マンネクイン

安良巻祐介

 大とかげが棚の壜から這い出してくる夢を見て、首のところに大量の汗をかいて目を覚ますと、ベッドのそばに、人影が立っていたので、仰天した。

 ぎゃっというこちらの悲鳴と同時、そいつは糸が切れたようにばたりとこちらへ倒れかかってきたので、うわあうわあと喚きつつ、震える手で枕元の電氣を点けてみると、階下に置いてある試着用のマンネクインのスタイルの良い体が、ベッドの上にうつ伏せで沈黙しているのである。

 はね除けるようにしてそいつを押すと、気を付けの姿勢のままぐらりと床に倒れて、仰向けになった、その顔を見たら、なぜか立派な鼻の下に、パステルか何かで、口紅のごとく朱が引いてある。

 何から何までわけがわからない。なぜこんなものが、こんな装いをされて、二階の自分の部屋まで来たものであろう。

 頭を捻ってゆくと、どうしたって、家族のしわざとしか考えられない。大方、娘たちの誰かが、いたずらのつもりでこんなことを目論んだのだろう。

 そうだ、そうに違いないと勇気が出て、ソレッと掛け声を上げてベッドから跳ね起き、勇み足で廊下へ出たところで、はっと気がついた。

 自分の妻子はとうに家を出て、今、この屋敷に住んでいるのは自分だけではないか。

 通いのお手伝い達に、一つ一つ文句をつけて暇を出し、悉く追い出したのも、つい先日のことではないか。

 スリッパを突っ掛けたままで、ぼんやり薄い廊下の電氣スタンドの前で呆然と立ち尽くしながら、足元を見やると、ゆろゆろと病気のような自分の影のそばに、寄り添うように、もう一つの細長い影──気づかぬうち、背後へと、あの口紅のマンネクインがそっと現れて、のしかかってきたのである。

 ぎゃあーっと叫んで、壁ぎわの黒電話へと手を伸ばし、助けを求めようとしたけれど、ヂリンと唸ったなり、あとはすんとも言わぬ。

 おいどうしたッと怒鳴ったところで、電話線も昨晩、自分で切ってしまっていたのをこれも今さら思いだし、あわ、あわ、あわあ…と声にならない悲鳴を漏らし、そのまま力尽きた。

 体の上で地蔵のように重たくなってゆくマンネクインによって、全身の骨がメシメシグシグシと砕かれる音を聞きながら、せめてその荒っぽい愛の抱擁、そしてその先の行為に身を任せるよりも早く、命を終われそうなことを、神様に感謝したのであった。……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マンネクイン 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