6-6

   *   *   *


 実はあの後、札幌で一度だけ、一穂を見かけたことがある。

 真駒内の橋の上で渋滞に巻き込まれた時だった。窓に頬杖を突いてぼんやり車列を眺めていると、反対側の歩道を走るあの子の姿があった。トレーニングウェアを着て、走り込んでいるようだった。もしかするとフィギュアを再開したのかもしれない。

 向こうはこちらに気付く様子はなかった。

 こちらからも声を掛けはしなかった。

 いつの間にか前の車が進み出していて、後ろからクラクションを鳴らされた。あたしは急いでギアを入れ、車を発進させた。


 さて、ここまで長々と綴ってきたわけだけど、あたしの話はこの辺で終わりにしよう。

 あたしがこんな文章を記したのはなにも、未来の金メダリスト(になっているかもしれない少年)と実は知り合いだったのだということを君に自慢するためだけじゃない。

 もし君が大きくなって、周りの全部に不満や失望を抱いた時に、あたしの言いたいことを伝えるためだ。たぶん、口で言っても上手く伝えられない気がするから。まあ、こうして文章にしたところで、真意が伝わったかは自信がないだけど。

 最後に一つ。

 君のお父さんについて。

 少々悪く書き過ぎたことを謝っておくよ。あたしにとっては良い思い出の少ない人だけど、君にとっては世界でたった一人の父親だから。君が彼をどう思うかは君の自由だし、会いたいと思うなら止めはしない(色々面倒だからじいちゃんには内緒でね)。とにかく、あたしに何の気兼ねもする必要はない。

 あ、まだあった。

 今度こそ最後に。

 君がこれを読む時、あたしは田舎の小さな牧場のおばさんになっているかもしれない。というか、かなりの確率でそうなってると思う。

 君はあたしをつまんない人間だと感じるかもしれないけど、君が生まれる前には、なかなか色々なことがあったのだということをわかってほしい。別に、君のせいで田舎の小さな牧場のおばさんに落ち着いてしまったという意味ではなくてね。

 君の傍にいる一見つまんない人間だって、意外と人生にはドラマチックな瞬間があったんだってことを知ってほしい。

 世界はずっとずっと広いし、みんなそれぞれ色々なものを抱えて生きている。

 そういうことを理解出来る人間になってほしい。


 なんだか締まらないな。こういうの慣れてないから、勝手がよくわからない。

 じゃあ、ホントのホントに最後の一言。

 こんな母親だけど、これからもよろしくね。


   *   *   *


 あの後一度だけ、札幌で綾瀬さんを見かけたことがある。

 丁度、桃香から来た手紙への返信をポストに投函した時だったからよく覚えている。

 彼女はまだ、あのハンプティ・ダンプティのような車に乗っていた。いや、正確には、押していた。相変わらず故障が多いのか、またガス欠を起こしたらしかった。

 何台もの車が、迷惑そうに彼女とハンプティ・ダンプティを追い抜いていく。僕は通りの反対から、その光景を眺めていた。手伝おうという気持ちが湧かないでもなかったけど、ガソリンスタンドは目前だった。

「まったく……駄目になりそうだったら、早めに言えっての」

 綾瀬さんの声が聞こえた。

 距離的に聞こえる筈がないから、これは僕の記憶の底から聞こえた声だろう。だけど、かなりの確率で同じことをぼやいている気がした。

 ガソリンスタンドから、気付いた店員が二人、駆け出してくる。彼らは綾瀬さんと一緒に、車をスタンドへ押し込んでいく。綾瀬さんは頭を掻きながら、二人に礼を述べた。それから助手席のドアを開け、後部座席から何かを取り出した。

〈何か〉じゃない。

〈誰か〉だ。

 こちらまで声が届きそうなほど大きな口を開けて泣きじゃくるその誰かを、彼女は懸命にあやそうとしていた。そして誰かを抱きかかえたまま店員に話し掛け、事務所の方へ案内されていった。

 僕は、じっと給油を受けるハンプティ・ダンプティへ目を向けた。綾瀬さんたちをこれから先へと乗せていくその姿を記憶に焼き付け、ポストの前を離れた。


 歩き出すと、身体が軽かった。まるで、氷の上を滑っているみたいだった。

 このままどこまでも、進んで行ける気がした。


〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エンプティ・エンプティ 佐藤ムニエル @ts0821

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