第3話 3
━━私は会社の中で、みんなから笑われていた。何で笑われていたのかは分からない。
それから場面は打って変わって、この桃源郷である。
私は草原の奥にあるという、岸壁に向かって歩いていた。
昼間、岸壁の上空で鳥が旋回していたから、その下に何かがあるような気が私はしていた。
私は下に海が見えるとばかり思っていた。ところが、海ではなく、家があった。それも途方もなくでかい家で、二階のベランダがすぐ下にあった。
驚いたことに、そこに私がいた。冗談ではない。もっとも、夢の中だから冗談もくそもないのだが。
もう一人の私は、私に向かって手を振っていた。ここにおいでよ、と誘っているみたいだった。
こんなけったいな夢を、私は生まれて初めて見た。
もう一人の私は、豪壮な家に住んで、服装もいつもの私の恰好ではない。
どんな暮らしをしているのだろう。と私はふと気になった。しかし、夢の中で自分がどのような暮らしをしようが、所詮夢でしかないのだ。
ところが、次の日も同じ夢を見た。
二日続けて同じ夢を見るというのは、よっぽどあの崖が気になっていたのだろう。
が、不思議なことは、それだけではなかった。
一日中、他人の笑い声が聞こえて来るのだ。
誰もいない草原で、私はそれが幻聴なのか、実際に耳を通して聞こえて来るのか、判断がつきかねた。それほどリアリティがあった。くすくす笑いだけではなく、馬鹿笑いさえ聞こえて来るのだ。もっとも、これはテントの中だけのことなので、どこかそのような仕掛けでもあるのかと、私はこのテントを調べてみたのだ。
テントの屋根には、太陽光パネルが貼ってある。これで夜の灯りを賄っているのだが、ひょっとするとこれが影響しているのかもしれないと私は思ったりした。しかし、素人の私に、はっきりしたことが分かるわけがない。ただ何となく、誰かに見られているような気がしていた。二十四時間、私の行動を監視して楽しんでいる人間が、どこかにいるようで、すこぶる気味が悪かった。
同じ夢を二日続けて見た私は、いくらその上空に鴉やトビがいて、気味が悪いと言っても、あの岸壁を確かめないわけにはいかなくなった。
で、私は岸壁に向かったのだ。
崖に近づくと、上空のトビが優雅に旋回しながら、私の動向に注目しているように見えた。
猛禽類は肉食で、死肉を貪る。
崖に到着すると、私は恐る恐る下をうかがった。するとどうだろう。夢で見た家が、そこにあった。
やはり二階のベランダに私がいて、手を振っている。
心なしか家は夢の中よりも崖の方に近くなっているような気がした。飛び降りることは無理だとしても、長いハシゴがあればベランダに降りられそうな感じだったが、面白いことに、ちゃんと長いハシゴが傍らに掛かっていた。
もう一人の私は笑顔で私を見ている。
それはまるで、私がハシゴを使ってベランダに降りることを期待しているかのようであった。
実際、私はベランダに降りてみたい衝動にかられた。第一に、この家の中がどうなっているのか興味があったし、もう一人の私は、すでに結婚をして子供がいるような気がしたからだ。
しがないサラリーマンの私とは、正反対の生き方をしているに違いない。でなければ、こんな立派な家に住めるわけがない。
正直言って、私は、もう一人の私に嫉妬をしていた。
もう一人の私に、妻や子供がいれば、その顔を見てみたい。あの笑顔は、自分でさえめったに見ることができない幸せな笑顔であった。
躊躇うことなく、私はハシゴに手を掛けたのだが、もしもこの時、上空を飛んでいたトビがいなければ、私は真っ逆さまに海に落ちていたことだろう。
というのは、私がハシゴに手を掛けた瞬間、トビが急降下して、もう一人の私の体を貫いたからだ。それによって私は、もう一人の私もその豪邸も幻影であることが分かった。
にも拘わらず、もう一人の私は、なおも笑顔で手を振っている。が、私はもう騙されることはなかった。
私は踵を返して、テントに戻ったのである。
そうして、テントの中で胡坐をかき、これはいったいどういうことなのだろう、と考えた。
私はまず、心のオアシスで聞いた話を思い出した
