3 第二の世界
3-1 智奈と本当の姿
———— Tina
痛い。はずだったが、痛くはなかった。体勢は、尻餅をついたような状態だった。お尻を打ったように感じたが、地面はふわふわだった。
いつの間にか瞑っていた目を開けると、グレーで質素な羽毛布団が広がっている。ベッドの上にいるようだった。
辺りを見回すと、さほど物は多くないが少々汚めな部屋が広がっていた。本棚にはあまり整列されていない本が詰め込まれ、フローリングにはたたまれていないパーカーとジーンズ、小さなテーブルには置きっぱなしのペンと無造作に置かれた本の山。書類が散乱している。
ベッドの隣の窓からは、夕陽のオレンジ色の光が智奈の足元に差し込んできている。
「あんた誰」
警戒心剥き出しの、少女のようなかわいらしい声がした。だが、あたりを見回しても少女の姿はない。
ベッドの上にすらりと上がってきたのは、黒猫だった。
「もしかして、あんた智奈?」
猫の口がパクパクした。
目の前の光景が信じられず、思わず口をあんぐりとしたまま硬直した。
猫が喋ってる?
「ちょっと、聞いてるの?」
しなやかに黒猫は近付き、ふんふんと智奈の匂いを嗅ぎにきた。そのまま、足の上に乗り込んでくる。
太ももの上に、黒猫は丸くなった。
猫が喋った驚きは、可愛さへの探究心に負け、おそるおそる背中を撫でてみるが、黒猫は喉を鳴らす。
「あんた、嫌いな匂いじゃないわ」
今の状況より、なによりも猫が足元にいる状況に、智奈の中は幸福でいっぱいになった。
「霧亜は?」
猫の声と、智奈の疑問はほぼ、同時だった。
立ち上がろうとすると、猫はするりとベッドから降りる。
智奈のいるベッドの足の先には、ドアがあった。生活感丸出しの部屋を出ると、短い廊下があった。進むと、左右にあと二つ扉があり、行き止まりにはまた扉がある。
行き止まりの扉を開けると、開放的なリビングが広がっていた。何故か、見たことのあるリビング。
そこの違和感は一つだけ。
ダイニングテーブルとソファの間、ちょうど丸いカーペットがある所に、霧亜が仰向けに倒れている。
「霧亜!」
猫の声と、智奈の思いが再び重なる。
霧亜の意識はあった。かけよると、ひゅーひゅーと荒い息をしている。
薄く目を開けると「ただいま」と霧亜は黒猫の背中を撫で、何か黒猫の耳元に囁く。
それを聞いた黒猫はソファの上の窓から家を飛び出して行った。
霧亜の脇腹には、あの八木組の男に突きつけられたナイフが刺さったままだった。
ジャケットの中の白いTシャツを真っ赤に染め、下のカーペットにまで染み込んでいる。
「き、救急車」
呼んだことはないけれど、とりあえずかけなくては。名前と、住所と、霧亜の状況を伝えて……。
そこで、智奈はふと気がついた。
ここはどこだろうか。
霧亜が、智奈の手を握ってきた。
「大丈夫」
そういうと、ずるずると上半身をゆっくりと起き上がらせ、後ろのソファにもたれかかった。
「大丈夫。ナゴに人呼んでもらったから」
「霧亜それ」
智奈は震える声で霧亜の脇に刺さるナイフを指差す。
霧亜はにっと歯を出して笑った。
脂汗を額に浮かべながらの笑顔は、無理をしていることくらい智奈にもわかった。
「ごめん、集中して移動できなかったから、怪我してねえか?」
見知らぬ家と、喋る猫と、大怪我の兄のせいで忘れていた現実に、智奈ははっと霧亜を見つめる。
透き通った灰色の瞳がこちらを見返してきた。
「あたしたち、どうなったの?」
霧亜は用意していた答えのように、噛み締めて答える。
「第二の世界に、戻ってきた」
霧亜の言葉で、智奈は数週間前の記憶が鮮明に思い出された。
霧亜が、智奈の所に来た理由。
——お前を迎えに来た。
そう、霧亜は智奈を連れ戻しに、世界を飛び越えて来たのだ。智奈と一緒に暮らし、一緒に学校に登校し、大人になるためではない。全てはこのために霧亜は智奈の目の前に現れたのだ。
「ここ、どこ?」
様々な疑問が頭の中で飛び交うが、一番の質問は、自分の現状を知ることだった。
「オレの、オレ達の家」
「いえ……」
霧亜は、うろうろと目線を泳がせ、事の説明をしようと口をパクパクさせるが、言葉が思いつかないのか沈黙が訪れた。
