1-8 智奈と黒いコートの男
———— Tina
霧亜が突然目の前に現れてから、一週間ほど経った。
朝に霧亜を起こすのも、料理を二人分作るのも、最初は恥ずかしかったが、登下校を真人と霧亜の三人でするのも、学校で霧亜のことを聞かれるのも、もう慣れた。
そこで最近耳にする悪い噂が、霧亜が栗木壮介とつるんでいる、という噂だ。
まさか、と思ったが、どうやら本当らしい。家で問い詰めても、「そんな悪いやつじゃねえよ」と言うだけだった。
まさか、あの悪名高い栗木と仲良くなってしまうなんて、智奈の頭は痛くなった。
帰りの会が終わると、智奈は真人と二人で、六年生のいる一つ上の階へ上がった。霧亜のせいで、一気に六年生に顔が知れ渡った。
ある女の子が智奈を認識すると、「霧亜くん?」と聞いてくる。
智奈がうなずくと、六年三組の教室に入っていく。智奈が来たら、霧亜を呼ぶ係というものが、六年の女子でローテーションされているらしい。
教室から、霧亜が出てきた。他の六年生の男子より少し背が高いため、よく目立つ。それ以外の要素でもよく目立つが、よく目立つ。
「なあ、やっぱ霧亜も智奈も、クラブ入らない?」
帰り道、真人はボールケースに入っているバスケットボールをサッカー少年のように蹴って歩いている。
「やだよ。オレのワンマンプレーになるの嫌だろ」
確かに、霧亜が入ったらフィジカルも強そうだし、階段から落ちても体操選手のように降りたって聞くし、強そうだ。
「それは嫌だけど」
真人は素直に悩む。
「二人が入ったら都大会行けると思うんだけどなー」
霧亜はけらけらと笑った。
「全国連れてってやるよ」
真人と別れ、家への道を歩く。
辺りはもうぼんやりと暗くなり出している。数人の老若男女が大通り沿いの歩道を歩いている。
反対側から歩いてくる小学生の姿があった。
ちょうどお互いが顔の認識が出来るくらい近付いた時、向こうは、はっと顔を上げて小学生は智奈と霧亜を認識した。そしてぱたぱたと近付いてくる。智奈と身長は同じくらいかそれより小さい少女だった。
「霧亜くん。あと、親戚の子だよね?」
そろそろ、その言われ方も飽きてきた。
「そう、です」
霧亜を呼ぶということは、六年生だろうか。
「菅野、家反対側じゃなかったけ」
栗木の後ろにいつもついている女子だ、と後から聞いた。そういえば、栗木の周りで見たことあるかもしれない。
「わたし、今ピアノのお稽古帰りなの」
女の子はもぞもぞと指先をこまねくとゆっくりと上目遣いになり口を開く。
「霧亜君って、壮介と最近一緒にいるよね」
「いるな」
ついさっきの出来事があり、智奈は立て続けに栗木の話題にたじろいだ。
女の子の瞳がぎらりと光る。
「本当に、気を付けて。霧亜くん危ない」
いつも生徒の口から出る言葉だ。栗木に気を付けろ、栗木に近付くな。腰巾着の菅野も、そう思っているのだろうか。心配して、忠告しているのだろうか。
「お前もそんなこと言うのか? あいつ良いやつじゃんか」
霧亜が、少し苛立った口調で言う。
その言葉を聞いた菅野の毛がざわりと逆立ったように見えた。
「壮介を、見ちゃダメ」
辺りの木々がザワザワとさざめく。空気がピリピリと耳に届き、頬を小さな無数の針で刺されているような感覚に陥った。
「嘘だろ……」
霧亜が呟くと、智奈を守るように、前に腕を出してきた。
身体の中に残っている動物の勘が、危ないと警報を鳴らした。この女の子は、何か危ない。
「こんなところで何をしてる」
男の低く通る声が、辺りのざわめきを一瞬で鳴り止ませた。冬の凍る寸前の湖のように、ぴんと辺りが静まり返る。
声のした方へ顔を向けると長めの黒いコートを羽織り、フードまですっぽりと被った、背の高い男が智奈の数メートル後ろに立っていた。街灯の灯りか、目が異様に光って見え、動物に睨まれたように動けなかった。
その目が、青くぎらりとライトのように光って見えた智奈は、恐怖で身の毛がよだち、霧亜の手を取って、少女を押しのけて全速力で家へと駆け抜けた。
門をあけ、数段のステップを駆け上がり、ポーチから鍵を出そうにも慌てすぎてガチャガチャと意味の無い手の動きをするばかり。
「落ち着け」
鍵を奪われ、霧亜が鍵を開ける。玄関が開いた。
どこかの電信柱の後ろに、あの黒いコートの男が潜んでいそうで、智奈は霧亜を家に押し込んでばたりと鍵を閉めた。
