代償と本当の始まり
「すでに事切れておる」
いつの間にそこにいたのか、少女の声で我に返った。
巨獣の頭はすでに見る影もないくらいに潰れている。
頭蓋骨が砕け、目玉が飛び出し、血液以外も飛び散ってしまっていた。誰がどう見ても、生きてはいられない。
そして自分の両手は、魔物の血に染まっていた。
いや、両手だけではない。
腕に胸、腰、と身に着けていた白い神殿守の制服が赤黒く染まっている。すでに自分の出血で汚れた部分がどこか分からなくなっていた。
恐らくは顔も髪も血で濡れているだろう。
「俺……が、これを?」
「……」
少女は何も言わず、ただ目を伏せた。
「セス、なのか……?」
聞き覚えのある声。
そちらを振り返ると、自分を拾って育ててくれた恩師がいた。
時に褒めてくれて、時に叱ってくれて、一緒に笑って困って過ごしてきた大切な……父親、と言ってもいい人。
「テオドール、先生」
集まった村人の中にその人がいた。
「……セス君、なんだよね?」
ほんの2、3時間前か、土手で話していた女性の声。
同じ神殿守として働いて、遊んで、仲が良かった娘。いつか王都に迎えに行けたら、一緒に湖に行こうと約束した人もいた。
「カリーナ……俺は……」
二人にそんな顔をして欲しくなくて、自分に何か優しい言葉が欲しくて、手を伸ばそうとした。
「近寄るな!」
テオドール先生とカリーナの前に、簡単に武装した神殿守と神官が立ち塞がる。
「お前は何なんだ! セスじゃないのか!」
立ち塞がった神殿守、同じように過ごしてきたあいつが問いかけてくる。
なんで……
「セスなわけがない、何かが化けているんだ!」
立ち塞がった神官、自分も見覚えがある男が罵倒する。
……何を言っているんだ?
「お待ちなさい! セスは私達を守ってくれただけでは……」
「そうだよ! きっとそう! セス君は私達を助けようとしてくれたんだよ!」
テオドール先生! カリーナ!
「待ってくれ、俺、は……」
救いが欲しくて、二人に縋るように一歩踏み出す。
「来るな! 化け物!」
その言葉と共に、何かが自分に投げつけられた。
投げつける男の動作はやけに緩慢に映った。投げつけられた『それ』を受け止め……いや、軽く手に納める。
たしかに思い切り投げつけられたのだろうが、信じられないほど遅く緩く見えた。
血まみれの手の中には、石があった。
痛みも衝撃もまるでなかったはずの『それ』が、深く胸に突き刺さる。
違うんだ、俺は村を……みんなを助けたかっただけなんだ! 魔物を殺したかったわけじゃないんだ!
そう叫びたかったが、出てこない。
みんなの視線から伝わる恐慌、畏怖、嫌悪がそれをさせてくれない。
何よりも、次々と石が投げられてくる。
届くものも、届かずに足元に転がるものも、的外れに空を切るものも、そのすべてが自分の心にヒビを入れてきた。
痛い。
「消えろ!」
どうして……
「うわ!」
「なんだ!」
集まっていた村の人達に黒い霧のようなものが被さった。
「距離を置くしかなかろう」
隣に少女がいた。
「……」
村の人達に視線を向け直すと、突如として現れた黒い霧――蝙蝠の群れだった――に翻弄されている。
「今は何を言っても無駄じゃ。下手すれば村人同士で争うぞ」
真紅の瞳がこちらを射抜くように見据えている。
……テオドール先生、カリーナ。
「逃げるなら儂も連れていけ。色々と話さねばならんことがある」
その言葉を聞いて……いや、違う。
何より独りぼっちになるのが耐えられなくて、少女を抱きかかえる。
未だ蝙蝠に翻弄されているみんなを見ないように、全力で地を蹴り駆け出した。
走る。
ひたすらに走る。
それしか知らないかのように走り続ける。
『お前はなんなんだ! セスじゃないのか!』
『セスなわけがない、何かが化けているんだ!』
地を蹴り、岩を跳び、土を歪ませ、草原を抜け、走る走る走る走る走る……
『来るな! 化け物!』
『消えろ!』
何もかもを振り切るかのように走り続ける。
