最期の写真
大宮コウ
最期の写真
1
大した理由で始めたわけではなかった。
歩いた先で何気なく撮った写真。現像するわけでも見返すわけでもない。ただ、容量の肥やしになっていくそれがもったいない気もして、SNSで投稿するようになった。
友人に言われて登録したままのアカウントに、写真を投稿する。歩く。撮る。投稿。歩く、撮る、投稿。
毎日のように繰り返しを続けていくと、どこから来たのか写真を見る人間が現れた。一年と二か月程度続けた今では、フォロー数が一人に、フォロワー数が五十六人。きっと少ない数で、それでも自分には過分すぎる数。
そんなことに、意味はないのだけど。
一方的にこちらを見ている誰かたちとは言葉を交わすわけでもない。親しくなるわけでもない。
観測者の有無に関わらず、俺は日課を続ける。
歩く。撮る。投稿。歩く。撮る。投稿。歩く。撮る。投稿。歩く。撮る。投稿。歩く。撮る。投稿。
通知。
変わらぬ日々を送っていく中で、ひとつ、転機が訪れた。
真夜中に来たSNSのアカウントへのダイレクトメール。他の人には見えない個別の連絡。初めてのそれは物珍しいもので、少しだけ興味が湧いた。
書いてある文章は簡潔に、一言。
『私の写真を撮ってください』
2
彼女は、依頼という意図でもって接触してきた、らしい。しかし最初、俺は何の目的で連絡をしてきたのか、見当がつかなかった。そもそも意図もつかめないし、彼であるのか彼女であるのかも分からない。『透子』というハンドルネームは一見女性である。しかし顔の見えないネット上だ。現実での性別を判別する上ではあてになるものではない。
俺はといえば、返答に困っていた。興味本位で見たものの、そういった依頼なんて受けたこともないのだ。そして、疑問をそのまま聞くことにした。
まず、自分でいいのか、と聞いた。写真について、俺はアマチュアでさえない。撮影機材は借り物のよくわからないカメラだけ。撮影技術は単なる慣れ。ネットに上げているものだって、俺にとっては偶然撮れたマシなものに過ぎないと。
疑問をありのまま伝えても、答えは『構わないです』の一言。連絡を送ったのは深夜の三時だというのに、一分足らずで来た返事は、機械による自動返信にも思えた。
次に、写真を撮るならどこで撮るのか尋ねた。 すると場所や報酬や期間については直接会って話したい、と提案される。まだわずかなやり取りしかしていないのに、会合の場として彼あるいは彼女が提示してきたのは、ひと駅隣の喫茶店だった。まるでこちらの居場所を知っているような指示であった。
怪しい。しかし、考えてみればおかしなことではない。これまで俺が撮った写真の中には、居場所がバレそうなものだっていくつかある。地元の人間であれば、撮影場所を特定することは難しくはないだろう。俺の行動範囲自体、さほど広い訳ではない。だから気づかれていてもおかしくはない。
結局、俺は『透子』を名乗る何者かと会うことにした。
夕方の閑散とした住宅街は、冬の寒気も相まって余計に静かに思えた。駅から歩いて十分ほどでようやくたどり着いた場所は、マンションの一階にあるカフェだ。ガラスの中は暗くて奥を見通せない。隠れ家のようだと思った。
カフェの一番奥の窓際の席。そこで待っていると連絡されていた。
だから入らなければならないのだが、カフェの扉を目前にして、足を止めてしまう。誰かと会うときには、それが知人であれ他人であれ気が重くなる。家を出る前から帰りたくなるし、実際に帰ってしまったことさえある。興味が湧いたときの記憶は、もはや遠い過去に思えた。
意を決して、扉を開く。からん、とドアについた鐘が鳴る。コーヒーの香り。店内には不安になるほど客がいう。カウンターの向こうにいた男性店員が何事かをいった。もごもごとして聞き取りにくいが、いらっしゃい、みたいなことをいったのだと思う。軽く会釈をしてから、歩を進める。
奥のソファー席で、依頼人がいるはずの場所。そこに彼女はいた。
美しい彫像であった。大きな白いニットの曲線は大理石の彫像めいている。艶やかな黒髪が、流血のように落ちて流れている。窓側の壁に小さな頭を委ねる姿は、ともすれば息絶えていることさえ連想してしまう。
目の前の彼女は、すうすうと寝息をたてている。名前も知らない彼女は眠っていた。
声をかけることを躊躇われた。人違いである可能性もあった。
なにより、彼女の姿は一枚の風景で。
その芸術を逃してしまうのは勿体無い気がして、俺はカメラに手を伸ばし……
空気の読まない店員がいつのまにかやってきて、俺と彼女を挟む机に、お冷やを置く。
カン、と音を立てられたことで、びくりと、目の前の彼女が肩を震わせた。そして、ゆっくりと開かれる。目が合う。
どうにも気まずい気がして、店員の方に顔を向けてしまう。
「ど、どうも……」
「…………」
店員はメニューを置くと、無言で元の場所に戻っていった。
目をぱちぱちと開いては閉じ、小さな口で小さくあくびをして、目をこする。そこまでやって、ようやく彼女は目の前の俺に気づいた。
頬を羞恥で染めて……おずおずと、彼女は口を開く。
「『メガネ』さん、ですか?」
「はい。そちらは『透子』さん、ですよね」
互いのハンドルネームを名乗りあう。人違いではないと認識しあう。
透子さんは、肩を縮こまらせていた。
「寝ているところを見られるなんて、その、お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
「いえ、こちらもその、すいません。本人かわからなくて……起こしていいものか」
彼女と対面に座る。ちらちらと揺れる前髪の隙間から、じい、と彼女はこちらにまなざしを向けてくる。
「ここは、ブレンドコーヒーがおいしいんですよ。苦いもののが苦手な私でも、おいしく飲めるんです」
「そうですか、なら、そちらで」
彼女の勧めのままに、無愛想な店員に注文した。
コーヒーが来るまで、静寂は続いた。
その間の彼女といえば、顔色を伺うような、物珍しがっているような表情が混ざっていた。
その挙動には覚えがある。かつての自分だ。インターネットの人間と、初めて直接会ったときの落ち着かないあの感じ。
若いな、とは思っていた。連絡のやりとりから、比較的幼いとは思っていたのだ。
コーヒーが来る。白い湯気が、亡霊のように出ている。息を吹きかけて、少し冷ましてから口にゆっくりと含む。
「おいしい……」
「それならよかったです」
彼女の返答に、少しばつが悪い。想像以上に飲みやすくて、つい口を突いて出てしまったのだ。彼女はまるで自分のことを誇るみたいに微笑んでいる。
「お会いできて、嬉しいです」
「そういってくれるほど大した人じゃなくて、恐縮だけどね」
「そんなことないです。私はあなたの写真が好きですから。特にこの間投稿されていた……海の写真。いつか行ってみたいと思ってしまうくらい、好きです」
「ほら、壁紙にもしてるんですよ」と彼女は無邪気に笑って携帯の画面を見せてくる。まっすぐに向けられた好意は、少しくすぐったい。
「それで、写真のことについてだけど……俺はプロのカメラマンだったり、写真家でもない。たまに写真を撮るだけの一般人な訳だけど、本当に俺に任せていいの?」
「はい。問題ないです。あなたの写真を見て、あなたに写真を撮ってもらいたいと思ったんです。もちろん、報酬は出させていただきます」
俺の質問に、彼女は当然とばかりに目を合わせる。煌々と輝く瞳には、どこか鬼気迫るものがある、気がした。
「報酬っていうのも、大袈裟だから正直いいと思うんだけど……」
「いえ、その辺りはちゃんと出させてほしいです。きちんとした報酬があるほうが、こう、使命感が出るって言いますし」
ぐいぐいと話を進める彼女に対し、俺はといえばどちらでもよかった。
「……わかった。相場とかはわからないけど、まあそのあたりはおいおい決めていこうか」
「あ、それでしたら私、もう持ってきてます」
彼女はそういって、封筒を出してきた。見覚えのある、銀行に置いてある緑色の細長い封筒。差し出されたそれを、つい反射で受け取ってしまう。封筒は見た目よりも、ずいぶんと重かった。
