淀んだ夏
otoka
淀んだ夏
授業中、去年よりもアブラゼミの声が近く感じる。教室の窓から見える空はどこまでも青色が広がっていて心地よいが、8月になっても終わらぬ授業と義務付けられたマスクが、例年の活気を殺している。
2020年に大流行した新型ウイルスが高校生活に与えた影響は大きかった。僕の最も身近な出来事は夏の全国高等学校総合体育大会、通称インターハイが中止になったことだ。全国の高校三年生は高校最後の大会を失ってしまい、三年間の練習の成果を発揮できずに部活を引退しなければならなかった。
僕は男子バレーボール部に所属していた高校三年生だ。この男子バレーボール部は今年の夏の全国大会出場を期待されるほどの強豪だったため、インターハイ中止による衝撃は他の運動部よりも大きかった。
終業のチャイムが鳴り響く校舎の階段を降り下駄箱に向かうと、座って靴紐を結ぶ、同じ学年で同じバレー部の杉谷の背中があった。僕は杉谷に気づかれないように早歩きで彼の後ろを通過しようとしたが、タイミング悪く振り返った彼と目があってしまった。
「おう、けいちゃん。久しぶり。」
一ヶ月ぶりに聞いた杉谷の声に、僕は右手を挙げて応えた。
杉谷と僕は小学校からの幼なじみである。家も近所で、親同士も仲が良い。僕らは中学で杉谷と同じバレーボール部に入り、切磋琢磨して辛い練習に耐えてきた。杉谷も僕も少しばかりバレーボールの才能があったようで、二年生になると二人とも上級生を押し除けレギュラーメンバーに抜擢された。常にお互いをライバル視し、負けないように練習を重ねた結果、僕らはいつしかチームを引っ張る存在になっていた。中学最後の大会では学校史上初の関東大会出場を果たした。
中学での活躍が買われ、県内屈指の強豪高校に推薦入学した僕らは全国大会出場を目指して日々厳しい練習に励んだ。練習後の帰り道に駅前のコンビニでチキンを買い、それを一緒に食べ終わるまで公園のベンチでお互いを鼓舞しあうのが日課だった。
一年の後期から杉谷と僕の差は開いていった。杉谷はバレーボールの才能を開花させていった。技術は同期の中で圧倒的に上手く、監督に才能を見込まれて公式戦に出場する一軍の練習に参加するようになった。ほどなくして杉谷はレギュラーメンバーの一員となった。チームの得点源として活躍し、上級生が引退した後、部員と監督全員一致で部長に抜擢された。チームを支える部長兼エースになった彼の実力は校外にも広まり、高校生の日本代表の練習会に呼ばれたことをきっかけに、全国的に名の知られる選手になった。
一方、僕は高校から全く才能が伸びなかった。杉谷が試合で活躍する姿を見ていると、ただ応援することしかできない自分のことが惨めになった。また、日々の練習でも杉谷との差を感じることが増えていった。後輩の尊敬の的である杉谷と、後輩に実力を抜かされた僕との間にある圧倒的な差を感じて、毎日苦しかった。いつしか僕は試合でも練習でも杉谷のミスを願う最低な人間になっていた。
一番辛かったのは、杉谷と部活後に毎日一緒に帰らなければならなかったことだった。どんなに有名な選手になっても僕への態度を全く変えない杉谷の純粋さが、自分の醜さをより鮮明にした。僕は醜い自分を必死に隠し、毎日自然に振る舞った。自分を無理やり「いいやつ」にして杉谷と関わることに疲れた僕は、部活を引退してから彼を避けて生活していた。
下駄箱で杉谷と遭遇した僕は一か月ぶりに帰り道を共にすることになった。部活終わりと同じようにコンビニでチキンを買い、公園のベンチに座ると杉谷は口を開いた。
「部活引退してからけいちゃんは何してるん?」
一ヶ月ぶりの公園のベンチ、一ヶ月ぶりの杉谷との会話。一ヶ月ぶりに口にしたコンビニのチキンは美味かった。僕は自然を装うのに必死だ。
「大学受験のための勉強かな。杉谷は?」
「俺は・・・。インターハイのことが頭から離れなくて、何のやる気も起きないんだよね。授業中もボーッとしちゃうし、将来のことを考えなきゃいけないことも頭ではわかってるんだけどさ。けいちゃんは切り替えられててすごいね。」
「全然切り替えられてないよ。悔しくてたまらないよ。」
