鬼が巨獣を屠る
薄い闇の空、そこに瞬き始めた星。
それが次に視界に入ってきた光景だった。
俺は……死んだのか?
ひょっこりと空を隠すように少女の顔が覗いてきた。
「目が覚めたか、調子はどうじゃ?」
薄い夜の空など比べ物にならないくらい濃い闇の髪、薄闇の中に合ってさらに際立つ白い肌、幼くも妖艶に整った顔立ち、真っ直ぐにこちらを捕らえる紅蓮の瞳。
一気に覚醒した意識のままに飛び起きる。
魔物――グレンデル――に払い飛ばされて自分は死んだはず……あれは、夢だったのか?
だが夢ではないとすぐに気が付く。
なぎ倒された木々、よく見ればわかる大きな足跡、そしてなにより……自分の神殿守の制服が泥と血でどす黒く汚れていた。
払いのけられた時に、あいつの爪で切り裂かれていたのだろう。衣服自体も裂けている。
「うむ、問題ないようじゃな。名前を言えるか?」
「あ……ああ、セス・アポートル」
こちらの答えを聞いて満足げに少女が頷いた。
「そうか。お主はセスと申すか」
うんうん、とさらに数回頷いた。
「あの……俺はどうなったんだ? 君は一体……」
「話は後にせい。あの魔物を追わんと、手遅れになるぞ?」
そうだ、早く追いかけないと!
「すでにお主は人の理を外れておる。『鬼』としての力を使うがよい」
なにを言って……?
「いいから集中して力を掴め、願え。本当に手遅れになってしまうぞ?」
もう自棄だ。
どのみち自分は一度死んでいるようなもので、普通で考えればいくら死ぬ気になろうとどうにもならない状況だ。
「お主は何を成したい? そのために何が必要か? それを望めばよい」
決まっている。
村を守りたい。そのために魔物に追いつきたい。誰よりも早く駆けて戦う!
微かに、だが確実に全身を巡っている熱を感じる。
呼吸を整えて、さらに集中する。
身体を回る熱がさらに熱くなってきた。その熱のままに、地を蹴って駆け出す。
その一歩は、それだけで森を抜けてしまいそうなほど強靭だった。
さらに足を進める。
一歩ごとに土や木の根を踏み砕き、どんどん加速していく。
来るときはあれだけ四苦八苦して、転げまわった道程をものともしない。なぎ倒された木々を目印にひたすら走り続けた。
まるで自分自身が、放たれた矢になったかのような感覚を味わう。
あっという間に森を抜け、周囲を確認する。
魔物の巨体はなし、だが草地や道に足跡が残っている。多少の道の湾曲や障害物は完全に無視しているようだ。
やっぱり村に一直線に向かっている。
痕跡から即座に判断する、と同時にまた駆け出す。相も変わらず自分でも信じられないほど、強く鋭い踏み出しで走る。
体を巡る熱もどんどん高まっていくのを感じる。それと同時にどんどん加速していく。
普通では考えられない速さで村が見える位置に着くと、そこに十メートルは越えているであろう巨獣の姿を認めることが出来た。
幸いまだ村には入っていなかったようだが、見覚えのある人達が村の中に見える。
見知った顔……農作業を手伝ったことがある婆さん、よく遊んであげた子供、一緒に神殿守として働いたあいつ……魔物――グレンデル――を認めて恐怖に慄いている。
あれじゃあ、すぐに魔物の餌食になる。
巡っている熱のままに魔物へと向かう。
さらに加速してグレンデルに跳び込もうとするが、肉薄する前に金眼がこちらを捕らえる。魔物が振り向くと同時、俺を払い飛ばそうと腕をぶん回してきた。
先程は反応すらできなかったはずの『それ』、今度はしっかりと見切って躱し、グレンデルに跳び込んで肉薄する。
そして身体の熱をぶつけるように、グレンデルの腹を全力で殴り付けた。
『半減』しろ。
頭の中の冷静な部分が声を上げた。それに従って殴る際の『反動』を『半減』する。
普通に考えれば体格差や重量差からいって、殴ったこちらの拳と腕が壊れて終わりだ。反動を『半減』しようが関係ないだろう。
だがその普通を裏切り、グレンデルの巨体が村から反れるようにぶっ飛ぶ。
空中に浮いた後、勢いを殺さずに巨獣が地面を転がっていく。
「早く逃げろ!」
村の中で怯えていた人達に叫ぶ。
「え、お前……セス……なのか?」
「いいから逃げろ!」
これ以上グレンデルから目を離すな。
再び聞こえてきた冷静な声に従って、魔物へと向き直る。
グレンデルはすでに体勢を整え、こちらに敵意を満ちた視線を向けている。あれ以上目を離していたら、間違いなく飛び掛かられていただろう。
油断なく巨獣を見据え、神殿守として習った武術を思い出して構えをとる。気休めだろうが何もしないよりはマシだ。
まさか最初に武術を使う相手が酔っ払いや暴漢ではなく、巨大な魔物とは夢にも思っていなかった。
睨みあっている時でも身体を巡る熱は収まらない。
そして、気が付いた。
身体と反比例して頭は異様に冷えている。
反動の『半減』も、向き直るタイミングも、全部これのおかげだ。
そんなこちらの思考とは関係なく、グレンデルが飛び掛かってきた。
両手を組んでハンマーのようにして、俺を叩き潰そうと振り下ろしてくる。だが、見えている。
見極めて冷静に避けると、グレンデルが両拳を叩き下ろした地面が、轟音とともに揺さぶられる。まともに当たったら潰れたトマトのようになるだろう。
しかし、躱した今はチャンスでしかない。
常なら跳んでも容易に届かない頭が近くまで下がってきている。しかも両手を使えない状態で、だ。
今度は顔面に全力で拳を叩き込む。
拳から確かな手応えを感じるとともに、またグレンデルが地を擦りながら吹っ飛ぶ。徐々に村からも離れてきている。
恐らく口の中でも切ったのか、グレンデルから出た血が頬に僅かに着いていた。
いける!
