3-3 智奈と契約

 霧亜との間に沈黙が続いた。


 自分が今まで生きてきた世界と、違う世界に来てしまったこと。自分はこの世界では、疎まれる存在であり、正体を隠さなければいけない存在であること。

 現実味はなく、映画や、夢でも見ているかのような気分だった。


「霧亜に、誕生日プレゼントあげたかったのに」

 唐突に思い出し、口から出た。

「誕生日プレゼント?」

「もうすぐでしょ? 壮介と、買いに行く約束してたの。康太くんはまた違うプレゼント用意するからって言ってた」


 壮介の名前を口にすると、向こうの世界を思い出してしまって、また涙腺が緩んでくる。


「あー、買い物ってそういう……康太の野郎」


「また、会えるかな」

 真人や学校の子たちにも会いたい。壮介があの後大丈夫だったのかどうかも、気になる。智奈が八木組のバンに押し込められていた時、必死にもがいて手を伸ばしてくれていた。あれが最後の別れにしたくはない。


「来年、帰りたかったら帰ろう」

 さっきから、霧亜は足の上で丸くなる黒猫にしか目を落としていない。

 あんなに身を呈してまで守ってもらったのに、こんなに小さくなってしまっているのが申し訳ない。


 知らない世界に連れてこられてしまったのは驚きと恐怖もあるが、あの状況だと生き残るのにそれしか方法がなかったのはわかる。あのままだったら、霧亜が魔法を使えたとしても地面に激突して怪我をしていたかもしれない。霧亜の腹にはナイフが刺さっていたのだ。


 智奈は霧亜の足の上にいる黒猫を抱き上げた。

 霧亜の目が黒猫を追い、やっと智奈と目が合う。

 一瞬左右に深く青い瞳が揺れるが、智奈がじっと見つめてくるのに負け、見つめ返してきた。


「さっきは、助けてくれてありがとうございました」

 智奈は頭を下げる。

 霧亜はいや別に、としどろもどろとまた視線が逸れる。

 また黒猫を持ち上げてゆらゆらと揺らすと、智奈の意図がわかったようで、霧亜は渋々目をまた合わせてきた。


「この猫ちゃんが喋るのにもびっくりしてるし、魔法みたいなことが目の前でいっぱい起こって怖かったけど、ちょっとワクワクもしてるの。だから、この世界の色々見てみたい。色んなところ行ってみたい」