こういうとき、中身をその場で見るのはマナー違反だろうか。いや、祖母から貰ったお年玉でもあるまいし、気をつかう必要もあるまい。さも平然を装って、俺は包みの中を除いた。
入っていたのは、銀行が発行している最高額の紙幣だ。一万円の紙幣。少し触れてみれば、コピー用紙ということもなさそうだ。当然、子どもの銀行券というわけでもない。
現実味の薄い金銭が、親指の幅ほどの厚さで、物質として確かにそこにあった。
俺は封筒を机に置く。
コーヒーを一口含む。苦い。当然だ。ミルクも砂糖も入れていないのだ。
目の前の彼女は、上目遣いでこちらの顔色を伺ってくる。視線が合うと、再び伏せて彼女もコーヒーを飲む。冷めているだろうにコップを両手で支えてちびちびと飲む姿は、鳥が水を飲むようで、庇護欲を感じさせた。
とても就労しているとは思えない、若い少女だ。年齢が、というだけなく、その挙動、その雰囲気から感じた。ここに置かれた札束は、十中八九、自分で稼いだ金ではないだろう。ではどこから持ってきたのか。遺産、犯罪、拾い物、美人局。個人的に、特に最後はないと思いたい。彼女の挙動が演技なら、もう何も信じられなくなる。元から信じているかは、さておき。
正直にいえば、依頼を受けたときからタチの悪い見世物にでもするつもりじゃないかと思っていた。ラブレターだと思って呼び出されたら罰ゲーム告白だった、みたいな。
でも、どうにもそうでもないらしい。ましてやこんな札束で。これではかえって脅されているみたいだ。
そんな風に思案を重ねる。思案を重ねると、どうにも無言になってしまう。どうにもよくないと思いながらどうにもならない癖だ。無言になっていた俺に、彼女はどう勘違いをしたのか、不安になったのか、あるいは言い忘れたことを口にしただけなのか。
「あ、あの、それは前金で……えっと、写真を撮ってくださったら、追加でもう半額お渡しする予定ですから、その……」
見当はずれの言い訳を彼女は続ける。
いずれにせよ、彼女の言葉で俺の気持ちは決まった。
封筒を、相手に戻す。
「依頼だけど、断らせてもらうよ」
彼女は、俺の言葉の意味を探るように、静かに言葉を繋げる。
「足りなかった、でしょうか。相場とか、その、よくわからなくて……」
彼女は見当はずれのことをいう。多すぎるのだ。金銭感覚がおかしいのか、わざとやっているのか。
「素人が貰うには、いくらなんでも多すぎる。それに……」
ほんの少し悩んだ末に、俺は口にする。
「俺の写真には、君が思うような価値はない」
彼女の認識を、俺は否定する。彼女がいいというものを、俺はそうではないという。直接会ってするのがこれだと、自分で自分が嫌になる。
けれども。
「それなら……それなら、撮ってください。ちゃんと私を撮って、その上で言ってください。それじゃないと、私、納得できません」
彼女は、揺るがなかった。
真っ直ぐに目を合わせ、確固たる自分の意思を語る。そうして欲しいと懇願する。
「私はあなたの写真が好きなんです」
若いな、と思った。
眩しいと、そう思った。
撮った俺にとっては、言ってしまえばたかが写真だ。そんなものに彼女は熱量を向けている。そんな彼女に、好感を否応なしに持ってしまう。
意固地になった人間は大人しく従ってしまうのがいい。経験則から、自分を納得させる。それほど老いたわけでもないのに、歳を取るほど諦めだけは上手くなっていた。
「わかった。じゃあ、撮ろう。それで、それっきりだ」
「本当ですか!」
投げやりにいう俺に、彼女は心底嬉しそうにする。本当に、俺の写真が好きなんだなと、ようやく思った。
「なら、行きましょうか」
「どこに?」
「私の家に、です」
彼女は、まるで明るい未来が待っているみたいに笑っていた。
3
のこのこと連れられた彼女の家は、喫茶店の上、すなわち同じ建物の……マンションの一室だった。どおりで、喫茶店によく来た口ぶりだったわけだと、一人納得する。
「メガネさんが撮った写真、あるじゃないですか。そこに見覚えのある景色があって。近くに住んでいるのかなーって思ったんです。それも依頼した理由の一つです」
エレベーターの中で、彼女は隠し事を明かすみたいに語ってくる。事実その通りなので、曖昧に頷いておく。流石に自宅まで把握していることはないだろう。仮に知られていた場合、友人の家を借りているので、流石に困る。
最上階のひとつ下、四階の角部屋が彼女の家らしい。慣れた手つきで鍵をくるりと回した彼女に、家の中に通される。
「お邪魔します」
「はい、ゆっくりしていってください」
ゆっくりとする気なんてないのだけれど。彼女の言葉に、いちいち気にしていたらきりがない。
玄関に靴は彼女の一組だけ。一人暮らし、なのだろうか。もしそうなら、この状況は不用心すぎる。
もっとも、初対面の人間の家に入る自分も無用心だ。あるいは無用心同士でちょうどいいのか。
通されたリビングは、綺麗だった。綺麗で、余計なものがなくて、生活感がなかった。
テレビも新聞も雑誌も電話もメモ帳もペンも花瓶も、この部屋にはなかった。
単純に、置いてある物が少なかった。生活感がない、と単純にいうには言葉が足りない。この空間からは生きようという意志が希薄に感じられた。
まだ日は落ちていない。遮蔽物となる建物がないために、西日で何をせずとも明るいが、電気をつけないのも不自然だ。なのに彼女は気にした風もない。
気にしていることに、気づかれたのだろう。彼女はなんでもないことのように話す。
「ああ、すいません。電灯、ずっと前から切らしているんですけど、変える機会がなくって」
「そうですか」
「はい、そうなんです」
中身のない会話を繋げる。距離を探られている。
「私、こう見えて引きこもりなんですよ。その上、面倒くさがりなんです」
そして、耐えきれずに、彼女は距離を詰めてきた。
「引きこもりって、比喩とかではなく」
「はい、比喩ではなく、本物の、です」
引きこもり。
彼女の嘘だとも、冗談とも思えなかった。
まあ、そもそもの話。嘘か真実かは、正直どうでもいいのだ。自分の人生に真面目に向きあえていない人間だから、たとえ行く先で何が起こったとしても、どうでもいい。自分のことさえ他人事だから、何だって容易い。
「コンビニとか、喫茶店には行ける程度の?」
「はい、コンビニや喫茶店には行ける程度の」
オウム返しのやり取りで、二歩進んで一歩下がるように、しかし着実に彼女は距離を詰めていく。
「そっか、ならよかった。急に家に連れ込まれたから、何をされるか気が気じゃなかったよ」
「普通、逆じゃないんですか」
透子さんは何が楽しいのか、くすくすと笑う。そんな彼女のことを、俺は不用心だと思う。
しかし俺だってやはり、無用心すぎたのだ。こんな有様の彼女に、興味が湧いてしまうくらいには。
4
緊張しますね、といって彼女は不器用に微笑んだ。
自然光だけが照らすリビングで、背筋を綺麗に伸ばして座って、薄暗い机に手を添えた彼女。
そんな彼女を俺は撮った。
そして見せた。
「メガネさんって、もしかして、写真、下手だったりしますか……?」
歯に衣着せぬ物言いに、思わず笑ってしまう。しかし我ながらひどい写真だった。ピントはズレているし、なんだかぼやけているし、肝心の彼女の表情も上手く撮れていない。
歯に衣着せぬ物言いで、彼女は俺に言い放った。
「素人だっていってるんだけど」
「わざとじゃ、ないんですよね?」
「人が写った写真は普段撮らないんだって」
「いや、でも、これはその……」
「依頼、取り消してくれても俺は問題ないけど」
「あっ、いや、そういうことじゃないんですよ。しませんて。取り消しません。あなたには、ちゃんと私のこと、撮ってもらうつもりですから」
慌てて取り繕う彼女。
しかし、我ながらどうしようもない。当然、わざわざ好き好んでへたくそな写真を撮っている、なんてことはない。純粋な技量として、俺には人を撮ることを向いていないのだ。
人が写った風景に魅力を感じない。食指が伸びない。シャッターを切る指は移植した別人のものみたいで、撮りたかったもののそうでない部分だけが継ぎはぎの出来の悪いコラージュのできあがり。