ソファに座り、やっと息をつく。じんわりと汗が額に滲んでいた。
霧亜の手を掴みっぱなしにしていた事を思い出し、慌てて放す。
霧亜は突然、声を上げて笑った。
「脱兎のごとくってこういうこと言うんだな」
智奈は顔が真っ赤になるのを感じる。
「だって、怖かったんだもん」
霧亜はうんうん、と頷く。
「あれは、怖かっただろうな」
風呂を沸かし、先に風呂に入った。
あのおじさんと菅野という少女の出来事があった後の風呂は怖い。だからと言って、霧亜と一緒に入る気にはなれない。いつもよりだいぶ早く、智奈は風呂から上がった。
シャンプーが一番怖かった。目をつぶって頭を洗っていると、脳裏にどうしてもあの黒い男が蘇ってくる。いつもは心霊番組で怖くなっていたのに、実体験してしまったが故のリアリティが、暗闇で襲ってきた。
風呂から上がり、ソファに寝転がってバラエティ番組を見ていた霧亜の肩をたたく。扇風機の近くで、わさわさと髪の毛を揺らす霧亜の意識は、完全に番組に集中していた。んー、とだけ、返事が返ってくる。
霧亜の見ている番組は、猫特集だった。大量の子猫が最近話題の有名人になだれ込んでいく。
「あいつのこんな姿知らねえな」
ぼそりと霧亜は呟く。
「あいつ?」
「向こうの世界で、一緒に住んでるんだ。黒猫」
智奈の心はその霧亜の言葉に鷲掴まれた。道端でも猫を見かけると、こっそりコンビニで買っていた猫缶をあげたりしてしまうほど、猫が好きなのだ。
「そうなんだ」
そわそわした智奈の声に微塵も気づいてくれない霧亜は、ふらりと風呂へと立ち上がった。
智奈はまだ見ぬ霧亜のペットの黒猫ちゃんと遊ぶ妄想を思い描きながら、アイスココアを作ろうとお湯を沸かした。
突然、目の前が真っ暗になった。ああ、ブレーカー落ちた。
扇風機と湯沸かし器を一緒に使ってしまうと、停電になってしまうのは智奈の家の常だった。
いつもであれば、そう思って冷静にブレーカーを上げにいくのだが、今日は違う。暗闇からあの恐ろしい男が襲ってくるのではと想像してしまった智奈は、慌てて脱衣所に駆け込んだ。
風呂周りの明かりは生きている。
「つめて!」
風呂場から声がする。シャワーから冷水しか出なくなったのだろう。智奈を呼ぶ声がする。
「ブレーカー落ちたぞ、お前またココアか。心臓キュってなった、キュッて!」
「霧亜」
風呂場のすりガラス越しに、霧亜の背中が見える。
「なんだよ、怖ぇな」
うっすらと、霧亜はこちらを向いたように見える。
「怖いから一緒にブレーカー直しに行って」
抗議を示す声が一瞬聞こえたが、今日の出来事を思い出してくれたのか霧亜はガラリと風呂場から脱衣所に出てきた。
智奈は慌てて後ろを向く。
「そこで待ってろ」
腰にタオルを巻いた、頭をびしょびしょに濡らした霧亜が脱衣所を出て行った。やってくれるのは嬉しいけど、このびしょびしょの床を拭くのは智奈なのだが、文句は言えない。
ばちんとブレーカーの一つを直す音が聞こえ、霧亜が戻ってきた。
「ありがと」
床は私が責任をもって拭いておきます。
智奈は言いながら、霧亜の体をまじまじと見た。筋肉質な体格で、余分な脂肪は全くなさそうな体だ。ボクシング選手ほど細くもなく、均等に筋肉がついている。
しかし、体よりも目に入ったのが、肩にある痣のようなものだった。
霧亜も、智奈の視線に気づき、霧亜は自分の右肩を掴んだ。
「これな、親父に付けられたんだ」
そういうと、智奈によく見えるように自分の肩を近づけた。
痣のように見えたが、よく見ると絵柄になっている。サークルの中に、更に丸や星、知らない文字がたくさん書かれている。
霧亜が一度だけ見せてくれた、水の魔法を出した時に出たような、魔法陣だ。
「お父さんに?」
虐待というやつだろうか。孤児院に行ってたと言っていたし。
霧亜は頷いた。
「封印魔術なんだ。オレの中に何か封印されてる。何かはわかんないんだけど」
智奈はくすりと笑ってしまった。
「俺の右手が疼くぜ。みたいになるの?」
霧亜はケラケラと笑った。
真剣に話してくれたのに、冗談で返してしまったと一瞬後悔したが、よかった、笑ってくれた。
「中二病かよ。俺の封印されし眠れる力の封印が解かれたら、なんとかしてくれな」
そういうと、霧亜は風呂場に戻って行った。
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