月夜、彼は告白する
夏山茂樹
本人に知られないように
初夏の訪れを告げるそよ風が男のマンションの部屋に入ってくる。小さなヒュウという音に目を覚ました少年は、その身を起こして自身の長い髪を結えた。月光がさして、彼の黒髪は紫や紺色に光りながらも風に一本一本がなびいている。
重たい髪だ。そう何気なく口にしながらも、少年は意中には決して髪を切ろうという気などさらさらなかった。
自分の隣で眠る男が髪を手すきしてきた日。天井のある通路の横には大きな桜が桃色の絨毯を作っていた。その絨毯を見ながら男の言った「綺麗な髪だな」という言葉が忘れられず、数ヶ月経った今も少年は髪を結い上げるたびに、思い出すのだった。
その日からだろうか。自分の教師である男を、まるで恋人であるかのように錯覚し始めたのは。十歳という自我の芽生えてきた年頃だからか、それとも男が優しいからだろうか。少年にはその心が何を意味しているのか分からないのだ。
彼はそんな心持ちで隣の男を愛おしそうな瞳で見つめる。大人のくせに、よだれを僅かに垂らして自分の名前を呼んだその男を見ると、少年の胸はキュンと締め付けられた。
「りんねぇ……」
レム睡眠中の男は、知らず知らずのうちに隣で目を覚ました教え子の名前を呼んだことを知らない。浅い眠りなのに自分の名前を呼んで、変なの。
そんなことを思いながら穏やかに眠る彼を見て、琳音はふとあることを思いついた。
隣で眠る教師の耳元に口を近づけて、小さく教師の名を呼んでみる。
「柚木先生……」
だが名前を呼ばれた柚木は変わらず気持ちよさそうに眠り続けている。柚木は昨夜、朝の七時に目覚ましをかけた。琳音は音を立てまいと自身のスマホの電源を入れる。時刻は深夜の一時ちょうどだ。
こんな中途半端な時間に目を覚ました自分が情けなく思いながらも、琳音は柚木の顔をもう一度見やる。月明かりしか光のない、郊外のマンションの一室。その中で人工的に作られたスマホの明かりは目立つと考えたのだ。
だから少し冷や汗をかいて、琳音は眉を潜めて息を殺し、自身の教師に近づいた。だが柚木は相も変わらず眠り続けている。
「りんごあめ……」
なにがりんごあめだ。琳音は再び耳元に口を近づけると、浅い眠りを続ける教師に自身の分からなかった思いを静かに打ち明けた。
「にいちゃん、あいしてる」
すると途端、強い風が吹いて彼の結えた黒髪をなびかせる。一本一本風に揺れるそれは、やがて教師の顔に落ちてその意識を浮上させた。
「……りんね? どうしてお前、起きてるんだ……?」
どう答えればいいか一瞬悩む琳音。だが答えは案外すぐ浮かんでしまった。
「眠れなかったんだ」
「また夢でも見たか?」
「……うん。むかしのことなのに……」
琳音はかつて傷つけられた自身の首元をさすりながらごまかす。すると柚木が琳音の手を握って微笑む。その微笑みは教師とはまた違う、優しいものだった。
「明日もまた祭りに行こうか。りんご飴を買ってやるよ」
遠回しに「忘れろ」と言われても、琳音は健気にその言葉を受け取って微笑みを返す。柚木の手が温かく感じられるのは、きっと彼が優しいからだろう。
初夏の夜は少し肌寒さも感じるのに、心が温かくなったような気がして琳音の体が火照った。
月夜、彼は告白する 夏山茂樹 @minakolan
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