何度か写真を繰り返す。その度に見せて、自分の出来の悪さを被写体に晒す。相手を落胆させてしまう。
表示している画面から目を逸らす。壁にかけられた時計は、十七時を回っていた。
もう、頃合いだろう。彼女もきっと諦めてくれる。
そんなとき。
視界の端に、赤い糸が差し込まれた。
幻覚ではなかった。ベランダの向こう側から色づいた光が差し込んでいた。
目を向ける。向けている間にも色は移る。赤から橙に、紫に。部屋が色に飲まれていく。
当たり前であるかのように、俺は写真を撮っていた。
部屋が静かな薄暗闇になって、ようやく、隣の彼女を思い出した。
期待するように、彼女はこちらを見てくる。俺は彼女に見せるように、データを確認する。
写真の中の夕暮れに染まる風景は、俺が目にしたままに、世界の終わりのような静けさだった。からっぽの椅子が、ただ漠然とそこにいる。
「ああ……やっぱり」
彼女は俺の顔を見上げる。彼女は熱のこもった視線を向けてきていた。
「やっぱり、あなたは私の思った通りの方なんですね」
カメラを持つ俺の手、それを包み込むように彼女に握られる。手を振り払おうにも、うっかりカメラを落としてしまうかもしれない。そんな保身ばかり考えてしまうから、また一手遅れる。
「あなたの写真に、価値がないなんてありません。価値がないとしたら、それはきっと、私です。やっぱり……私のせいで、上手く撮れてなかったんです」
彼女は確定事項のように話し続ける。俺が口をはさむ暇もなく、彼女は続ける。
「どうして、依頼を受けて欲しいのか、聞いていただけませんか」
言われて、そういえば聞いてなかったな、なんて思い出す。彼女は未熟だが、俺だってたいしたことない若造だ。そもそも普段はろくに人と話をしていない。交渉事なんてろくにしたことはない。あったとしても真似事だ。今回のことも含めて。
じっと、ともすれば睨みつけるような目で俺を見る……違う、彼女は涙を堪えていた。堪えられなかった涙が溢れて、つう、と流れていた。
俺は無言で彼女の理由を待つ。
彼女は彼女の理由を口にした。
「私、自殺しようと思うんです」
5
自殺しようと思う。彼女はそう告げた。
だから死ぬ前に、一番の自分の写真を撮って欲しいと続けた。
「私は、自殺するんです。死にたいんです。でも、死体は醜悪です。私は、私の人生の果てが、あれで終わりなんて嫌なんです。せめて死んでしまう前に、死体となって、そして燃やされてしまう前に何かを残しておきたいんです。だから、写真だけでもいいから、一番よかった自分をこの世界に残してほしいんです」
彼女の澄んだ声で語られるそれは、まるで自分に言い聞かせるみたいだった。
いまこの場所に俺と彼女以外の他の誰かは一人もいない。助け船も野次馬もない。真っ暗になった光の差さない部屋で語られる言葉は俺だけに向けられている。
つまり、いま彼女に向き合えるのは自分だけ。
適切な対処ができる人がどこかにいたとしても、いま、この場では彼女にとっては俺だけなのだ。
死ぬのはよくない、と言い聞かせるのが正しい大人の対応なのだろう。そして俺は正しくないし、大人にだってなりきれていない。
彼女が本当に死にたいというのであれば、俺には聞くべきことがある。
「どうして死にたいか、聞いても……その、いいか?」
死にたいという気持ちに理由はあるのか、明確な動機があるのか。いじめか、家庭か、後悔か。
「理由なんて、ないです。ただ。生きるのが苦しいんです……それじゃ、いけないことですか?」
理由なんてないのだといった。
いけないことかと、彼女は聞いた。
いけないことなんてことはないと、俺は思った。
彼女の語る言葉は、俺にも覚えがある感情だった。
彼女の自殺願望に理由があるのなら、依頼を受けるのはやめようと思っていた。だって、そんなもの、引き受けるには荷が重く、関わるには気が重い。
だから、彼女がこうであるというのならば、俺の答えは一つだった。
「それなら、わかった。受けよう。力になれるかは、まだ分からないけど」
「……本当ですか?」
急に同意を示した俺に、彼女は目を白黒させている。
「受けるって。それとも、今度はそっちの気が変わった?」
「いえ、でも……どうして」
「なんとなく」
「なんとなく、ですか」
自分で打ち明けたくせに、彼女は信じられないみたいに驚いている。
この少女に、死にたい理由なんてないのに死にたい彼女に興味が湧いたのだ。それは極めて個人的なことだ。彼女に話す必要もない。
少なくとも、今はまだ。
見極める必要がある。彼女が本当に、そうであるか。だからこれから彼女と関わる理由は、単なる自己満足でしかない。
「依頼を受けると決めたけど、それにあたって、一つお願いがある」
「な、なんでしょうか」
「俺が写真を撮り終えるまで、勝手に死んだりしないように」
6
「死ぬ前に残したい写真、っていうけど、それって遺影に使う写真のこと?」
「いえ、そうではなく……なんでしょうね?」
「俺に聞かれても」
三日連続の彼女との対話。三度目の彼女との模索。
時間は十六時の夕暮れ時。透子さんのマンション、その四階廊下にて議論をしていた。議論とは名ばかりの俺たちなりの世間話だ。年の離れた俺と彼女に、共通項はほとんどない。俺は彼女のことを知らない。逆もまたしかりだ。俺は写真くらいしかSNSに載せていないから、知る筈もない。
面と向かって、互いに互いを気にして、しかし直接相手のことを尋ねるには、依頼人とそれを受ける関係としては踏み込みにくい。引きこもりのことだとか、年齢だとか、どこまで話していいのか境界線を知るには経験が足りない。
だからこうして話し合いに逃げ込む。
「私、自分が映ってる写真って、嫌いなんですよ。メガネさんは、好きですか?」
「俺も嫌いだ」
「やっぱり」
嬉しそうに彼女は声を弾ませる。
彼女は事あるごとに俺との同類項を探す。共通項を見つけるたびに、嬉しそうに笑う。世間話というには、後ろ暗すぎるけど、彼女がそうしたいのであればそれに付き合う。
「生きていてよかったと、思いたいんです」
「自分がここにいていいんだって、信じたい」
「……やっぱり、あなたに頼んで、正解でしたね」
「それは、どうも」
まだ何も成果を出せていないのに、他愛のない会話だけでそんな風に喜ばれても困る。
俺がやるべき役割は同調ではない。彼女の写真を撮ることだ。それができなければ、ここにいる自分に意味はない。
マンションの階段の手すりから身を乗り出して、俺はシャッターを切る。街の風景を収める。
自分で撮った写真を確認していると、横から彼女が覗いてきた。
「やっぱり、メガネさんですね」
彼女は秘密を共有するみたいに、囁いて話してくる。写真に癖なんてあるのだろうか。俺が気付いてないだけで、彼女はそれをわかっているのだろうか。もしかして、適当にいっているだけではないか。
撮影は難航していた。風景の写真だけならマシなのに、彼女が入るととたんに撮れなくなる。
リビングだけで写真を撮るには、いささか難易度が高い。彼女は近場までならどうにか外に出られるらしい引きこもりだ。場所を変えて外に出ることを提案した。日中の妥協点として透子さんは建物内を挙げ、こうしてマンションの敷地内で写真を撮る。扉の前、階段の踊り場、駐車場に駐輪場。
それも結局はうまくいかなかったけど。
彼女のことをちゃんと撮ることが出来ない原因は理解していた。単純に、人間を撮り慣れていないこともある。あるいは、彼女が撮られ慣れていないことも。
彼女自身の素材がいい。それは、間違いなかった。引きこもりの事象に違わない白い肌は、こうして外に連れ出すことが申し訳なくなるくらいに綺麗だ。
マンションという撮影場所が悪い、というわけでもない。経年劣化で所々がほころびくすんだこの場所は、味がある。むしろ本来ならもってこいのはずだ。
写真を撮る上で大切なことは感覚として掴んでいた。
これだという景色、彼女という被写体。
それ以上に必要で重要なのが、タイミングだ。