 霧亜の目は、驚きと動揺で揺れた。目を瞬いてから、小さく息を吐き、横を向いて安堵の笑みを見せた。


「あんた、向こうの世界で育ったって聞いてたけどこっちの言葉喋れるのね」

 黒猫が智奈に、持ち上げられながら首をこちらに向けてきた。

 霧亜は大きな目を更に目を大きく見開いた。目玉が落ちてしまうんじゃないかというくらい目いっぱいに開眼されている。

「自然すぎて気付かなかった」

「なんか、理解できてるのにびっくりしてる」

 実際、この言語を聞いたことは智奈の記憶では無い。だが、何故か聞き馴染みはあるような気もする。


「サダンが上手くやってくれたのか」

 霧亜はため息をついた。


「あたしの名前はナゴ!」

 智奈の足の上にいる黒猫が、智奈に顔を近づけていった。

「あたしは弥那に仕えてた獣化動物よ。あたし智奈と契約結びたい」

 キラキラとした黄色い綺麗なガラス玉のような瞳が、まっすぐ智奈を見つめてくる。

「え、お前オレとの契約切るつもりかよ」

「だってあんた校長に卒業祝いでアズもらってたじゃない。智奈が心細いでしょ。あたしの方がお姉さんなんだから」

 得意げにひげをヒクヒクさせ、ナゴは智奈の頰に頭をすり寄せてきた。


 猫にここまで近付かれたこともなかなかない智奈は、反応が出来ずに固まってしまう。念願の猫が、目の前にいて、懐いてくれていて、しかも言葉もしゃべれて会話できる。


「わーかったよ」

 霧亜は母親の写真のあった本棚に近付き、一冊の分厚い本を取り出した。

 開くと、あるページを癇癪をおこした子供のように破り捨て、その本をこちらに持ってくる。

 出された本のページには、契約書とあった。これも、知らない言語だが、読める。


「はいここ、契約すんなら手置いて」

 霧亜は契約書の文字がつらつらと書かれた下の余白を指さした。

 まるで建物の借用書にサインを求めるヤクザのようだ。

「契約したら、どうなるの」

「心配しないで」

 ナゴがテーブルの上に飛び乗り、そこを踏み台に智奈の肩に飛び乗ってきた。首周りにマフラーのように巻き付き、小さな手で契約書を指し示す。

「これはあたしたち獣化動物の契約書よ。これで契約すれば、あたしは智奈が呼べばどんなとこにいても駆けつけられるようになる。あたしたちを獣化させられるのも契約者だけよ」

「じゅうか?」


「獣化動物ってのは、今みたいな小さい姿から、人を乗せれるくらい大きく変型できる動物。第一の世界で広まってる神様、伝説、妖怪の動物の類は、獣化動物がたまたま向こうで獣化を使ったのを見られたのが原因で作り上げられたことが多いな」


 霧亜は、八咫烏やたがらすのアズという獣化動物と契約しているらしい。


 霧亜とナゴに促され、智奈はあれよあれよと契約を決められる。

「その空白に手の平置いて」

 霧亜に言われ、智奈は契約書の大きな署名部分に、手を置いた。ナゴはその隣に可愛らしい前足を置く。

 すると、智奈とナゴの手の下から毛細血管のように赤いインクが流れ出し、空白の多かった契約書を埋め尽くす。毛細血管の先が数本紙から浮き上がり、先端の尖った触手が、智奈とナゴの手に向かって襲いかかってきた。針山に手を置いてしまった時のような、強烈ではないものの、ちくちくとした痛みが手の甲に突き刺さる。


 智奈は驚きと痛みで契約書から手をはなそうとした。

「離すなよ」

 後ろから霧亜が智奈の腕を掴んで離さない。


「暁乃智奈の名のもとに契約を申し出る。猫又ヴェダラナゴ、互いを分かて、主死する時仕も死せよ、さすればこの命汝に与えん」


 後ろから聞こえる淡々とした霧亜の声が終わると、刺さっていた赤い触手が肩まで勢いよく登ってきた。もがこうにも、霧亜が押さえ込んでいて逃げれない。


 唸り声が聞こえる。テーブルの上にいるナゴの毛が逆立ち、牙が剥き出しになっている。見境なしに大きな爪を奮ってきそうな迫力がある。可愛らしかった黒猫からは大きくかけ離れた化け猫へと変貌しつつあった。


 腕から入り込んだ赤い触手は体中を駆け巡り、胸に収束した。

 霧亜からの拘束が解け、智奈はその場にへたりこんだ。自分の身に起こったことが信じられずに、息があがる。


「びっくりした? ごめんね、でもありがとう智奈」

 ナゴがテーブルを降り、智奈の腕に擦り寄ってきた。

 もう、あの襲いかかってきそうな化け猫ではない、さっきまでの黒猫に戻っている。気持ちのいい毛並みで、智奈の心は多少落ち着く。

「これからは、何かあったらあたしに任せなさいね、ポンコツ霧亜より役に立ってあげる。なんでも教えてあげるから」

 まだ触手に襲われた衝撃から帰って来れない智奈は、こくこくとうなずくことしかできなかった。


「智奈、腹減らない?」

 まさか、と言おうと思ったが、気にし出すと案外胃の中は空っぽらしい。

 昼頃に美味しい料理を食べさせてもらって、夕方暗くなる頃に壮介の家をお暇したのだ。向こうの世界なら、夜ご飯の時間だ。

「空いた」

「じゃあ、オレの友達んとこ行ってご飯にしましょ」

 霧亜は歯を見せてにやっと笑った。

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