落雷のポストアポカリプス
小早敷 彰良
1
信じられないことに、2020年夏、現代社会は滅びかけていた。
初まりは、全世界のインターネットを繋ぐ13台のサーバが、壊れたことからだった。
政府が、ある種の電気に触れた人間が亡くなる、というルールを見出したのは、まだ、街路樹の緑色が薄い時期だった。
ある種の電気というのは、一切が不明である。
そもそも、電気に交流と直流以外の種類があるというのは、初めて発見した事実だ。
対処する時間は、なかった。
その現象は「感電症候群」とだけ名付けられて、その名の通り、シンプルかつ絶対的に、世界中で起こっていた。
連絡は取れない。移動手段もない。そもそも、気をつけようにも詳細がわからない。
ただ、出社しようと自動ドアをくぐって発症した者もいた。
ただ、ようやく鳴った電話を取ろうとして、発症した者もいた。鳴らした方はなんともなかったのにも関わらず。
感電症候群は、全世界を痺れさせた。
それは、電撃的で、身構えていない人類全員には、致命的なものだった。
そんな、孤立した都市の中、ある部屋で、男と女の声が響いていた。
「皿とって。」
「はい。ケチャップもいる?」
「ケチャップ使うのお前だけだよ。醤油がいい。」
「オムライスに醤油?あり得ないね。」
「うるせ。」
茶髪と黒髪が混じった頭を振りながら、男は手早くオムライスを皿に盛った。
とれかけたネイルをした指が、皿を受け取って、机の上に並べた。
「じゃあ、いただきます。」女は言った。
「どうぞ。いただきます。」男は返した。
二人は手を合わせて、食事を始める。
何十回目かの朝のことだった。
それにしても、と、男成田は、何度目かの話題を持ち出した。
「なんとか合流できたのは、お前一人かよ。」
それに女越後は、面倒くさそうに答える。
「こっちのセリフだよ。こんな、遊び人で、女の敵のような男と二人とか。」
「悪かったな。でも今は心入れ替えてるから。」
「嘘ばっかり。」
醤油が手渡され、お礼の声が返される。
「なんで、こうなったんだろうな。」
成田の声に、越後はため息を返す。
二人は、初夏のあの日を思い返していた。
あの日も、こんな暑い日だった。
感電症候群が発表されたばかりの頃の話だ。
まだ、社会生活を、みんなが諦めていなかった頃だった。
あの日越後は、会社からオートバイで、急いで帰宅していた。
彼女の勤務先は、公共機関に近く、社会崩壊前夜である、その日も、仕事が山積みだった。
そんななか、コピー機に触れた同僚が卒倒したのは、雨が降り始めた頃だった。
それは、彼女が目の前で、感電症候群の症状を見た、初めての光景だった。
オフィスの中に悲鳴が満ちる。
それを、どこか他人事のように見ていた彼女が、気を取り直すのは、オフィスから全員が蹴り出されてからだった。
そうして、一人暮らしの家へと帰る彼女の頭上では、積乱雲が急速に発達し、東京全体に雷雨を降らせていた。
電気が悪いらしい、という眉唾な話を、朝のニュースでやっていたな、と越後は思い返す。
「そんな馬鹿な。」
強がりながら、彼女は歩道にオートバイで乗り入れて、なるべく雨に打たれない、軒下を進んでいた。
雷が、電気の切れた街灯の下を照らしている。
どれくらいで家に着くのか、心臓がひどく速く脈打っている。
緊張で視界が狭まっていく感覚に、越後は、身を震わせた。
落雷がビルに落ちるたび、悲鳴が聞こえるようだった。
そして、その感覚は、あながち間違いではなかった。
スマートフォンで聞いていたラジオから、悲鳴が漏れていた。
「落雷を避けてください。避雷針があるビルも避けてください。感電症候群を引き起こす雷が落ちてきます。」
怯えたアナウンサーが、ニュースというには悲惨な光景を伝えていた。
彼女は、泣きたくなるのを堪えて、バイクを走らせていた。
「でも、どうやって避けろと?」
大きな、大きな声を、彼女は上げた。
もはや限界だった。バイクを握る手には、力が入らない。視界は涙で滲んでしまっている。そもそも、彼女の家にも、職場にも、遠すぎた。
落雷を避ける間だけでも、どうか。
「誰か助けて。」
ついに、彼女自身が一番やってはいけないと心に決めていたことを、やってしまった。
すなわち、その場でバイクを止めて、うずくまって泣いたのだ。
状況は悪化していた。
ラジオはニュースを知らせることをやめて、無秩序な悲鳴だけを流していた。
誰かが家族と連絡を取ろうと、スマートフォンを触ったことで、感電症候群を起こしたらしい。
落雷の激しさは、どこまでも増していた。
彼女はもはや、号泣といった様子だった。
非日常の空気での苦しみ、目の前で同僚が倒れたときの恐怖、その他押さえつけていた全ての感情が、最悪のタイミングで発露していた。
大雨の中、歩道でバイクを横倒しにして泣く女。
面倒くささの極みといった光景に、彼、成田が声をかけたのは、その光景があまりに哀れだったからだ。
「何もしない。いまさら恋愛は勘弁してくれ。それで良ければ、うちに来るか?」
それが成田の、最初の言葉だった。
「貴方、そんな、かっこいいからって、自惚れすぎだ。でも、ありがとうございます。助けてください。」