衝動や直感とってもいい。写真を撮るときには、ここだ、という瞬間がある。
シャッターを押すタイミングは、その一つだけ。俺が見ている景色と、カメラに映る景色。それらが重なって、偶然の産物としてそこそこマシな写真ができる。
元々、自分が出来のいい写真を撮っているとは思っていない。それでも自分なりには、満足している。一方で、撮ることを意識していると素人目にもぎこちない代物ができてしまう。
彼女という、写さなければいけない被写体がいる。しかし俺は風景を撮るのが趣味で、彼女は異物だ。撮ろうとする自分だって、極端にいえば必要ない。
夕焼けが終わろうとしている。冷たい空気が、冬の訪れを嫌でも感じさせる。
冷たいくらやみに飲まれていく。この瞬間に、彼女が風景になれば、きっと上手く撮れる気がした。現象に、あるいは死体に。
というのは単なる夢想で。
俺が写真を撮るのが下手である事実を示されて終わる。
屋上に続く扉は踊り場で締め切られている。だからその手前の段差で座って、日が沈むのを眺めていた。沈んだあとも、眺めていた。
隣には透子さんがいた。
7
「泊まっていったら、どうですか?」と透子さんから言われたのは、昨夜のことだった。
「透子さんって、けっこう積極的だよね」
「か、からかわないでください」
顔を赤くしながら、ムッとした顔で透子さんは反論する。
「メガネさんはそういう……変なことする人じゃないって、私は信じていますから」
こんなに軽い『信じている』は生まれて初めて聞いたかもしれないと感心してしまう。いや、もしかしたら『信じている』は彼女の世界の真理であるくらいの切実な言葉だったのかもしれない。仮にそうだとしても、俺の主観では彼女の熱量は分からない。
彼女は、きっと俺になにかを見出しているのだろう。この少女は一貫して、期待する偶像を前にしているような視線を向けてきている。自分を卑下して、大層な人間でもない俺を無理やりに上にしようとしている。
「メガネさんさんが上手く写真を撮れないのは、私が悪いんです。だから、その、しばらく一緒にいれば、自然体でいられるかな、と思いまして」
自暴自棄にも似た提案は、同類の俺には心地いい。心地よすぎて、だめになってしまいそうだ。
死ぬ前に何かを残したいと彼女はいった。
もしできないとしても、その切実さが、きっと俺と彼女には大事なものなのだ。
その日は一度家に帰った。翌日、着替えを一式もってきて、俺は彼女の家に泊まりこむことになった。
「家事、得意なんですね」
昼過ぎに二人して起きて、ずいぶんと遅い朝食を食べる。俺が用意したのはトーストとスクランブルエッグとベーコンを焼いただけのもので、そんな褒められ方をされても正直困った。
「慣れだよ。同居人に生活力がないんだ。まあ、住まわせてもらってるから、そのぐらいはしないと……」
透子さんから、じっと粘性のまなざしをむけられることに気づいて、言葉を止める。何かおかしなことでもいったかと思う俺に、彼女は一言。
「彼女さん、いたんですか?」
「彼女じゃないし、男だ……いや、俺のことなんてどうでもいいだろ」
「……そうですかね?」
「そうだ。俺は君のことをもっと知ることで、上手く撮れるかもしれない。でも、逆はない」
「私は、あなたのこと、もっと知りたいですよ。そしたら、緊張しなくなるかも」
ああいえばこういう。口が達者な少女だった。
「あなたの写真を見て、思ったんです。きっと、私を撮ってくれるって。だから私も、もっとあなたのことを知りたいんです。何を見ているのか、何を感じているのか、何を撮っているのか理解したいんです」
「……そうか」
彼女が語りかけているのは、自分の信じたい虚像だ。それに付き合うのもやぶさかでない。
「なら……その友人との話をしようか。そいつとは、ちょっとしたオフ会で知り合ったんだ」
「オフ会、ですか」
「そうそう。知らない人同士で会って、まあちょっとした縁ができて。で、最終的に金をちょっと……百万円くらい貸すことになった」
「ひゃくまんえん」
驚く彼女。でも、彼女だってよく知りもしない男に依頼の前金として札束を渡してくるような女だ。いくら持っているのかは知らないが、金銭への無頓着さとしては同等で同類だ。大差ない気がするのだが、それはそれ、これはこれ、なのだろうか。
「で、そいつはその金を元手にして見事に大もうけした。感謝したそいつは、俺の頼みごとをなんでも聞いてくれるし、部屋にだっていつでも泊めてくれる。なんなら合鍵だって渡されてるし、そいつのクレジットカードや通帳の番号も教えてもらってる」
「わー……」
いまいちぴんと来なかったのか、まあ嘘や夢みたいな話だし、そんなものだろう。
赤の他人との手探りの生活も、次第に慣れていく。
昼前に目覚める。遅い朝食を食べる。話す。写真を撮る。話す。写真を撮る。夕食をとる。話す。
俺はリビングの片隅で、家から持ってきた寝袋で眠ることになっている。もう深夜も午前三時に回っている。名残惜しそうにする彼女も、眠気には負けたのか手をゆらゆらと振って、彼女の部屋へ消えていく。
手を振ったとき彼女の袖の下が少し落ちて、彼女の傷だらけの手首が見えた。
8
同居人の花澤が、夜中に連絡を寄こしてきた。なので開口一番、俺は宣言した。
「俺、しばらく帰らないから」
まだ透子さんも起きていた。聞かれたくない話でもないけれど、透子さんがいる状況でわざわざ話すこともない。コート一枚羽織って、俺はベランダに出ていた。
『旅行か? 俺にも一声かけて誘ってくれよ。いまどこだ?』
「隣町」
『そんな近場に? なんで?』
言うか言わざるか悩んだが、特に誤魔化す必要もないかという。
「写真を撮るのを頼まれたんだ。隣町の……依頼人の家に泊まるだけだ」
『マジか!』
突然の騒音に耳が痛い。きーん、とこちらの耳が鳴る。
『俺以外に、ついにお前の写真を認めてくれるやつができたのか! いやー、よかった!』
電話ごしに、眉をひそめる俺には気付くこともなく、花澤は我がことのように喜んでくれていた。
『お前の写真を見ると、昔の死にたくて死ねなかったあの頃を思い出すんだ。あの時のみじめな自分になりたくないって。だから、俺はお前の写真が好きだよ』
「それ、褒めてるのか?」
『褒めてる褒めてる』
楽しそうに花澤は話す。不思議な感覚だった。 初めて会ったときの花澤は、もっとどうしようもない人間だった。友人に肩代わりさせられた借金に追い詰められ、森で彷徨いそうになるくらい。
そいつも今ではこうだ。いいこと、なのだ。きっと、かくあるべきなのだ。
『で、依頼人ってどんなやつ?』
「引きこもり」
『引きこもりかー……いや先入観は良くないよな。依頼受けたって、ネット越しにだよな? アカウント教えてくれないか? 俺がお前に相応しいやつか、この俺が見てやろう』
こいつは何目線なのだろう。まあ、別に問題ないかとSNSのアカウントを教える。素早いタイピング音のあと、うわ、と声を出す花澤。
『お前、ほんとにこいつの依頼受けるの? どう見ても単なるかまってちゃんじゃん。というかよく会おうと思ったなー。あ、女だからか?』
「アカウント見るだけでそんなことまで分かるのか?」
『いや、こいつの投稿見れば誰だってわかるだろ。見るからにメンヘラ女じゃん』
「見てないからわからない」
『おいおい、そんなんで大丈夫かよー』
「家に連れ込まれた」
『展開速いなー。そんで待っていた筋骨隆々の男に身ぐるみはがされた? それとも性病移された?』
「残念ながら五体満足だし、手も出してない」
『そりゃ残念」
本当に、心底残念であるようにこいつは言ってくれる。そのことに、俺は少しだけ嬉しくなる。
「そんで、いい写真を撮れるまでは泊まることになった」
『マジで? 監禁の間違いじゃないのか? 通報した方がいい?』
「過保護か。しなくて大丈夫だ」
『……まあ、俺の見立て通りなら、この子は十中八九死ぬ気はないし、死ぬこともないだろうけど、お前もあんまり無理するなよ』
「俺は別に、どうもしないよ」
彼女は死にたいといった。
