転で終わった2020年陸上部三年生の夏の一幕

秋のニ三

転で終わった物語

 鍵を回して教室に足を踏み入れたら、充満していた真夏の熱気がむわっと押し寄せて顔を顰める。

 日差しで熱くなっていた窓を開ければ、風が吹き込み涼を感じたがそれも一瞬、涼は蒸した熱気に変わり体に纏わり付く。遮断されて尚届いていた蝉の鳴き声は騒々しくなり、澄み切った空にはぎらつく太陽が浮かんでいる。

 陽炎が発生してそうなグラウンドには、トラックを走る部員もハードル走の部員も棒高跳びの部員もいない。

 野球部もサッカー部もいない。サッカーゴールは取り残され、奧にあるテニスコートやプールも寂しそうに見えた。体育館も武道館も静まり返り、校舎から吹奏楽部の楽器の音も聞こえない。

 溜息が零れたが胸につかえているもやもやは晴れない。

 窓から離れて、壁に張り出された委員会や部活の紹介に懐かしいな、こんな奴いたな、この名前読めねーとか思いながら自分のロッカーへ。補助バッグから鍵を取り出し、廊下に事務員や教師がいないのを確認してから錠を開け、空のロッカーへ資料集を突っ込み、これで言い訳はOK。

 自分の席に向かう最中、黒板の上の掛け時計が十一時五十四分のまま止まっているのが目に付いた。

 中央左側、後ろから三番目にある自分の席へ座ろうとして、指で机をなぞれば埃が付着。机と椅子を手で払い、補助鞄を机に置いて着席。背凭れの存在に気付きまた払う。

 背凭れに凭れて、誰もいない教室の、何も書いていない黒板をぼんやりと見つめる。

 そうしていたら、補助バッグに入れていたスマホが振動した。二回、三回、珍しい、電話だ。警戒しながら取り出せば、春に卒業したゆみから。

 吐きかけた息を止めて、教室から窓の先にある青空とグラウンドへ視線を投げかけ、マスクをずらして電話に出る。穏やかな声が耳へすっと入り込んできた。

『もしもし』

「……もしもし」

『やっと出た。今って忙しかったりする?』

「そうだな……」

 廊下側の窓に人影はなく足音も聞こえてこない。

「大丈夫」

『ならいいや。っていうか今外にいる?蝉凄い鳴いてるじゃん』

「いるはずないだろ」

『じゃあどこいるの?』

「……」

『不要不急だけど?』

「何で嬉しそうに言うんだよ……」

 どうして寄りにも寄って今電話を掛けてくる。

「教室だよ」

『……教室?』

 意味を把握しかねて一トーン高い声にしてやったりって少し気が晴れる。

「はい。今三年四組にいます」

 数秒の後、

『どうして?』

 この声だ。この優しい声に、何もかもを見透かされている気がしてしまう。

「忘れ物を取りに来ただけでーす」

『本当に?』

「いえ嘘です」

 くすくす笑いが耳に届く。

『だと思った。君は、道具の管理とか時間には厳しかったしね』

「それは先輩達がだらしなかっただけで、実際、坂山さかやまが主将になってからは余裕を持って行動してたし」

『それって皮肉?』

「はい」

 またくすくす声。

 声が止まって、何かを考え込むみたいな間が出来る。

「弓?」

『ああ、ごめん』

「いや。ただ思った事は素直に言ってくれ」

『それ君が言う?』

「もう言った。で、何?」

『うーん……教壇の目の前の、黒板から見て左側の席があるだろ。そこ俺が最後に座ってた席だったんだ』

「へえ」

 新学期に席替えも無かったし、あの席、というか教室中の席が弓の頃から変わってないのか。

『三学期は自由登校で席替えが無かったし、偶に来ても寝れなかったなあって』

「そう」心を少し締め付ける。

『それと、俺達が引退してから陸上部が余裕を持って行動出来る様になったのは、坂山というより君が理由でしょ。坂山結構言ってたよ。いつもつるぎに助けられてたって』

 誰よりも陸上が大好きで実力もあり、反面場を纏めるのはお人好しで苦手だった坂山。

「そう」

 再び心を締め付ければ、浮かびかけた陸上部の記憶が霧散する。

『そうだね。思えば俺達の代は結構迷惑掛けたね』

「今更過ぎる」

 ふふって先輩の笑い声がして、

『そういう、俺にとっての懐かしいを口にしたら、泣いちゃうかなって』

 ……。

「はあ」

 態と聞こえるよう溜息を吐いた。

「泣くわけねー」

『坂山は泣いたよ』

「は……? 今みたいな話を坂山にしたのか!?」

『いやそうじゃなくて……引退が決まった日、電話してきた坂山は凄い泣いてたよって』

「ああ、なんだそれか……」

『聞き飽きたって声じゃん』

「先月も先々月もその話しただろ。呆けたなら俺以外に相手を頼んで下さい」

『だって君が泣かないから』

「……はあ?」

 溜息が、深い深い溜息が零れた。

 こういう所が面倒だ。急に会話が飛躍する点も、俺が泣く様な人に見えるか? って他の人なら引き下がる言葉もこの幼馴染の先輩にだけは通じない点も、本当に厄介。

「何でお前に泣きつかないといけない?」

『じゃあ誰かに泣きついたの?』

「そもそも泣かない」

『へえ?』

「何だよ」

『別に』

「っ、そもそも俺には泣く理由がない」



『じゃあ質問。君はどうして学校にいるの?』



「そんなの……」

 頭には適当な言葉が幾つも浮かんだ。だが弓にそれらを言う気にはなれず、結局言い淀んでしまう。

「……別に」

『うん』

「別に理由なんてない」

 何となく思い立っただけだ。

 目が覚めて、カーテンを開けたら夜の色が残った空ではなく青空があった。蝉が鳴いていて、時刻が六時じゃなくて八時過ぎだった。山積みの課題があり、三段ボックスの上に磨いたシューズがあり、ボックス内の体育着やユニフォームの段にはめっきり触れていなくて、そういう一日の始まりが、もうすぐ三ヶ月だとぼんやり思って。