何時間走ったのか……すでに空は漆黒の帳に覆われ、それを穿つように満月が中空に浮いている。
息が上がる頃、夜空を写し取った光景が目の前に現れた。
「海……いや湖のようじゃな」
抱きかかえた少女がそう漏らす。
王都近くの名所であり、水源でもあるレーベ湖まで来ていたようだ。
やっぱり、俺はもう人間じゃないんだな。
この湖から王都までは半日も歩けば着く。だが俺がいた村から王都までは、馬で走っても数日はかかる距離にあるのだ。
薄闇の頃から夜明け前にそんな距離を走破するなど、人間には不可能な芸当……。
「セスよ、もう十分じゃ。ここでよいであろう」
「……ああ、そうだな」
少女を下ろす、と同時に湖に足が向いた。
水面は微かな揺らぎも許さずに、ひたすら星と月と空を映し続けている。
足を止めずに湖に踏み込む。
靴が濡れるのも、服の裾が濡れるのも構わずに水面を乱して歩いていく。膝まで浸かるころに水鏡で自分の姿を見ると……
そこには髪も顔も衣服も、全てをどす黒い血で染めた長髪の男が映っていた。
膝まで浸かっていようと関係ない。
すでに人の領域を超えた脚力で跳び、脚が届かない場所まで沈む。
きつく瞳を閉じて、呼吸を止め、全身を湖に沈める。
すべてを洗い流してしまいたかった。
こびりついた血や泥だけじゃなくて、みんなから負の視線を浴びた自分の身ですら。
水面から顔を出す。
相変わらず水面は変わらないが、夜空の満月が明確に動いたとわかるくらい位置を変えている。かなりの時間潜っていたようだ。
だが苦しくなったわけじゃないし、寒くなったわけでもない。
……いつまでも、こうしているわけにはいかないか。
言葉にすることもなく、自然とそう思って岸へと向きを変える。
ここまで走って辿り着いた湖畔、そこにあの少女が佇んでいる。
星を瞬かせる夜空が霞むほどの漆黒の髪、雪を解け合わせたかのような白く滑らかな肌、幼さと妖艶さを両立させた類まれな容貌、宝石よりも人を惑わす真紅の瞳……それらをたたえるかのような満月の光。
神が趣向を凝らして作り上げたような少女は、月の明かりで照らされて、より魅力に満ちていた。
「……今一度、お主自身の姿を見るがよい」
気が付くと、少女と会話が出来る距離に来るまでに、湖から出ていた。
その少女が水面を指して言う。
水鏡に映ったのは、見慣れた黒髪黒目の男じゃなかった。
純白の長髪、少女と同じ真紅の瞳、着ている服だけは見覚えがある。
染みついたどす黒い血で汚れている神殿守の制服……
これは、俺なのか?
「すでにお主は完全に『鬼』となった。人ではない」
水面から少女に目を向ける。
「儂の血を分けたとは言え、そのように根本から『鬼』になるのはもっと後だと思っておった」
そのまま少女が続ける。
「……すまぬ。お主が魔物を殺したのは儂の責任じゃ。『人』から『鬼』に変わる際の衝動、それがお主に魔物を惨殺させた」
あれが、この子のせい?
「本来は『人』と『鬼』の狭間の内に、お主に整理してもらうつもりじゃった……お主があのような形で村を追い出されたのも、すべては儂の責任じゃ」
俺が……あんな視線を向けられたのも、石を投げられたのも、この子のせい?
すでに目の前にいる少女は、目を伏せながらも逃げようとも下がろうともしない。気丈に俺の前に立って、俺がどうしようとすべて受け入れると言わんばかりだ。
俺が……魔物を殺して、それで村を追い出された原因がこの子?
ならばするべきことは決まっている。
軽く呼吸を整え、俺は、それをした。
「ありがとう」
少女が、伏せていた視線をこちらに向ける。
「君のお陰で、村を守れた」
素直な気持ちだ。
俺の力じゃ村は滅ぼされ……自分自身もとっくの前に殺されていたのだ。じゃあ、お礼以外の何があるというのか。
「誰も死ななかったし、本当に奇跡だ……」
相も変わらずに綺麗な真紅の瞳が、こちらをしっかりと捉えている。
「まあ、俺はちょっと嫌われちゃったけど……そんなのは些細なことだから」
俺は、上手く笑顔を作れているだろうか?