結局のところ、俺は彼女の自殺を幇助したいわけでも、止めたいわけでもないのだ。俺には俺の思惑で、彼女と一緒にいた。
「ただ、まあ、やることは決まってるんだ。心配しないでくれ」
『……そうか、まあしたいようにしろよ』
花澤は何か思うところがあったのだろう。それでも一拍置いてから、なんでもないように話を続ける。その配慮が、ありがたい。
『じゃあさ、その依頼ってやつが終わったら、海外にでも一緒に行こうぜ。俺もそろそろ一仕事終えて暇になりそうなんだ。寒いし、南の島とかもいいよな』
「ああ、そうだな」
『そんときに聞かせてくれよ、お前の土産話』
9
透子さんの家に泊まり始めてから一週間が経つ。
目的の写真は未だ撮れていなかった。
写真そのものは、少しずつマシになっていった。というのも写真を始めて約一年、ようやく撮り方の勉強をし始めたのだ。当然、元より良くもなろう。
方法を調べないことがかっこいいから、みたいなふうにやっていたわけではなく、純粋に必要がなかった。
構図だとか、光の使い方だとか、あるいは画像の加工とか。もう大学を出てから三年も経つけれど、勉強することは思いのほか楽しい。
昔から勉強をしている間は楽だった。他のことを考える必要もないから、正当性を持って自分の中に篭っていられた。
写真自体が上達できるようになる一方で、透子さんを撮ることは、未だ難航してきた。むしろ悪化していた。
透子さんには問題はない。彼女は撮られることに慣れ始めていた。正確には、俺に慣れ始めた。カメラを向けられても硬くならずに、自然体での姿を見せる。カメラには、余裕の笑みだって向けてくる。
それは、俺が撮りたいものではない。俺が撮りたいものじゃないということは、彼女が撮られたい写真であるわけもない。
その取るべき写真、というのが俺自身に理解可能で、コントロールできるものであればよかった。けれども、俺はただ撮っているだけにすぎない。
透子さんが好きだという写真を。
花澤がいいといってくれる写真を。
俺だけがわからない。
わからなくても、機会が訪れることはあった。具体的には彼女がカメラを意識していないとき。それがシャッターチャンスだった。
けれども人間の感情はいつだって流動的で、撮ろうと思ったときには彼女はカメラを向ける俺に気づいてしまう。撮り損ねた瞬間は絶え間なく重ねられていく。
いつまでも撮れない自分を良しとしているわけではない。何か、新しいことをする必要があった。
「今夜は公園まで行こう」
「公園、ですか」
夕食を食べたあと、彼女に提案する。
きょとんとした顔で、彼女は俺の言葉を繰り返した。
「結構近いと思うけど……やっぱり無理?」
公園までは、コンビニを通り過ぎて徒歩二分程度。彼女の距離は、どれほどまで大丈夫なのか、俺は知らない。ただここに来るときに見かけて、よさそうだと思ったロケーションだったのが、そこであるだけ。
引きこもりの知識はない。でも、彼女のことは少しだけ知っている。だから、大丈夫なんじゃないかと推測して、こうして誘っていた。
「頑張れば、大丈夫です」
「無理しなくてもいいけど……」
「頑張ります」
「ごめんね」
「いえいえ」
とまあ、そんなやり取りをして、引きこもりの透子さんを連れ出すことになった。
季節はもう冬。外はずいぶんと寒くなってるし、いわんや夜は薄着でなんかいられない。家から持ってきたコートを着て、透子さんを待つ。透子さんはたっぷりと時間をかけて、茶色のダッフルコート姿で現れた。似合ってるね、と社交辞令でいえば、彼女は顏を赤くして「恐縮です」と喜ぶ。外に出て、ブーツを履いた彼女が引きこもりだなんて疑われることはないだろう。
こうしていれば、普通の女の子だった。
透子さんの家に来てからは、酒は飲んでいなかったな、と気づく。夜の街を歩く楽しさに、ふと、魔が差した。
「コンビニ、寄っていいかな?」
「いい、ですけど、その……」
言いにくそうに彼女はいう。人のいる場所は、やはり苦手なのだろうか。と思ったらそうではなく、彼女はひとつ、頼みごとをしてくる。
「手を繋いでもらっても、いいですか?」
彼女は上目遣いで言う。媚びるわけでもないのだろう。心底に、心細そうに彼女は懇願する。
「……別に、無理しなくていいんだけど。なんなら俺一人で行くし」
「そ、それは嫌です!」
透子さんは言ってから、目を見開く。自分で出した声に驚いてしまったのだろう。彼女にはこんな面もあるのだと、少し新鮮だった。
「ご、ごめんなさい。おっきな声だしちゃって」
「いや、俺の方こそ……じゃあ、一緒に行こうか」
「は、はい!」
彼女から手を繋いでくる。ぎこちなく重ね合わせる。繋いだ手は小さくて冷たい。死体の手を握っているといわれても信じただろう。しかし手を握る彼女は、まだ生きている。少し握る手を強めれば、彼女も力を入れて存在を主張してくれる。顔を向ければ、透子さんはどうしてか、嬉しそうだった。
「何か買いたいものはある?」
コンビニに入ってから、自分だけ買うのも何だと思い尋ねる。透子さんは困ったように笑う。
「こういうときって、何を買うものなんでしょう」
「肉まんとかかな。寒いし」
「なら、肉まんで」
「俺もあんまん買うから、半分こして食べる?」
「それは、素敵ですね」
レジに酒を持っていき、中華まんを注文する。ただでさえ目が死んでいるコンビニの店員は、透子さんと手を繋いでることに気づいたのか、すごい目で見られてしまった。
コンビニを出ても、手は握られたままだった。俺は右手で酒の入った袋をぶら下げて、彼女は中華まんの入った袋をぶら下げている。
冷たい風が吹きつけてきて隣の彼女は身体を縮こまらせる。握った手はそのままにしておいた。
10
夜の公園は好きだ。夜の町が好きだ。人がいないから好きだ。死んでいるみたいだから、好きだ。
公園には誰かしらいるかと思っていたが、いないようでなによりだ。透子さんは誰もいない公園を、きょろきょろと、まるで初めて来た場所のように顔を回している。
透子さんと接している中で、けっこう世間知らずっぽいと感じることがある。だから、もしやと思う。
「夜歩きとか、したことある?」
「はい。初めてです。門限は午後の七時までだったので」
「なら、悪いことを教えよう。夜の町は、けっこう楽しい」
「メガネさんは、悪い大人だったんですね」
「そうだよ、極悪人さ。知らなかった?」
「私にとって、メガネさんは悪い人じゃないですよ。安心してください。メガネさんは私の……私の、なんでしょう?」
「雇用主?」
「お泊りまでしているのに、冷たい関係ですね」
なんとなく、話題が尽きる。手持ち部沙汰になった俺は、ブランコ前のベンチに腰を下ろす。ビニール袋から、先程コンビニで買ったものを取り出した。
プルタブを開くと、プシュ、といい音がする。
「炭酸ですか?」
「お酒だよ」
一緒に買っていたのだから知っているだろうに……と思った、そういえば、彼女は俺のことを見ていた。
物色していた時も、酒を選んだ時も、レジで待っているときも。
チューハイを飲む俺を、透子さんは、興味深そうに見てきた。夜歩きもしたことがないのだ。だから、ほんの少し酔った拍子に、もっと悪いことを勧める。
「透子さんも飲む?」
「い、いえ、大丈夫です」
「外で飲む缶チューハイもそこそこいいものだよ」
自分がろくでなしだと改めて気付くことができる。自己否定はリストカットにも似て中毒になる。彼女もきっとわかるはずだ。
だから、彼女の否定には、思い至らなかった。
「私、まだ未成年だから……」
それは正しい理由の拒絶で。
「成人する気、ないのに?」
だからこそ、強く言ってしまった。
やっぱり、と心のどこかで思ってもいた。
透子さんは口を震わせて、しかし言葉は紡がれることはない。彼女が何事かを言うより先に、俺は衝動のままに続ける。
「死のうとする人間が、気にする必要、ある?」
それは、自分でも、ぞっとするくらいに冷たい声だった。あまりに冷たい声は、自分さえ正気に戻らせる。失言だ、と気づいたときには遅い。彼女は涙を堪えていた。
「わたし、は」
彼女は、俺の胸に頭を押しつける。涙声で言葉を続ける。
