そして異変と今に戻る
「ありがとう、セス君。私はもう大丈夫!」
家まで送ろうとしたが、途中でカリーナがそう言って走り去ってしまった。目元はまだ赤かったが、表情からみてももう大丈夫だろう。
もう日が暮れ始めている。
いつもなら森から帰ろうという時間だが、俺は森に向かって走っていた。
キールのこともあるが、あの少女のことも気になったからだ。
今日もいるならお礼を言わなきゃな。あと、ちゃんと名前を聞こう。
そう思いながら全力で走り続ける。『半減』の『恩恵』が作用しているおかげで、息が上がらない。
このことを教えてくれた、あの子に会いたかった。
……だが、
「え?」
足が止まる。
「……なんだ、あれ?」
目を向けたその先、太陽が血を流していた。
いや、そう錯覚するほどに赤く染まっている。周囲に落ちる日も禍々しい赤い光となっていた。
見る人の本能を揺さぶるような、不安を直接引き出すかのような、紅い夕暮れがそこにある。
『恩恵』を賜った時とは全く違う、不快感に溢れた鼓動がうるさい。
村へ帰る道へ目を向ける。
テオドール先生、カリーナ! みんな!
そっちに駆け出そうとして……
「……あの子は? キールは?」
こんな異常事態のなか、あの祠にいるのか? あいつらだけで?
「儂はしばらくここにおるし、また何かあれば来るがよい」
その言葉を思い出し、全力で森へと向かう。
体力の消耗と疲労を『半減』させて、力の限り走り出した。
森の中は道を走るようにはいかない。不規則な凸凹に木の根、草や泥で滑りやすいところも多い。
足を滑らし、自分の身体が打ち付けられる。
その衝撃と痛みを『半減』してすぐに立ち上がり、目的の祠に向けて走る。もはや何度目の転倒かわからない。すでに神殿守の制服は泥にまみれていた。
だがそれがどうした。こんな時のために『半減』という恩恵があるのだ。
傷と痛みを『半減』する……キールに血を分けていた時の応用だ。
規則正しい呼吸で森の中を駆ける。
あと少し……あと少しで着く!
何もないならそれでいい。ただの珍しい現象なら構わない。
もしなにか恐ろしいことが起こる前兆だとしたら、あの子とキールを村に連れ帰って保護しないと!
その希望をかき消すかのように咆哮が響いた。
体の芯から揺さぶられるような、おぞましい雄叫び。
人ではなく、家畜でもない。もっと巨大で恐ろしい物が声を上げたのだ。
近い……
全身から嫌な汗が噴き出してきた。
木々がへし折れる音が断続的に聞こえる。巨大な『何か』が、森を裂きつつこっちに向かっている。
脊髄が凍り付いたかのように冷たい。
足が震えて動かない。
だがもう祠は目と鼻の先だ。
あそこが見つかったら、あの子とキールはどうなる?
一人と一匹のことを思い出して、精一杯の勇気を振り絞る。
こちらに向かってくる音、自分の位置、そして祠の場所を頭で思い浮かべる。
……幸い向かってくる方向と祠はズレがある。だが、村へは一直線に向かうようだ。
じゃあ俺に出来ることは……簡単だ。
ここであえて見つかって、囮になればいい。そして祠や村から遠ざける。
断続的な音は一歩ずつ進んでいる音、ということが分かるくらいに近くなってきた。その証拠に大地からも振動を感じる。
足の震えと冷や汗が止まらない、その上カチカチと変な音までする。
そうだ、『半減』! 恐怖を『半減』できれば……
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出すと同時に『恩恵』を使う。
……嘘のように落ち着いてきた。
もうカチカチ音はしない。あの音は自分の歯の根がかみ合わない音だったのか、と落ち着いてから理解する。
じっとりと汗はかいているが、足の震えもはるかにマシになった。
やってやる、ただの時間稼ぎに命をかけてやる。
そんなことをしても、あの子とキールは見つかるかもしれない、自分も村も滅ぼされるかもしれない。
だけど、何にもやらないよりはマシだ。
いざ何かがあった時、自分が何もしていなかったら俺は後悔する。
覚悟を決めて、『何か』が近寄ってきている方向に身構える。
いよいよ木々が折れていく様も確認できるようになってきた。
そして、巨大な手が小枝のように木をへし折って、『それ』が姿を現した。
青い肌、ほぼ全身を覆う褐色の獣毛、筋肉で構成された体格、自分とは比べ物にならない巨体……二足歩行の巨獣。
魔物……しかもこいつは図鑑で観たことがある。たしか……グレンデル!