「あの人、誰」
突然現れ、智奈を助けてくれた黒いコートのおじさん。霧亜は知っているようだった。
「死んじゃうかと思った」
高いビルから投げ出されたのだ。こんなところにいるのはおかしい。
第二の世界って……。
「もう、戻れないの?」
頭より感情の方が理解が追いついてきているのか、声が震えた。
霧亜は慌てたように様々なジェスチャーを試みるが、大きく動けないようで、いまいちこちらには伝わらない。
「いや、戻れる。まだ未成年だからあれだけど、許可が降りれば大丈夫。だし、成人と一緒なら行ける。誰かに頼めば……サダン、サダンならなんとかしてくれるから」
こんな慌てた霧亜を見たのは初めてだった。いつもヘラヘラしているのに、今は本当に困っているようだ。
妹のダムが崩壊しそうなのを、なんとかして食い止めようとしている。
「サダンって誰……」
自分でも想像していなかった所で、眉間の奥がぎゅっと収縮し、涙腺のダムは崩壊した。
戻れる、戻れるよ。
必死にそこを繰り返す姿を見て、智奈はうっすらと感じ取った。
もう戻ることはできないのだと。
何が悲しいのか、先程の謎の男が怖かったのか、誘拐されたことが怖かったのか、元の世界に帰れないことか、よくわからない所に連れてこられたからなのか、友達に会えないことなのか、全てがぐちゃぐちゃになって、言葉にできない嗚咽として出てきた。
「霧亜呼んできたわよ」
黒猫が上に設置された窓から慌てたように戻ってくる。
重体の飼い主と、嗚咽のやまない見知らぬ少女のいるリビングに入ってきた黒猫は、霧亜と智奈を見比べ、智奈の方に寄ってきた。
「どうしたの、霧亜は死なないから大丈夫よ」
前足を智奈の肩に置き、頬を舐めてくる。ザリザリと舐め取られる涙も、まだまだ枯れない。
霧亜はどうしたらいいのかわからないあたふたさせる手を、おそるおそる傷が痛まないようゆっくりと智奈の頭に乗せた。
「ごめん、ごめんな。いきなり、こんなところに連れて来ちまって。本当は、もっとゆっくり一緒に、ちゃんと行こうと思ってたんだけど、その、ごめん」
頭にあった手が、涙でぐしゃぐしゃの手を掴んできた。大きなごつごつした砂だらけで血だらけの手が、智奈の小さな手を包み込む。
「でも、絶対、オレは置いていかないから。もう一人にさせないから」
視界がゆるゆるで、霧亜の髪の色が白く見えた。
パチリと瞬きをして瞼の中の涙を頬に流すと、日に照らされて真っ白に輝く髪の毛の間から、深く青い瞳がしっかりと智奈の瞳をを捉えている。
ひゅっと喉の奥がつまる感覚を覚えた。
「目、青い」
嗚咽を混じえながら、智奈はその言葉を絞り出した。
泣きじゃくる妹から突然外見について指摘された兄は、はて、と目を瞬いた。上を見て、あ、と声を漏らし、恥ずかしそうに頭をかく。
「お前が泣いたせいで、変装解けた。本当はこんな目と髪なんだ。小学校入るのに目立ち過ぎると思って」
智奈は鼻をすすりながら、涙に緩むコンタクトレンズを両目とも外した。
おそるおそる顔を上げると、兄の深い青に透き通った水色が映る。
「ヤナとハイネンの目ね」
黒猫が智奈の瞳をうっとりと眺めた。
「お前、隠してたのか」
霧亜も驚いたように智奈の顔を覗き込む。
「ちっちゃい頃、これでいじめられてから、隠してた」
霧亜は智奈の栗色のポニーテールの後ろ髪を触ると、深くため息をついた。
「お前、オレの妹なんだなあ」
「おかえり、霧亜、智奈」
頭の上に手を置かれた。偏頭痛のような痛みが一瞬こめかみを襲い、じわりと波紋を広げたかと思うと、脳をホッカイロで温められたかのように熱くなった。何故か、気分の悪いものではない。
霧亜の隣にスーツ姿の男が立っていた。
細身のフレーム眼鏡の向こうからニコニコと糸のように細い目が笑っている。かっちりとしたグレーのスーツを纏った、細く長い男だった。三十代にも五十代にも見える、年齢不詳な顔立ちをしている。
「霧亜……」
再び危険が迫り、智奈は動けない霧亜ににじり寄った。
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