「私、ちゃんと死にますから。だから、見捨てないでください」
面倒だな、と思ってしまう。思ってしまった罪悪感を誤魔化すために、俺は、努めて柔らかく声を出した。
「別に、無理して死んだりしなくてもいいんだよ」
心にもない慰めを彼女に語る。我ながら、薄っぺらいなと呆れてしまう。
彼女の持つ、白い袋に目がいく。泣く子供には食べ物だ。
「ほら、冷めちゃうから食べよう」
ビニール袋から肉まんを取り出して、半分に割って渡す。暖かかったそれは、既に冷めていた。
透子さんに謝ろう。そう思って、彼女へと目を向ける。
彼女は俺の視線に気づくこともなく、目を俯かせて小さな口で食べていた。まるで捨てられた子供みたいに、心細いように、鬱憤を晴らすみたいに、食べていた。
俺はカメラを持っていた。
カシャ、とカメラはいつも通りに音を鳴らす。撮られたことに気づいた彼女は、こちらを向いた。構わず、俺は撮った写真を確認する。
彼女がくらやみの中でただ食べているだけの写真。それを見て思う。
これは、だめだ。
彼女に見られないように、俺はカメラの電源を落とす。
「急に撮ってごめんね。でも、暗いから、上手く撮れなかったよ」
透子さんは、疑問に思うこともなく……あるいは、疑問に思う気力さえないのか、再び食べる作業に戻る。
きっと初めから、彼女はそうだったのだ。
彼女の希死念慮はわからない。それでも、きっと本来俺なんかが関わることなんてなかった。
彼女に見せなかった写真は、俺の理想の通りの写真だった。
そこには、ただの少女が写っていた。
11
公園から帰って、風呂を上がった彼女から、来い、と言われた。
透子さんの部屋に入ることを許された。
これまでは、リビングとトイレとベランダくらいしか許されていなかった。彼女の部屋以外にだって、入っていない部屋はいくつもある。しかし人の家の箪笥を開けるみたいな勇者精神の持ち合わせはなかったので、何もせずにいた。
でも、不自然なのだ。一人暮らしで過ごすには部屋が多い。何のための部屋かもわからない。
俺は彼女のことを知らない。
今日は、彼女から歩み寄ってきた。だから、なにかを語られるのだろう。
たった扉一枚隔てているだけなのに、気が重い。
扉を開くと、白いパジャマ姿の透子さんが、布団で座って待っていた。
「いらっしゃい、メガネさん」
「ええ、お邪魔します」
何も置かれていない勉強机。埃をかぶった本棚。ただ、彼女のいる布団の上だけに生活感を感じる。勉強机の付属品であろう、固そうな木の椅子に座る。
「隣、座ってもいいんですよ」
「遠慮しておくよ」
「つれない人ですね。今日、私の部屋に招き入れたのは、私の話を、聞いてほしいんです」
「聞くよ、それが写真を撮るのに必要なことなら」
俺の答えは、透子さんは少しだけ、悲しそうな顔をさせてしまう。
透子さんにとって、望む言葉ではない。そうと分かってやった俺は、悪い大人になってしまったのだろう。大人になり切れていない、なんてとんだ誤魔化しだ。最初から、彼女の前では一貫して、ろくでなしの大人だった。
「私がどうして死にたいか、気になりませんか?」
「気になるよ、すごく気になる」
「そうだと思いました。だって私たち、同じ、ですもんね」
「そうかもね、それで?」
取り合わずに、続きを促す。彼女は口元を結んで、続ける。
「死にたいことに理由はありません。でも、死にたいと思ったきっかけはあるんです」
彼女は、語る。
「二年前の冬に、両親が事故で死にました」
12
親が子供を残して死んだだけの、どこにでもある不幸が、透子さんの切っ掛けだった。死因は交通事故だ。ありきたりの追突事故だ。透子さんは幸いにも意識を失っただけで、ほとんど無傷だった。しかし目が覚めたとき、一緒に乗っていた両親は帰らぬ人となっていた。
葬式で涙も流さない彼女に、周囲はショックで心を閉ざしたと思われた。
けれど彼女がショックだったのは、両親の死に、自分が何も思わなかったからだ。
家族仲は悪くなかった。だから、涙の一つ流すのが当然だ。なのに何とも思えない。
それを契機に、周りの友人に対しての感情に目を向けてしまう。死んでも、どうとも思わないのだろう、と。
しばらくして、学校を休むようになる。自分のどうしようもない心から目を背けたかったためだ。
気にかける友人はいた。無視した。
やがて春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。春が明けるころには、連絡なんて来ないようになる。
縁を切り捨てて、心は楽になっていった。けれども、友人の連絡一つさえなくなった時に、透子さんは向きあわなければならない相手がいた。
自分自身だ。
縁を失くした結果、誰に向ける顔も必要なくなって、からっぽの自分自身に向き合うことになる。
そして、ひとりきりの透子さんはそれに触れた。
それは冷たくておぞましい。そして人が生きている間は、必ず離れることはない。
「それが、死にたいって気持ちだって、私は気づいたんです」
「夜になると、その気持ちに向き合わなくちゃいけなくて、どうしようもなくなるんです。死にたい気持ちを紛らわせたくて、やってなかったSNSを始めて、目に入った人を全員フォローして、でも人とは言葉を交わしたくなくて」
「真夜中の本当に暗いときみんな、何も言わないんです。静かで、それが怖くて……でも、そんなときに、私は『メガネ』さんを知りました」
「真夜中の誰もいない時間に、『メガネ』さんの写真を見て、この人も死にたいんだ、って思ったんです」
「『メガネ』さんの写真には、見覚えのある景色もありました。見たことのある景色が、私の見たこともない風に映っていて、すごいって思うと同時に思ったんです。これは運命だって」
「実際に会って、死にたいっていっても受け入れてもらえて、だから」
「だから、初めて会ったあの日から、私はあなたが大好きなんです。あなたは……私の、救いなんです」
13
「ごめんなさい、一方的にお話しして、それでも私、どうしても言いたくて」
申し訳なさそうにする透子さん。それに、僕は微笑ましくなっていた。
「透子さんはきっと、いい両親に育てられたんだろうね」
「な、なんですか、そんな話、してなかったじゃないですか」
きっと愛には愛を返してくれる。そんな家族だったんだろう。
だからこそ、彼女の気持ちに応えられない自分が申し訳なくなる。
「それで、お願いがあるんですけど、よろしいですか?」
「内容にもよるかな」
「今日だけ、今日だけでいいので、私が寝るまで手を握っていほしいんです」
「それだけ?」
「はい」
薄暗いオレンジ色の明かりだけになった部屋で、俺は布団で寝ている透子さんの手を握る。彼女は満足そうに微笑んだ。
「夜は心細くて、明日のことを考えて憂鬱になっちゃって……」
でも、と彼女は手を握る。
「でも、今日は、ちゃんと、眠れそうです」
彼女はそういって、無言になる。数分で、彼女はすうすうと、寝息を立てはじめた。
彼女が眠った姿を見届けて、僕は手を離す。彼女の手は眠りと共に脱力していて、容易に抜け出すことができた。
彼女の寝顔を見る。
透子さんのことを初めて見たときも、彼女は眠っていた。そのときは撮ることはできなかった。
それがいまなら撮り放題だ。無防備な彼女の寝顔は、いまは俺が独り占めしていた。
なのに、不思議と撮る気はしなかった。憑き物が落ちたように、心が軽い。
その憑き物の名前は知らない。でも、構わない。
もう彼女と会うこともないのだから。
14
朝起きるときは、いつも億劫だった。
何者でもない自分が、どこにも行き場もなくて、起きている間にどうしていればいいかわからなかったのだ。
そんな日々と比べれば、ここ数日の間は雲泥の差だった。メガネさんの前では、私は『透子さん』でいることができた。
でも、私が目を覚ましたときに、メガネさんはいなかった。繋がれた手は嘘みたいに冷たくて、これまでの時間は夢だったんじゃないかと思ってしまう。
メガネさんは、あの公園の時から、どこかおかしかった。だから、いなくなってしまっても驚くことではない。