 それだけだ。特別な何かなんかない。

「ただ何となく来たくなっただけ」

 補助バッグに突っ伏す。肘を乗せた机の固さに、この目線からの教室に懐かしさを抱き、もう二度とクラスメイトが集うことはないかもと漠然と思う。

「まあ、来たからって特に良かったことはなかったが」

 立ち上がったら椅子の引く音が響いた。

『でも、一つくらいあったでしょ?』

 歩きながら耳にする声はすっと入り込んでくる。

「そうだな」

 開いた窓の縁に肘を乗せる。

 誰もいないグラウンド。

 ぎらついた夏の日差し。蝉の鳴き声。

「来なければ良かったって思えた事かな」

『……それ良い事?』

「多分」

 ここはずっと止まったままだ。時計は止まり席も変わらず掲示板には四月の学校便り等

が貼られたままで、エアコンも動かず多分空気も停滞していた。グラウンドだって人が消えて以降変化はないはずで。

 引退の日から囚われたままの自分みたいだ。

 でも、季節はどんどん変わっている。

 部活をしていた日常は戻ってこないという当たり前のことを、胸に強く深く突き刺された。

「坂山は大学で陸上を続けるって知ってる?」

『うん』

「坂山は一番才能があったから当然といえば当然だが、他にも続けるって言ってる奴もいる。こんなんじゃ納得出来ないって」

『……君は?』

「続けない。俺は何となくで陸上部に入ったから。大学で続けるつもりなんてさらさらない」

『そっか』

「だから余計に中止を受け入れられなかった」

 絶対インターハイに出場したかった。文句も多いが素直だった二年生と、馬鹿やったり衝突もあったが二年間共に頑張ってきた同級生と、人生で最後になる陸上の大会を完全燃焼したかった。

 それが全部無に帰した。

「本音はさ、凄いムカついた。勝敗とかベストを尽くすとか皆の為に頑張るとか、そういう大事なものが、全部ぽっきり折られて、自分は今まで何をしてたんだろうって思った」

『うん』

 眠い中早起きして朝練して、放課後も土日も殆ど練習で、外を走りトラックを走り正しいフォームを身に着ける為に馬鹿みたいに時間を掛けて、インターハイに出る為に、自己ベストを更新する為に、二年間の集大成で全力を尽くす為に頑張って来て“コロナだから“で大会に挑む権利を剥奪された。

 苦しくて悔しくて、でも受け入れる以外の選択肢は無かった。

「……以上」

『え?』

「これ以上はないから」

『えーっ!?』

「うるさい」

 これ以上お前に喋るか。

 息を吐き出せば、胸のもやもやは大分軽かった。

「用がなないならもう切るぞ」

『勝手だなあ……でも、んー、分かった。次からは普通にメッセにするよ』

「は?何で?」

『これ以上は心配いらないから』

 ……文章だと嘘を吐くからってことか。

「……なあ」

『何?』

「ありがとう」

 電源を切る。蝉の鳴き声と熱気が戻ってくる。振動するスマホを裏返して電源を落としながら、夏だなと思う。部活終わりに坂山達と出向いた夏祭りもそこで食べたかき氷も花火もないが、別のかき氷やラムネは通販で頼める、そんな夏。

 それが良い事か悪い事かで言えば、絶対に悪い方だ。

 


 玄関を出て真っ先に目に入ったのはトラックだった。

 陽炎漂い誰も走っていない、三年になり走る機会を奪われたトラック。

 校門を見て、トラックを見て、校門へ駆け出す。走る。走る。ひたすら走る。ストライドとフォームを意識し、ただただ足を動かす。マスクが鬱陶しくて補助鞄は右手に抱えて、靴はスニーカーで格好もユニフォームじゃないが、それでも100メートルもない砂利道を突っ走って、校門にゴールした。

 なだらかな傾斜を下りながら、ゆっくりと息と整える。頬は吊り上がり呼吸は清々しかった。

 トラックへ振り返る。

 結局、トラックにもグラウンドにも踏み入らなかった。

 端っこをただ走っただけ。

 それでも割と充実している。

 自分は、大会中止を一生引きずるだろう。そんなこともあったなと思い出話に花を咲かせることはない。今の充実感も次第に薄れていくだろう。何度も何度も溜息を吐いて、俺達に来なかった最後の大会や来ないかもしれない三年生の二・三学期を過ごせた弓達をずっと羨ましがって、どうして自分達はって嘆き続けるだろう。

 だが、時間は否応なしに進んでいくから走り続けるしかない。

 全く、本当に最悪だ。

 トラックに一礼して家路に着く。

 取り敢えず山積みになった課題に着手しよう。滅茶苦茶な受験日程にも恨みつらみはあるが、他に出来ることもないし、気が変わらない内にやってしまおう。

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