白衣の男性は、こう言ったのだ。━━草原の奥に岸壁があって、多くの方がここから飛び降りると。
ということは、あの岸壁で飛び降りた人は、私と同じような夢を見たのだろうか。
話をしてくれた男性は白衣を着ていた。まるで研究者のようであった。ならば幻影を見させる研究でもしていたのだろうか。
となれば私は実験動物ということになる。テントの中で、絶えず笑い声が聞こえて来たというのも、実験動物だからみんなが観察していたのだろう。私の一挙手一投足を見て笑っていたのだ。
三日目の朝、テントの前にダンボール箱が二つ置いてあった。
開けて見ると、食料と飲料水がぎっしり詰まっていた。
運転手は約束通り、持って来たわけだが、なぜ私に会おうとしなかったのか。話ぐらいしていってもいいだろう。と、私は訝しく思った。ひょっとするとあの運転手は、私が生きていたことに不満だったのかもしれない。
変な夢は最終日まで続いたが、私はあの岸壁に足を向けることはなかった。いや、一度だけ、どこかに投影機があるのではないかと、それを確かめに行ったことはある。
崖の下をのぞくと、やはり依然としてもう一人の私とその豪邸が、そこに掛かっていた。掛かっていたと虹のように言ったのは、それが幻影だと分かっているからだ。
しかし、周りを見ても、投影機らしきものはどこにもなかった。ただ、上空の鳥だと思っていた中に、どうも人工の浮遊物があるようで、それがあのような像を作り出していたのではないかと私は思う。
となると、この草原自体が大きな実験施設で、いたるところに仕掛けがあるのだろう。その実験とは、つまりこの私を夢によって殺害することだ。これほど合法的な殺人はない。しかし、その理由が、私には分からなかった。
一週間が経ち、私は再び白いワゴン車に乗って帰路についたのだが、迎えに来た時の運転手のしょげた顔を生涯忘れることなないだろう。
私は自宅に戻る前に、心のオアシスに立ち寄った。
白衣を着た男性も、浮かぬ顔をして、私を迎えた。
私は黄色い手帳を手渡し、反対にいくばくかの謝礼が入った封筒を貰った。
男性は話をするのも大儀そうだったので、私は何も聞かなかったが、私にとって今回の体験は、心身ともにリフレッシュできて文句はなかった。
ただ、疑問点はあるので、それを私は自分の部屋に戻って、あれこれ考えた。
まず、あの変な夢だ。あの夢を見させたのは、明らかに私をあの岸壁から落とすためだったのだ。おそらく、テントのどこかにそういう夢を見させる装置があったのだろう。
そして、笑い声だ。あの笑い声は、陽気なものではなく嘲笑であった。
そのことから、私は彼らのゲーム、おそらく賭博の対象になっていたのではないかと考えた。そう考えると、すべての辻褄が合うのだ。
その賭博とは、あの夢の内容からいって、私が一週間以内に死ぬかどうかという賭けだったのだろう。
あの運転手も私が死ぬ方に賭けていた。だから私が生きていたことで、しょげていたのだ。
もしもそれが真実であれば、これだけ大掛かりな賭けであるから、かなり大勢の人が関わっていた可能性がある。
心のオアシスは、その元締めで、きっと大金を集めていたに違いない。てら銭をとって損はしていないのだろう。でなければ、私に謝礼をするはずがない。
ライブというのが今流行りだが、笑い声が聞こえて来たというのも、ゲーム『賭け』をしている人の声で、リアルタイムで私の行動を観察していたのだろう。
今の時代、インターネットが発達しているから、それを悪用して金儲けを企む輩が多いのだ。
と、私は結論をつけたが、もちろん本当かどうか分からない。
いずれにしても、私は今も会社に行っている。みんなから疎まれつつも、もうしばらくはいるつもりだ。
私は会社の誰かが、私を嫌ってこのような計画を立てたのではないかと考えているが、しかし、断言できるものではない。
一つ断言できるのは、私の影で私の悪口を言って笑っている者がいる、ということだ。この笑いだけは、事実である
(了)
桃源郷の夢 有笛亭 @yuutekitei
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