初めて会ったときから、どこかに消えてしまいそうな人で。
そんなところも、好きだったのだ。
彼はいつかいなくなるのだと分かっていた。それでもその日が来たのだと思うと、胸が苦しくなる。
あの人を、追うべきなのだろうか。
写真を依頼したことがきっかけだった。肝心のそれは、まだもらっていない。けれど、私はもう十分あの人から貰っていた。これ以上、何かを望むのはいけないことじゃないのかと、気後れしてしまう。
せめて、彼が何か写真を投稿していないか確認する。
目当てのものはなかった。けれど、見慣れないアカウントから、ダイレクトメールが来ていた。
そこには『『メガネ』の親友の、花澤だ』と書いてあった。
「『いままでありがとう』なんてアイツから連絡が来たんだよ。マジでろくでもないやつだと思わないか?」
メガネさんの親友を自称している花澤という男は、顔を会わせて開口一番愚痴であった。この人は、一体何をしているひとなのだろう。顔は整っているのに、黒いシャツにジャケットを着込んだ姿は、似合っているが軽薄さに拍車をかけている。茶色に染めた髪は、とてもじゃないけどロクな社会人とは思えない。
「それで、メガネさんはどこに行ったんですか? あなたのところに帰ったんじゃないんですか?」
静かな喫茶店で、机越しにいる男と向き合う。こっちの気持ちを知ってか知らずか余裕そうな態度に、つい、食って掛かってしまう。
「まあまあ、落ち着こうって。いまさらちょっと慌てたくらいじゃ、別にどうにもならないだろうし」
それより、と彼は目を私に向けてくる。真っ暗な瞳で、私の底まで見通すみたいに、不躾な視線を指すように向けてくる。
「君から見て、アイツはどんなやつだった?」
「あの人は……死にたがっているように見えました。初めからそうだったんです。でも、昨日の夜はいつもよりも、なんだか優しくて……起きたとき、もういなくなってて、やっぱり、って思ったんです」
私の言葉に、花澤さんは納得したように頷く。
「アイツがいなくなった理由、俺は分かるよ。君は健全すぎる」
「健全……?」
「ああ、別に悪いって言ってるわけじゃないよ。ううん……そうだな。俺とアイツが会ったのは、オフ会なんけど」
「それは、メガネさんにお聞きしましたけど……」
「まあ、オフ会って言っても自殺するやつらが集まった、自殺オフって名目だったけど。それも聞いた?」
「……いえ」
「やっぱり、聞いてなかったんだ」
「……そうですよ、私は知らないことばかりです」
私は、意を決して花澤さんと向き合う。
「だからメガネさんのこと、教えてください」
いいよ、と優しく微笑んで、花澤さんは話をはじめる。
15
その時の俺はまだ、ちゃんと死にたかった。きっと生涯で唯一、自分で死を選ぶことができる機会だったのかもしれない。それでも、アイツと出会ってしまったことで、俺の人生は続いてる。
オフ会の集合場所……駅のへんてこなモニュメント前に着いたのは、俺が二番目だった。一人目が眼鏡の陰気そうなやつで、まあ『メガネ』組んでわけだ。あんまりにも全身から『これから自殺します!』って宣言していたから、つい引いたね、俺。でもそんなの序の口で、後から来るわ来るわの、ガチ集団。爪を噛む女、聞き取れない甲高い声で喋る男、などなど選りすぐりの総勢六人。
俺が自殺しようって決意したのは、それまで親友だと思っていた奴に、借金を肩代わりさせられたからなんだけど……いや、別に借金くらいはいいんだよ。でもさ、裏切られた、っていうのがショックだったね。もう酒と薬なしじゃ眠れないくらい。ま、それはいまもなんだけど。
メガネのあいつは、冷めてたんだ。周りにではなく、自分に対して。それを見て、なんつーか……正気にもどされちまったんだよ。周りのやつらは、本当に死にたい人間に見えた。だから尚更、俺は自分の死にたい気持ちに、本物だと思えなかったんだ。
乗り気じゃなかった俺は、アイツを連れ出したんだ。一人で抜け出したんじゃ、何をされるかわからなかったからな。
やっとのことで抜け出した国道沿いの、コンビニの駐車場で腰を下ろして俺は言ったんだよ一言一句覚えてる。
「金さえ、金さえあればなぁ」って俺は情けなく言って、「金があれば、どうするんだ」なんてアイツが聞いてくるもんだから、「そりゃあもう一発当ててみせるさ。そんときは少しくらい、いや少しと言わず三割くらいは分けてやるよ」って返して。
アイツは、何でもないみたいにぽんと百万を出してきたんだ。
16
「で、その金を元手にして、俺はまあ何とかやってるってわけだ。元々、自殺した死体を見つけてくれた人のために用意したモンなんだってさ。後ろ向きすぎて、笑えてくるよな」
花澤さんの話には、笑える要素なんてひとつもなかった。それでも花澤さんは笑う。その笑い方は、自分についた傷を自慢しているようにも見えた。
「アイツ……『メガネ』と俺のなれそめは、そんな感じだ。信用してもらえたか?」
私は、頷いてしまう。目の前の男は、満足そうに笑う。まるで自分の方がメガネさんを知っているぞと自慢されたみたいで悔しい。
「透子さんは、アイツをどう思う?」
「好きです」
反射的に、返した。
結局、私はあの人が、好きなんだと思う。
切っ掛けは彼の写真で、彼と話してその好意は増していって。交流で絆されて。
その言葉が、心から言えたのならよっぽどよかった。
「好きだったはずなんです。でも、今はわからないんです。私はあの人のことを分かっているって、同類だって、思っていたはずなんです。でも……」
「知りたいのなら、会って確かめればいいんじゃないかな」
「……どこにいるのか、知っているんですか?」
私の質問に、花澤さんはニコニコと作ったような笑顔を張り付けている。その微笑みは、どこか『メガネ』さんと似ている気がした。
「あらかじめ言っておくと、俺は、別にアイツが死んだっていいと思ってる。生きるの死ぬのだなんて、個人の勝手だからな。でも、俺はあいつが死ぬのを一度引き留めちまった。だから二度目はなしだ。君にいま話しているのは、個人的に反則スレスレだな」
「あなたは……どうして、そうするんですか」
「俺がアイツのことが好きで、そんでもって親友だからだよ、他に理由なんているか?」
彼はそう言い切ってから……少しばつが悪そうに、目を背けた。
「あいつが行く場所に、一つだけ心当たりがある」
引きこもりの君はどうするか、と尋ねられる。
私の答えは、決まっていた。
17
透子さんの家を出て直ぐに、勢いだけで目的地に向かったところまではよかった。しかし電車賃だけで手持ちが尽きたので、バスには乗らずに徒歩で歩く羽目になっている。坂道は存外に疲労する。引きこもりに付き合っていて、こっちまで体力がなくなったのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
懐かしくも愚かしい記憶を脳裏に陰らせながら、俺は道を歩く。持ち物は水とカメラ。
向かっている場所は、物語のない俺の人生の中で数少ない思い出の場所といえるものだ。
この場所で、俺は死ぬはずだったのだ。ここに来るのは、これで三度目だ。もしもの死に思いを馳せてしまう。
結局、あのオフ会で死んだ人間はいなかったらしい。それでも、俺と花澤が抜けることがなければ、もしかしたら全員死ぬことができたかもしれない。
死体だから、きれいな、なんて言えないけど。
それでも、いまみたいな死にぞこないにはならずに済んだ。
だから、今からしようとしている行為は、ツケを払うようなものだ。
山道を通っていると、開けた場所に出る。撮りつけられた木の柵、その下は絶壁となっていて、見下ろせば川になっている。
長い道のりだったが、これで終わりだ。俺はやるべきことをやろうとして。
「メガネさん、待ってください」
聞こえるはずのない声を聞いた。
背後から聞こえた声に目を向ける。そこには、透子さんがいた。
白い顔をより白くして、息も絶え絶えで。
それでも、ちゃんと二本の足で立っている。
