで、少しずつ興味を持ち始めていた。
何より、僕は博士のように、物知りな人間になりたかった。
角は生えているけれども、世界を巡り知識がつくうちに、きっとポロッと突先が取れて、僕も博士のような立派な人間になれるかもしれないと本気で信じていた。
僕は迷うことなく頷いて、それから「頭が痛い」と言って、その場に蹲った。
果たして仮病作戦は成功し、その日の実験は中止となり、僕は魔女の少女を壊さずに済むこととなった。
夜になってから、眠りにつこうとしていると、部屋にある扉が前触れもなく開いた。
ひとり驚いていると、どこからともなくまたあの少女の声が、「いまのうちに外へ出て」と頭に訴えかけてくる。
部屋から出ると、廊下には誰の姿もなく、ただ暗闇の廊下がどこまでも続くばかりだった。
僕は少しだけ恐くなった。
けれども、そんな心を見透かしているように、少女の声が、僕のことを優しく導いてくれる。
「廊下を真っ直ぐに行って、突き当りを右に行くの」
「ゆっくりでいいんだから、間違わないようにね」
どうしてだか、僕はその少女の声に、とても素直な気持ちで従うことができた。
彼女の言葉の先には、きっと自分の知らない世界が待っているのだと、僕は何の根拠もないのに信じていた。
「さあ。その部屋の窓から、勇気をもって飛び降りて。大丈夫。私がちゃんと、受け止めてあげるから」
僕は彼女の言葉通りに、部屋にある小窓を体当たりして突き破った。
心臓がこの上ないほどに高鳴り、窓ガラスの割れる音の中でも、その鼓動がしっかりと耳に届いていた。
衝突の痛みにしばし耐え、瞑っていた目をわずかに開いてみる。
いの一番に目に飛び込んできたのは、暗闇の天蓋に光る、真ん丸の白い円だ。
僕はその、何の無駄もなく綺麗な丸を描く不思議な円に、一瞬にして心を奪われてしまった。
重力に逆らえずに体が落ち、このままでは着地に失敗するという瀬戸際になってもまだ、僕はその白い円の途方もない美しさに釘付けとなっていた。
「まったく、聞いていた通りのお子ちゃまね」
その時、先ほどまで聞こえていた少女の声が、頭からではなく、自分の耳から直接聞こえてきた。
僕はいつの間にか、自分と同じくらいの背の高さの少女に、体を受け止められていた。
魔女の少女は驚くことに、木の棒のようなものに跨って、ふわふわと宙に浮いていたのだった。
「……すごいや」
ただ一言そう言うと、少女は初めて口元を緩ませて、「魔女だからね」と得意げに言ってみせた。
僕はこの時になって初めて、笑顔は人間だけの持ち物ではなく、魔女のものでもあることを知ったのだった。
それから近くにある森とやらまで飛んで、僕たちは、少しだけ話をした。
「あんた、これからどうしたい?」
漠然とした質問に「僕が決めていいの?」と返すと、「そういう契約だからね」と、少女は難しい言葉を使った。
「契約ってなに?」
「守るべき約束のことよ。あんたと、それに、エル博士とのね」
「エル博士? それって、博士のこと?」
「あんたの知ってる博士かは知らないけど、人の良さそうなしわくちゃの老人のことよ。あんたを外につれていくことを条件に、私を助け出してくれたの」
すぐに博士のことだと分かった。
そうして、自然と博士の優しい微笑みが脳裏に浮かんで、自分の心からの望みが何なのかを思い至る。
「行く場所はどこでもいい。けれど、僕は博士と一緒に、外の世界を旅したいな」
そう希望を告げると、少女は間を置いて、首を振った。
「それはだめよ」
「どうして?」
「博士は忙しいからね。それに、あんたはもう、大人にならなきゃいけないから」
少女の言葉は、分かりやすいようで難しかった。
「ともかく、あんたはもう博士には会えないのよ。悪いわね」
きっぱりと少女がそう言うので、僕は急に寂しさを覚えた。
博士に別れの挨拶もせずに部屋を飛び出してきたことを、僕は今さらになって、後悔し始めた。
そんな僕を見兼ねたのか、少女は「そういえば、博士からことづてを頼まれてたんだ」と思い出したように言った。
「博士から?」
「ええ」
少女は少しだけ優しい顔になって、博士の言葉をそのままに伝えてくれた。
「『目と耳と、すべての五感で、この世界にある不思議のすべてを味わい尽くしなさい。きみがいつの日かひとりの鬼として、本当の幸福を人生に見い出せる日が来ることを、心より願っているよ』」
僕はそれを聞いて、自然と拳を握り締めていた。
哀しみは依然として胸の中に残り続けていたけれど、僕は目に見えないとても強い力によって、自分の背を温かく支えられているような気がした。
「そういえばさ、私の名前はララスっていうの。よろしくね」
「名前?」
「ありゃ。あんた、名前の概念も知らないの? 子供というよりは、いよいよ赤ちゃんね」
僕はさっき、少女が口にしていた言葉を思い出した。
「エル……博士」
「そう、それが博士の名前よ。それでさ、あんたのは名前は『ミチ』っていうの」
「『ミチ』? 『鬼』じゃないの?」
「それは種族の呼称よ。あんたの本当の名前は、『ミチ』。博士がそう、あなたのことを呼んでいたわ」
僕はとても不思議な心地だった。
はがゆくて、泣きたくて、でも、決して涙は零れなかった。
「さあ、ミチ。追っ手が来る前に、さっさとトンズラするわよ。あんたにはこれから世界中にあまねく有象無象の不思議を、全身全霊でもって味わってもらわなきゃいけないんだから」
ララスはそう言って、僕の前に小さな手を突き出した。
月明かりで青白く光る彼女の手のひらを、僕は息を呑んで、そっと握り返していた。
それから僕たちは『ほうき』という道具を使い、宝石のように光が煌めく夜空へと、二人で一緒に飛び上がった。
冷たい夜気のせいなのか、はたまた彼女から香る不思議な甘い匂いのせいなのか、全身のありとあらゆる毛が、さあと一斉に逆立った。
僕は腹の底から湧き上がる何かによって、僕自身すらも知らない声を発していた。
それが笑い声であるということを、僕はララスに指摘されて、初めて気がついた。
「陰気臭い奴だと思ってたけれど、ちゃんと笑えるんじゃないの」
それは間接的に指摘されではあったけれど、鬼である僕が初めて知った『自分自身の内なる発見』に違いなかった。
今までに味わったことのない真新しい感情が胸に渦巻き、でも、それを自分の頭では処理しきれなくて、僕はどうしたらよいか分からなくなって、鼻がむずむずと痒くなった。
鬼も笑うことができるんだよと、そう、博士に、いますぐにでも教えてあげたかった。
「さあ、全速力でかっとばすわよ! 飛ばされないようにね、ミチ!」
ララスに発破をかけられ、僕は彼女のお腹のあたりをぎゅっと抱きしめる。
そうして決して振り返らずに、夜の冷たく澄んだ空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。
「……さようなら。エル博士」
感傷が、自然と言葉を導いていた。
見上げた夜空では、天に輝く金色の円が、僕たちの世界を透き通るほどに美しい白で、明るく包み照らしていた。
泣かない鬼と、笑う魔女 にゃごたろう @nyagotaro_gusuka
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