クリムトについての覚書

ネコ エレクトゥス

第1話

 毎年この季節は美術館に出かけたりするんだけど今年はそれができないのでイメージ・トレーニング。

 19世紀末のオーストリアを代表する画家グスタフ・クリムト。日本でも大好きな方は多いと思うし、僕も大好きだ。ただクリムトは大好きなんだけど何を描いてるのかよくわからないという方もいらっしゃると思うので、そんな方に参考になればと思う。そしてそれがわかってくると世紀末芸術が面白くなってくる。そちらへのご招待の意味も込めて。

 さて、クリムトを理解しようと思ったらまずこの問いから始めなければならない。

「女っていったい何者なんだ?」


 手始めにこんなことを考えてみる。流行って何?男にとって流行とは自分で作り出すこと。女にとって流行とは最新の状況に自分の形を合わせること。またこんなことを考えてみる。女はよく嘘をつくといわれる。だが女は嘘をついている訳ではない。その場の状況に身を合わせただけ。嘘とは善悪の決定している男の言い分である。

 また別のことを考える。女同士の会話を想像してほしい。常にどちらかがしゃべっている。女とは隙間を埋めるものであるらしい。カレーライスを作るのに何かが足りなかったらどうするか。別のものを入れて代用しちゃえ。ここでも女は隙間を埋めている。

 このように自分の形を持たず、隙間に浸透していくものを普段僕らは何と言っているか。「水」。そう、女とは水だったのだ。

 女なるものがそういう性質をもつものである以上女には個性というものが存在しない。女はすべて同じものであり、個性とは男に属する。だが個性があるということは同時に欠陥を持っているということでもあり、個性とは死をも意味する。男は死ぬが女は死なない。個性のないものだけが永遠に属し、崇拝に値する。だが考えてみれば男なるものも女から生まれたものなのだ。だからこんな風にたとえて言えるかもしれない。女とは海であり、男とはその表面に生まれては消える一つ一つの波である、と(♫女は海ー♫と歌ったジュディー・オングさんは正しかった!)。


 いよいよ肝心のクリムトに話を戻したい。クリムトの絵を見ていると幾つかのテーマが繰り返されているのがわかる。「女」、「流動性」、「生と死」、「エロス」。これらは無関係のものではなく、一つのテーマの繰り返しである。つまり水としての女、海としての女。「生と死」というテーマも先ほどの波のたとえから理解できると思う。では「エロス」はどうか。男が女と完全に一体化できるのは波が海に吸収されることによってである。つまり死によって。死とは男にとっての最高のエロスの形態ともいえる。逆に女の立場から見るとどうなるか。クリムトの中でも印象的な作品に『レダ』と『ダナエ』がある。両方とも露骨にセックスを連想させる挑発的な絵とされる。だがセックスとは音楽的な官能であるだけでなく、それによって形体を持たない女が初めて形を持つ瞬間でもあると言える(子供を育てたおばちゃんたちは形そのもので頑丈である)。

 さらに次のステップに進む。もし女が水であるならばすべての動物たちも水であり、植物もまた水である。であるならばすべての女は動物であり植物であり、すべての動物や植物は女である。こういう世界中がすべて女で、水で埋め尽くされた世界観を僕ら日本人の仏教的な感覚では何と言ってるか。「胎蔵界曼荼羅」。クリムトがどこまで理論的に考えていたかはわからないが、芸術家の直感として胎蔵界曼荼羅的な世界を感じていた人だった。

 ほぼ同時代のフランスの神秘的な画家ギュスターヴ・モローも男女の境界を限界まで探求し音楽的に表現した人だった。またシャーロック・ホームズでおなじみのコナン・ドイルも論理の向こう側にある世界を求めてオカルティズムに傾倒した人でもあった。一方で科学的な精神が押し寄せた19世紀末は同時に科学的精神の裏側にある世界を奔出させた芸術の時代だった。この時代絵画にとどまらず文学や音楽など非常に面白いものが多い。

 今のこのご時世、暇がおありでしたら世紀末芸術の世界を彷徨ってみるのもいかがでしょうか。

 

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