まだ二発当てただけだが、グレンデルという巨大な魔物相手でも渡り合えている。
このまま村から遠ざけつつ、攻撃し続ければなんとかなるはずだ。倒すまでいかなくとも、向こうが諦めて退けば勝ちだ。
グレンデルと再び対峙して構えをとる。
落ち着け、この調子でよく見てカウンターを取っていくんだ。
だが相手はそんなに甘くないようだ。
今までは二足だったのが、今度は両手も地面につけて四足の構えをとる。先程よりもより『獣』に近くなった。
両脚だけじゃなくて両手も駆使して跳びかかってくる気か……
今までは二足歩行で人型に近かったとはいえ、あくまで『巨獣』。
四足での方が力強く俊敏だろう。
油断なく、より獣に近くなったグレンデルを見据える。
……動く!
と思ったと同時、砂塵で視界が封じられた。
あの大きな手でつかんだ砂や土をぶつけられ、さらに悪いことにそれが目に入った!
やられた! 四足になった本当の目的はこれ……
そう思った瞬間、自分の身体を凄まじい一撃が襲う!
傷害と衝撃を『半減』!
それでも肺から空気が抜け、全身が痺れるような衝撃が走る。息を吐き出す間もなく、連続して強烈な衝撃が襲い続けてきた。
グレンデルが俺を叩き潰そうとひたすら殴りつけてきている!
まずい、どうにかしないと……!
そう思うだけで、グレンデルの打撃に耐えるしかない。『恩恵』があるから耐えられているが、そう長くは持たないと確信できる。
身体を巡る熱が回ってくる。
やばいやばいやばい! どうすれば……
抜け出す間がない!
地面に釘付けにされ続けている!
一撃ごとに痺れる、どころか肺から空気が抜けて行くので呼吸すら苦しくなってきた。
熱が、じわじわと侵食してくる。
ここで負けると死ぬ! 『半減』しようと限度がある!
このままだとまた『殺される』。
そして……村の人達も、『殺される』。
みんな、『殺される』。
熱が爆ぜた。
頭にそれが達する。
何かが切れる、音がした。
熱、というのも憚られるような灼熱。
それに従って、グレンデルの打撃に合わせて両足で奴の拳を蹴り上げる。地面に釘付けにされ続けた、それを利用し背を支点にしたカウンター。
灼熱の衝動での蹴りは拳のみならず、全身に伝わるほどの威力だったらしい。グレンデルが数歩後退り、距離ができる。
一息で飛び起きるとともに、肺に酸素を一気に取り入れる。
さらに身体の灼熱が勢いを増した。
起き上がって呼吸を整えつつも、グレンデルから目を離しはしない。あの状態から迎撃されて、抜けられたのを驚いているようだが無理もない。
人間でなくとも大抵の生物は、あれだけこの巨獣の打撃を食らえば否応なく死んでいたはずだ。
三度向き合あうがこれで最後にしてやる。
頭にまで回った灼熱のままに決める。もう『向こうが退けば』とか生温いのは止めだ。誰がお前に『殺されて』……いや、『殺させる』ものか。
ぶっ潰す。
灼熱が命じるままに全力で地を踏み砕く勢いで飛び出す。
これまでのどんな時よりも強く、鋭く、速く駆け出せた。
多少戸惑ったグレンデルが、それでも鋭くこちらを殴り飛ばそうと腕を振り回す。
それを避けて足元まで潜り込み……力の限り足の指を踏み潰す。
小指と薬指を砕く感触が、靴の上からでもはっきりと感じられる。
バランスを崩すグレンデル。
見るまでもなく苦痛の表情で顔を歪めているだろう。
容赦はしない。
バランスを崩した隙に今度は残った片足に走り寄り、アキレス腱を蹴りつける。
ブチ、と千切れる感触が伝わった。
出会う前に聞いた咆哮とは違う、苦痛を伴った叫びをあげて巨獣が仰向けに倒れていく。
これで足は潰した。
あとは本体だ。
そう思った瞬間には、倒れようとしているグレンデルに殴りかかっていた。
敵意と憎悪、わずかな苦痛と怯えが映った金眼と一瞬視線が合う。
それがどうした。
地面に打ち付けるように、全力でその顔面を殴りつける。
顔を殴りつけるのは二度目だが、先程とは比べ物にならない手応えを感じる。それを証明するかのように、グレンデルが血を吹き出した。
返り血がかかるが無視してさらに拳を振り下ろす。
両手で掴みかかろうとしてくる。
拳を振り下ろす。
まだ起き上がろうとしてくる。
拳を振り下ろす。
今度は噛みつこうとしてくる。
拳を振り下ろす。
まだ金眼から敵意も憎悪も消えていない。
拳を振り下ろす。
唸り声をあげてチャンスを狙っている。
拳を振り下ろす。
まだ動いている。
拳を振り下ろす。
まだ呻いている。
拳を振り下ろす。
まだ足りない、拳を振り下ろす。
まだだ、拳を……
「もうよいであろう」
静かに、それでもはっきりと少女の声が聞こえた。
そこには神が趣向を凝らして作ったかのような、あの子がいた。
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