「……ありがとう」
上手く、誤魔化せたかな?
少女は何も言わず、手でこちらに来るように促した。腰を曲げて視線を近づけようとすると……
急に頭を抱きしめられた。
「お主は誰かのために必死に戦った。立派なことじゃ」
死ぬほど欲しかった言葉だった。
「それでも石を投げられた。故郷を追われた。そんな時くらい……」
誰か、誰でも良い。優しい言葉をかけて欲しかった。
だけど、それよりも……それ以上に……
「思いっきり泣いてよいのじゃ。少なくとも、誰も見ておらん今は……」
許して欲しかったんだ。
村を、みんなを守りたかった。
それで魔物を惨殺して、恐れられて、帰る場所がなくなって……思いっきり泣いて叫んで、情けない姿をさらすことを許して欲しかった。
「君が、見ているだろ」
最後の抵抗、半ば意地の様なもので我慢しようとする。
「……今宵は儂が目を奪われるほど、見事な満月じゃ。しばしそれ以外は見えんじゃろう」
その言葉が最後の抵抗をあっさりと破った。
自分の頭を抱く華奢な体を抱きしめ返して、確かに伝わる温もりと柔らかさに寄り掛かる。
目の奥の熱さ、強烈な喉の渇き、心臓からの刺すような痛み……
すべて吐き出すために声を絞り出すと、自然と涙も止まらなくなった。
「……ありがとう」
「もうよいのか?」
自分を抱きしめる少女がそう聞いてくる。
ここまで散々に泣いて喚いたのは、生まれて初めてかもしれない。
「ああ、もう大丈夫だから……」
どこか名残惜しそうに、だがあっさりと頭から両腕を解かれたので胸からも離れる。あれほど心地よかった温もりと柔らかさがなくなった。
これからどうすればいい?
思いっきり泣いて、少し心は晴れた。だが故郷を追い出されたことに変わりはなく、田舎の村で育った自分に行く当てなどどこにもなかった。
「のう、セスよ。儂はまだこの時代のことがわからん。良ければ、一緒にいて助けてくれんか?」
沈黙を破ったのは少女からで、それは是非もない提案だった。
行く当ても場所もなく、どうしようもなかった。何よりも今は、とにかく一人になりたくなかった。
「俺でよかったら……」
「ならば決まりじゃ。改めて名乗ろう!」
嬉しそうに胸を反らした少女――死にかけた時に、おぼろげに名前を聞いた気がするが自信がない。
今度はしっかりと刻もう。
「儂の名は『フィルミナ・リュンヌ・ヴィ・テネブラリス』。原初の鬼神の血を引く姫にして、吸血鬼である」
「フィルミナさん、か。俺はセス……」
そこまで言いかけて、気が付く。
「『さん』はいらん。そしてお主の名は知っておる。セス・アポートルじゃろう?」
「いや、違うよ」
首を振ってそれを否定する。
「『アポートル』は俺を拾ってくれたテオドール先生の家名だから……もうそれは名乗れない」
「ならば何と名乗る?」
真紅の瞳の奥、こちらを思いやる光を携えた少女――フィルミナが問いかけてきた。
「……ただの『セス』、それだけでいい」
家名も何もいらない。
どうせ捨て子で、一つだけ残されていたのは『セス』という名前だけ。
それだけでいい。
「……『バールゼブル』」
「え?」
フィルミナの呟きに聞き返す。
「家名がないのは不便であろう? 気に入ったなら『バールゼブル』を名乗るがいい。古代の言葉でそれは……」
こちらの反応も何も待たずに言葉を続けていくフィルミナ。
「『気高き主』を指す名である」
さっき全部絞り出したと思った涙と嗚咽が、また喉まで出かかったのを辛うじて堪える。
「ありがとう、気に入った」
「ならば良い。お主は今日より『セス・バールゼブル』じゃ」
『気高き主、バールゼブル』。
俺にそう名付けてくれた少女、フィルミナは満足そうに頷いた。
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