その姿に、当たり前のことだけれども、同じ人間だっていうのに、こんなにも違う人間なのだと打ちのめされる。
「透子さん、引きこもりは休業したの?」
動揺が悟られないように、世間話のように俺は話しかける。俺の腕を、透子さんは白くて細い指で掴む。
少しでも腕を振り払えば、こんな拘束、直ぐ解ける。でも、これも最後だと思って、彼女のしたいようにさせておく。
「ネットに載せてる写真は、全部……死に場所探しのためのものだったんですね」
「まあ、そうだね」
「でも、あなたはここに来た。最初に自殺しようと思って、でもできなかったこの場所に」
そんなことを知っているのは、そして彼女を連れてくることができる人物は一人しかいない。
「花澤に、教えてもらったんだな」
「はい」
花澤のお節介焼きにも困りものだ。
透子さんに手を貸したってことは、花澤にもわかったのだろう。彼女が、俺たちが欲しがって止まないものを持っていることを。
つまりは、どうしようもなく普通であることを。
「色々聞かせていただきましたよ、自殺オフ会のこととか、ほかにも色々なことを」
「幻滅した?」
「してませんよ。あなたがそういう人だって、知ってましたから」
なんでもないことのように、彼女は当然だと返す。
「私は、あなたのことを、死にたくてでも死ねない人だと思ってました。でも、逆だった。あなたはずっと死ねなくて、でも、死にたい人だったんですね」
「……もしかして、俺が死ぬかと思った? それなら大丈夫だよ。俺は死なない」
疑うような視線を向ける透子さん。俺は彼女に、カメラを見せる。
「これを捨てるために来たんだ」
彼女が、静かに息を飲む音がした。透子さんにだって、思い入れはあるだろうものだ。ここ数週間は、俺と彼女とこいつで過ごしたようなものだ。
「それ、花澤さんのものなんですよね」
そんなことまでアイツは話したのかと感心してしまう。花澤は、よほどこの子を気に入ったらしい。
「百万円のカタに貰って、渡されたままなんですよね」
「そうだよ、だからこそ、捨てるんだ。まあ……禊みたいなものだよ」
「捨てて、どうにかなると思うんですか?」
どうにかなるか、なんて言い草に笑ってしまう。
当然、思っているわけがない。
人生が劇的に変わることなんて期待していない。
世界がひっくり返るような出来事なんて、結局はないのだ。
正直なところ、彼女の依頼を受けたことは、そういう打算もあってのことだった。彼女のおかげで踏ん切りがついたのだから、
「俺もね、君と一緒なんだよ。両親が死んだ。縁が切れた。希死念慮万歳! ってな感じで、まあ今に至るわけで。で、透子さんは、縁を全部切って、まあ色々ありながらも、そういう風に立てるようになったんだよね。だから俺も真似しようと思って」
中身のない言葉を紡ぐ。心の底から思っているわけでもない、ただ口からついて出るに任せて放った言葉だ。
彼女が口を閉ざしていることをいいことに、俺は捲し立てる。
「まあ、俺だって色々試したことがあるんだよ。でもさ、やっぱ思うんだよ。心底死にたかったときに、ちゃんと死んでおけばよかったって。もし俺が死ぬことができたとするなら、ここに来たオフ会の時で……でも俺は結局死にぞこなって生きてるんだ。だからさ、そんな死にぞこないの俺が、ちょっと夢見るくらい、いいだろ?」
彼女は。
彼女は飽きれたように、ため息をついた。
「もしかして、私が、あなたが死ぬのを止めるために、ここに来たと思ったんですか?」
「……違うの?」
「違います。私は、あなたが死ぬなんて思ってません。まだあなたに写真をちゃんと貰ってません。だから、その催促です」
透子さんの話す意図が分からない。彼女は普通の子で、俺なんかとは違うから、俺にはわからない。
わからなくて、白状してしまう。
「撮れたよ、たぶん、透子さんが欲しいような写真が」
「……そうなんですか」
「ああ、そうだ。撮れたんだ。でも、見せない。仮に君が死なないとしても、俺は見せることはない」
「どうしてですか?」
「それは……」
「私には、わかりますよ」
言い淀んでいれば、透子さんははっきりと、わかる、と断言した。
「終わってしまうのが怖いんです。死にたいくせに、縁を切ろうとしてるに。ですよね?」
何を決めつけを、と反発する心がある。同時に、そうかもしれないと納得する心もある。いつだって心は複雑怪奇で、自分でさえ理解できない。理解できないから、いまさら彼女の言葉に揺さぶられてしまう。
「私が貴方の写真を見て満足したんじゃありません、貴方が私の写真を撮って、満足したんです」
彼女は言い切ってみせる。そして、続ける。
「最初に私、言いましたよね。メガネさんが私の写真を撮ってくれたら、私は死ぬんだって」
「ああ……」
「せっかくだから、一緒に死んでくれませんか?」
彼女の言葉に、俺の中で湧き上がるのは激しい後悔だ。
透子さんはもう、死ぬことに縋らなくてもこうして生きていられる。それなのに、彼女にそんなことを言わせてしまったのは、俺なのだ。
罪悪感で吐きそうになるのを堪える。
「……そんなこと、できるわけないだろ」
一緒に死にたい相手が欲しいわけじゃないのだ。そんなこと、彼女が分からないわけでもあるまい。
俺の拒絶に、透子さんは動じた素振りをしていない。
むしろ、俺の返事がわかっていたみたいに、彼女はいった。
「そうですか。じゃあ、一緒に生きてください」
何を言われたのか、わからなかった。
戸惑う俺に、続けざまに彼女は続ける。
「たかが死ぬまで、一緒に生きてくださいよ。それとも、私と一緒は嫌、ですか?」
そんなふうに彼女に言われて。
まだ死にたいと思うけれど。
こんなことに意味はないと思っているけど。
「仕方ないな」
そう答えるのは、思ったより簡単で。
不格好でも、きっといまの自分は笑えているはずだった。
18
「メガネさん、どうですか?」
「うん、今日もかわいいよ」
「恐縮です……って、そうじゃなくって……!」
「わかってるわかってる。ちゃんと制服、似合ってるよ」
今日は透子さんの、休学明けの登校日一日目だ。引きこもりで希死念慮に苛まれていたのが嘘みたいで、なによりだ。
普通の女の子の彼女は、乗り越えて、勝手に強くなっていく。それが相変わらず眩しかった。
結局、俺は彼女の家に戻ってきた。戻った、というのも語弊がある。俺は花澤との部屋に戻り、たまに透子さんと写真を撮りに出かける。そのぐらいだ。
季節は春になって、四月もなる前の時期、彼女は休学していた高校に行くといった。
彼女に手を差し伸べられたときには、もう透子さんは立ち直っていたと思う。だから、春を待っていたのはタイミングを伺っていただけだ。
それでも、久しぶりの登校というものはやはり緊張するようで、見送りを頼まれた。加えて家での出迎えも。そういうわけで、俺は彼女の家に来ていたのだ。
透子さんが家を出る間際、ふと思い至って、制服姿の彼女の写真を撮る。元気で明るい女の子が、そこには写っていた。
「子供の成長は早いなあ」
「もう、子供扱いしないでください。私も今年で二十なんですよ」
「一緒にお酒飲むの、楽しみだね」
「私がちゃんと卒業してからですからね! それまでちゃんと、待っていてくださいよ!」
透子さんは、呆れて、笑って。
そうして何でもない一日が始まる。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
彼女を見送る。
緑の季節、陽光と共に彼女は走り抜けていった。
扉を閉める。
一人きりの部屋になる。
一人になった家で、思う。
こんなにも恵まれているのに、こんなにも彼女に救われているのに、俺はまだ、どうしようもなく死にたがっている。
この先も、彼女と一緒にいる時も、こんな気持ちを抱えて生きていかなければならない。
それでも、いいと思えた。
苦しいと思えるのが自分であるのなら、そう生きていくしかない。
死にたいと思う俺は、死ぬまで生きることに決めたのだ。
最期の写真 大宮コウ @hane007
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