この言葉は嘘だ。インターハイ中止のニュースを見たとき、驚きはしたが、悔しさや悲しみは微塵も感じなかった。それどころか、悔しさややり場のない怒りに涙を流す高校生のインタビュー映像を見たとき、僕は彼らを惨めに思い、その醜さに親近感を覚えた。
「それでも将来のこと考えられているんだから立派だよ。俺は最近学校に行くことすら辛くなってきちゃった。登校再開した当初はみんなと久しぶりに会えて楽しかったけど、部活できない学校に通うたびに本当にインターハイなくなったんだなって実感が湧いてきちゃってさ。」
僕は真逆だ。最近学校に行くことが苦じゃない。教室の空気は高校最後の大会が無くなったことによる喪失感や虚無感で淀んでいて、僕はこの空気の方が楽だった。
自分の限界を知ってから何に対しても無気力になってしまった僕は、大きな目標を失って堕落するクラスメイトが自分に近づいた気がして心地よかった。
僕の気持ちを知る由もなく、杉谷はインターハイへの熱い思いを語り、悔しさを語った後、
「みんなで全国大会いきたかった。」
震えた声でそう言い、涙を流し始めた。自信にあふれ本気で全国大会に出ることを信じていた男が、部活の後輩からの憧れの的であった男が、全国のバレーボール関係者から注目されている男が、目の前で自分より小さくなって泣きだした。
僕はこの姿に高揚してしまった。生まれて初めて自分よりも杉谷が惨めだと感じた瞬間だったからだ。この部活のキャプテンでなければ、バレーボールがもっと上手くなければ、そんなに悔しい思いをすることはなかったのに。心の底から杉谷に対して同情し、可哀想だとおm
「なんで、笑ってるの?」
その言葉に心臓が止まった。
自分の口元に手を持っていくと広角が上がっていた。ゆっくりと杉谷の顔を見てみると困惑と怒りが混ざった表情をしていた。その表情がまた酷くて、さらに笑いがこみ上げてきた。杉谷はその表情のまま続けた。
「何がそんなに面白いんだよ。けいちゃんは悔しくないの?」
悔しいわけないだろ。試合に出られなかったことない癖に偉そうなこと言うなよ。試合に出られないとチームの勝利に貢献することも負けの要因になることもできないんだよ。悔しいと思うわけないだろ。
「黙ってないでなにか言えよ!今までも俺が悔しがる姿見て陰で笑ってたのかよ!なぁ!」
あぁそうだよ。心の中で大爆笑だよ。お前がミスするたび腹抱えて笑ってたよ。
「この公園でいつも試合でミスして悩んでた俺のこと励ましてくれたのは、全部嘘だったの?」
嘘つかないとやっていけなかったんだよ。お前といると惨めな自分を思い知らされるんだよ。僕が本心さらけ出したら、バレーボール下手になってくれたのか?もっと情けない人間になってくれたのか?中学の時みたいに僕と切磋琢磨してくれたのか?
「お前のせいで、バレーボール嫌いになったわ。」
我慢の限界だった。今までの思いを伝えるには十分な一言だった。杉谷の顔から涙も困惑も怒りも消えていた。
二分沈黙が続いた後、
「ごめんな、俺がチームメイトで。」
そう言って杉谷は帰って行った。公園を出るまで後ろ姿を見ていたが、一度もこちらを振り返ることはなかった。口に入れたチキンは味がしなかった。
この出来事以降、一度も杉谷と喋ることはなかった。お互い喋ることなく高校を卒業し、僕と杉谷は違う大学に進学した。
杉谷と再会したのはそれから二年後の成人式、高校の同窓会の時だった。杉谷が大学もバレーボールの推薦で行って、一部リーグで活躍するトップ選手になったという噂を耳にしていたので本当に会いたくなかった。会わないように会場の端で酒を飲みながらチキンを食べようと手を伸ばすと、杉谷が声をかけてきた。
「久しぶり。」
どんな気持ちでお前は話しかけてくれたんだろう。どれだけ大人なんだよ。
「おう、久しぶり。」
手元の酒を飲み干してチキンをかじり、杉谷の方に体を向けた。久しぶりのチキンは美味かった。
淀んだ夏 otoka @kaooru
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