二日前の日常 後編

 そのまま神殿から出て、なるべく村の中を避けて人目につかないようにする。

 向かう場所は村から少し外れた森だ。

 結界の境界線に近づくから、森に深く入ることは禁止されている。だがそこに俺の目当てがあるのだ。


 構わずに森の中を歩いていくと、ぽっかりと木々が開けた。

 森を抜けたわけじゃない。

 ただここだけ違うものがあるため、空き地のようになっているだけだ。


 計算されたかのように周囲が円形に空いている。遠目に見る分には、ただその部分だけ木が生えていないように見える。

 だが足を踏み鳴らすと、そこが木の根や土とは全く別の感触だということがわかる。金属のような堅いもの、その上を雑草が微かに生えて覆っているのだ。


 その中心に座すのが、一つの祠だった。


 よく知る神殿の様式とは全く違う、『異教の祠』。本来ならこれは禁忌として、神殿に報告しなければならない。

 神殿の雑用を担当する神殿守の自分ならなおのことだろう。


 だけど、俺はそんなつもりはない。


 そのまま大きな四角い石のアーチで囲まれた祠へと歩み寄る。

 大きな白亜の石、そこに銀の十字架が埋め込まれている。下にある石板には文字が刻まれているが読めない。


 アーチの中に入り、真っ白い石と銀の十字架に対面すると、俺の目当てが答えてくれた

 白い石の陰から「キィ、キィ」と鳴く蝙蝠……

「キール、お待たせ」

 この吸血蝙蝠の子供――キール――が目当てだった。

 こちらを見たキールが、「キィ! キィ!」と嬉しそうに鳴く。

「わかってるって、待ってろよ」

 持ってきた果実を小さな皿に置いて、キールの目の前に差し出す。するとキールは嬉しそうに果実に嚙り付いた。


 そんなキールを見つつ、ここに来た時のことを思い出す。



 なんてことはない。

 たまたま森を歩いていたら見つけた場所、それがこの祠だ。

 見ただけで『異教』の物とわかり、調べてから報告しようと思った。しかしこの祠の中でこいつ、キールを見つけたのだ。


 神殿に報告すれば、清めのために一部の神官と神殿長以外の出入りが禁じられる。そうなればこの吸血蝙蝠の子供がどうなるか?


 結果は火を見るより明らかだ。


 もちろん最初は連れ帰って世話をしようとしたが、キールは全力で抵抗した。子供ながらに、こちらの手がズタボロになるくらいに暴れまわるのだ。

 丁度その時に、俺が垂らした血を舐めたのを見て『吸血蝙蝠』とわかったのだが……俺以外の人だったら、それを知る代償としては大き過ぎただろう。

 その位にこいつはここから離れるのを嫌がるのだ。



 だけど自分の役立たずの『恩恵』が役に立つとしたら、怪我をしたときくらいだ。

 それを活かせるチャンス……いや、自分の『恩恵』をそういったものだと、知れたのがこの時だった。

 キールが気付かせてくれた、そう思うことにしよう。



 出会いの思い出に耽っていると、「キィー!」と不満げな鳴き声が聞こえる。

「もう食べ終わったのか」

 こちらの声に応えるように、再び「キィー!」と鳴くキール。この鳴き声の時は……


「わかったよ、ちょっと待ってくれ」


 懐からナイフを取り出し、自分の手を切り裂く。少々痛いが、背に腹は代えられない。

 それに俺なら普通よりも早く癒える。


 傷から滴る鮮血を先程果物の欠片を乗せていた小皿に垂らす。

 キールが「キィ!」と満足げに鳴いた後、小皿の血を舐めとっていく。最初は「エグイな」と思ったが、今はもう慣れた。


 ふと、空を見上げると東の空が微かに暮れ始めている。

 神殿長に心配をかけないうちに帰らなきゃ……ぼんやりと、そんなことを考えていた。








「ああ、おかえりなさい。友達と遊んでいたのですか?」

 家に帰って出迎えてくれたのは、神殿長室で頬を綻ばせてくれたその人だった。

「はい、そんなところです……で? これ、なんです?」


 これ――まさに惨状と表す他ない台所を見て頭が痛くなる。

 少なくとも、自分が神殿に働きに出る朝は綺麗に整っていたはずだ。それが今や見るも無残な姿に変わり果てている。

 多数の調味料や食材が散らかり、鍋やフライパンといった器具も無差別に引っ張り出されている。もはや戦場跡と言わんばかりだ。


「いやあ、君にばかり食事を作らせるのは申し訳なくて……挑戦してみたのですが……」

 この地獄を作り出した目の前の恩師が、ポリポリと所在なさげに髭を蓄えた頬を掻きながら答える。


「テオドール先生、気持ちは嬉しいですけど……お願いですから、自分の炊事能力を把握してください」

「いやいや、面目ありません」

 50近くにしてこの村の神殿長を務めあげる男。いや「何故こんな田舎の神殿に留まるのか?」とまで言われる男、テオドール・アポートルにも弱点はあるということだ。




「随分、髪を伸ばしましたね。切らないのですか?」

 ようやく台所を片付け終わり、夕飯を作っている途中テオドール先生からそう言われた。

 たしかに自分の髪は男にしては長い。邪魔にならないように一つにまとめて縛っているが、腰に届くかどうかというくらいに伸びている。


「はい、切る予定は『まだ』ありません」

 きっぱりと答える。

 切る理由がない上に、切らない理由がある。


「そうですか。『まだ』ですか。『いつか』は切る予定なのですね」

 流石に鋭い。

 しっかりとこっちの言葉を捕らえてくる。知られて困る様なものでもないが、詳しくは知られたくない。


「はい。『いつか』としか決めていませんが……」

 とりあえずは先伸ばしにしておく。



 髪を伸ばし続けているのは『願掛け』。

 単純で、本当に子供じみた願い。


『捨て子だった自分を拾って育ててくれた、テオドール先生を支えられるような神官長――神殿長に次ぐ地位にあたる――になる』








 これは、二日前。

 いつもと変わらない、変わらなかった日常の記憶。


 そんな日が、なんとなく続くと思っていた。

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