これが越後の、最初の返答だった。
その次の朝から、感電症候群を引き起こさないために、家から一歩も出てはならないと定められたのは、お互いにとっての誤算だった。
この奇妙な共同生活の始まりだった。
1日目はこうだった。
「あの、帰れず申し訳ありません。出来るだけ家事もしますし、食料配給はこの住所に登録しましたので、何とかしばらく置かせてください。」
「こんな時ですからね。お気になさらず。」
2日目はこうだった。
「電気がなくとも立地が悪すぎて、星が見えないな。」
「成田さんは星が好きなのですか?」
「ああ。そもそも俺、天文学者だから。」
「チャラいのに?」
「学者はいいぜ、見た目の関係ない職業だ。ま、この状況じゃ、天文学者なんてただの失業者だがな。」
「笑いながら泣かないでくださいよ。」
数日後にはこうだった。
「職場の様子わっかんね。困ったな。お前も同じか?」
「そう。電化製品に触ることすらリスクだって町内放送でやってたから、連絡も取れない。」
「菓子食うか。」
「やった。ありがとう。」
しばらくして、様子はこうだった。
「ねぇ、なんで女物の服がこんなに大量にあるの。」
「さぁ。なぜか置いてくんだよ皆。」
「皆って彼女?」
「さあ?」
越後は嫌な顔をしながらも、残された女物の服に袖を通す。
成田は面白かった光景を、懐かしく思い返す。
偶然にも、今目の前でチキンライスを食べる彼女は、初めの晩、嫌そうに着た女物の私服を着ていたからだ。
「あれだけ嫌がっていたのに、今は嫌がらないよな。」
「選択肢がなければ、誰だって妥協する。」
第一、と彼女は言う。
「居候の身で文句言うのは、ちょっと気がひける。」
むっとした顔で成田は言う。
「気にすんなよ。」
「そうはいかないの。」
良くない関係だ、と成田は思う。
マンション内の破裂した水道管に水を汲みにいくのも、配給を受け取るのも、彼女の仕事にいつの間にかなってしまっている。
元は他人だというのに。
「豆苗に水やってくれる?」
「もうやった。」
配給が途絶えてから1週間。野菜を栽培していたが、それも限界に近かった。
成田は、さりげなく言う。
「なあ、一緒に、死んでみようか?」
おぞましいものを見るように、越後は成田を見た。
そろそろと逃げ始める彼女に、慌てて成田は声をかける。
「言い方が悪かった。悪い。ごめん。聞いて。」
「死にたくはないのだけれど。」
「聞いて。」
窓を開ける越後を、成田は止める。
そもそも3階なのに窓を開けてどうするんだ、と成田は苦笑する。
「実は昨日の夜、PCで情勢を調べてみたんだ。」
越後は青ざめる。
「大丈夫? 痛みは、意識は?」
「大丈夫だよ。今誰と話してると思ってんだ。」
ぺたぺたと触る越後を押し除けて、成田は続けて言った。
「でさ、死ぬほどリスクあるけど、希望を見つけてさ。」
彼は、昨晩印刷したであろう紙を差し出した。そこには、県を何個も跨いだ先を示していた。
「ここで感電症候群は、完全に撲滅されているんだとさ。」
「そんな魔法みたいな。」
越後は、反論を考える。
「そもそも、外出禁止令出ているじゃない。」
「もう外出禁止令は解除されてる。そもそも配給もない時点で、どうにもならないだろ。」
言葉に詰まる彼女に、彼は言い放った。
「道は二つだ。野菜でも育てて一人で暮らすか。万が一の可能性にかけて、俺と一緒に行くか。」
「一人で?」
成田は宣言した。
「俺は、絶対に行く。物流もない、連絡手段もない。どれかがあれば持ち堪えられたが、この世界は無理だ。」
うぅーん、と越後は唸り、頭を抱えた。
5分後、ぽつりと彼女は言った。
「わかった。」
「なにが?」
「どうせなら、一か八か、調べに行こうか。」
前を向いた目には、冷静な炎が点っていた。
「私のバイクならバッテリーレスだから、気をつければ大丈夫。何もなかったら、帰ってこよう。」
越後の声が大きくなるのは、不安を感じている証拠だと、成田は知っていた。
それでも、越後は言った。
「成田くんが言うなら、私は頑張るよ。乗り掛かった船だ。」
成田は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。」
越後がバイクのメンテナンスをしに、部屋を出ていった後、成田は一人呟いた。
「外出禁止令解除されていたの、随分前から知ってたんだよ。俺。」
成田には、目標があった。
毎朝、自分の家の前をオートバイで走っていく彼女と話してみたかった。世界が終わる直前に、ようやくそれは達成された。
ならば、次の目標は決まっていた。
「平和な場所で、彼女と結婚したい。」
いまさら恋愛関係なんて面倒なことを経ずに、彼女と共に生きたい、と彼は考えていた。
そしてそれは、非常な世界で、着実に成し遂げられつつあった。
「成田くん。」
「ああ、じゃあ行こう。」
彼らは、鍵をしっかりとかけて、終わりかけの世界に出ていった。
落雷のポストアポカリプス 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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