なんでこんなところにいるんだ?
神殿が村と周囲を覆うように結界を張っているはずだ。結界の境界線だって森を抜けたところ……どうして魔物が入ってきているんだ?
金色の瞳がこちらに向いた。
予想をはるかに上回る大型の魔物、田舎の村なんか一溜りもない。
それでも、神殿にこもって籠城すれば何とかなるかもしれない。みんなもあの紅い夕焼けで警戒しているだろう。
テオドール神殿長なら、警戒してみんなを神殿に避難させようとしててもおかしくない!
どうにか誘導して時間を稼がないと……立ち向かって、鼠のように、羽虫のように、逃げ回るんだ。
そう考えた時には、宙を舞っていた。
『ああ、そうか』
視界がせわしなく回転し、落ち着いたと思ったら天地が傾いている。
『これは……』
目の前を遮るように生えた雑草の奥に、自分を殴り飛ばした巨獣がいる。いや、殴り飛ばしたのではない。進行上にいて邪魔だったから払いのけたのか。
その証拠に、こちらを完全に無視して村の方に巨獣は歩んでいる。
『ついさっきのことだ』
冷えていく身体、暗くなっていく視界、止めどなく溢れる眠気……
俺は……死ぬのか?
いや、待て。
『半減』だ。
痛み、はもういい。感覚がすでに麻痺している。傷害を『半減』……違う。
『半減』してなお、この様なんだ。
魔物に吹っ飛ばされた時点で即死だったが、『半減』でどうにか死に損なっている。
それが『今』だ。となると、さっきまでに駆け抜けた記憶は走馬灯?
知らずのうちに、苦笑する。
最近のことばっかりじゃないか。
せっかく、あの子が教えてくれたのに……やっぱり役立たずの『恩恵』だったかな。
いや、俺じゃ活かせない『恩恵』だった、の方が正しいか。
ふと気が付くと、傾いた視界に誰かが映っていた。
夜空を切り取った長い漆黒の髪、雪と溶け合ったかのように白く滑らかな肌、服の上からでもわかる華奢な曲線を描く身体……よかった。
あの子は無事だったんだ。
優雅にこちらに歩み寄り、俺を覗き込むように少女が屈んだ。
どんな芸術家でも再現できない、幼さと妖艶さを自然と両立させる整った容貌、さっき見た異様な夕焼けとは違う、素直に綺麗だと思える真紅の双眸がこちらを見つめている。
「お主……逃げんかったのか」
ああ。
「お主だけなら逃げられたろうに……村を守ろうとしおったのか」
誰だってそうするだろ?
「時間稼ぎが関の山じゃ。いや、時間を稼いだところでアレ相手にどうなる? 村も神殿も、潰される時間が多少伸びるだけじゃ」
だとしても……もしかしたら、その時間で誰か駆けつけてくれるかもしれない。誰か逃げ延びるかもしれない。
「何も変わらん」
かもな。だがゼロじゃない。
「……」
ありがとう。
「……何じゃと?」
俺に『恩恵』のことを教えてくれて、俺の『半減』が役立たずじゃないって教えてくれて……嬉しかった。
「お主……」
そして……最期に、本当に良いことを教えてくれた。
「なんじゃ、それは?」
あの魔物が祠に行かなかったってわかった。そうじゃなきゃ、無事でいるはずがない。
「ひょっとしてお主、ここにおったのは……」
出来れば名前くらい聞いておきたかったけど、もう意味がないな。キールのこと、よろしく頼む。
「生きて……生き延びれたとしたら、お主はどうする?」
村を助けるためにあの魔物を追いかける。何も出来なかったとしても、何もしない理由にはならない。
「本当に……不器用な奴じゃな」
これは性分だと思う。
それに何かがあった時、何もしなかったとしたら、俺は自分を許せなくなる。
……流石にもう、疲れてきた。
「お主に力と命を与えよう。だが、それは人の理を捨てるということじゃ」
「『鬼』として生きるか、人として終わるか……どうする?」
「そうか……ならば受け取ることを許そう」
唇に、柔らかい感触が当たった。
何かが喉の奥に流れ込んでくる感覚。
唇から感触が離れる。
「フィルミナ・リュンヌ・ヴィ・テネブラリスが与える」
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