君に会いたい

小早敷 彰良

君に会いたい

 風が強い日だった。

 手に持っている花束が、ざらざらと音を立てている。

 前髪の分け目さえなくなるほど、髪型は崩れきっている。

 2020年夏、その日は人気が少なく、暑い日だった。

 見る人がいないというのは、良いことだ。

 特に、私のような後ろ暗い人間には、こんなときでもなければ、ここには来れないだろうから。


 私は、人気のない石段を、ゆっくりと登っていた。


 花束は人目を避けて購入した、黄色い菊と青い小さな花が大量にまとめられている。

 それらは一般的な花束とも、これから行く場所のマナーとも、少し外れている。

 見咎める他人がいないのは、こんなときでもなければあり得なかったはずだ。


 外出自粛が行われた街の、とある郊外を、私は歩いていた。


 ここに来ることは、誰にも言ってはいない。

 外出すら憚られる世の中だというだけでない。この場所に来るということは、自らの矜持にかけて、誰にも悟られたくはないのだ。

 知られたとしても、私の友人たちは途方もない善人ばかりだ。ただ、困ったように話題を変えてくれるはずだ。

 考えてみれば、矜持というほどのことでもない。虎になれるほど、自分を苛める感情では、もう、ない。


 晴天が続いた草地は、気持ちの良さそうな猫のたまり場となっている。


 長いこと手入れされていない墓地は、草原と言っていいほど豊かな緑を湛えていた。

 風は青い夏の匂いがする。

 私はしばらくその石の前で立ち尽くして、夏の匂いを嗅いでいた。

 匂いを嗅いでいるだけで、胸の中に湧き立つものはもう、ない。

 ない、はずだ。

 その証拠に、私の目には涙の一つも溢れない。

 それどころか、予想していた感情の一つも浮かばず、気持ちが変わることはない。

 私は、墓地に記された彼の名字を見る。

 そういえばこんな漢字だったな、と私は思う。文章の予測変換に、彼の漢字が出てこなくなってから、長い時間が経っていた。

 少しは、美しい、もしくは醜い、何かしらの感情が込み上げてくると思っていた。でも、その兆しすら、なかった。


 墓参りに行く、この瞬間だけ切り取ったとして、君と私との関係を、誰かが当てることができるだろうか。


 いや、人間の機微に聡い人ならば、即座にわかる関係ではあるか。

 残念ながら私は疎いので、謎として成立すると信じている。

 私は用意しておいたコーラの空き瓶に、持ってきておいていたペットボトルの水を注いで、最後に花束の根っこを浸した。

 墓への花の供え方はこれで良いのか、てんで検討もつかない。コーラの空き瓶は、花を生けるには、小さすぎる気もする。ずいぶんと不格好なお供物になってしまった。

 それでもこれを用意したのは、コーラが彼の好物だった気がするからだ。

 そういえば、好物も、声も顔も、よく覚えていない。


 さく、と鳴った足音に、私は後ろを振り返る。


 心臓は痛いほど脈打っている。

 私の動揺をよそに、足音の主である若い男性は、ひかえめに会釈をした。

 そして、より上の段にある、彼の目的地へと去っていった。

 そっと私は息を吐いたあと、さっさと帰ろう、と私は立ち上がった。

 こんな場所に一人で来ていることを知られたら、恥ずかしくて仕方がない。

 墓の主と私は、あくまで、ただの友達だった。

 先の問いの答えはこうだ。

「君と私は友達であり、君が死んで以来、数年ぶりにお墓参りにきた。」

 単純な関係性だ。今日は命日でもなんでもなく、外出することはなるべく避けるよう言われている、という状況下だけが、ややこしいだけで。


 最後に、手を合わせて祈ってから帰ろう。


 私は、両手を合わせて、目を瞑った。

 思い浮かぶことは皆無だ。

 彼の冥福を一通り祈ってみるも、しっくり来ない。

 君と私は家族でも恋人でもなくて、死後の世界があるとしても、会えるような関係性ではなかった。

 きっともう会えないのだから、何を祈ろうと虚しい。

 ぽこん、と胸の中に感情が一つだけ湧いた。


 君に会いたい。


 ぽこり、と胸に穴が空くようだった。それでいて、お腹の中にすっぽりと収まるようだった。

 そうか、私は君に会いたかった。

 わざわざこの時期に、人目を忍んで墓参りに来たのは、会いたい一心だった。

 他の人と会うことでごまかせていた気持ちが、他人と会えなくなったことで、ようやく顔を出したのだ。

 人目を忍んだのは、数年前の恋心を未だに引きずっていると、友人たちに知られたくなかったからだ。


 私は苦笑して、ただ、彼の冥福を祈った。


 それは、終わったはずの出来事で、明日は容赦なくやってくる。

 だとしても、生きる限り、今日をやっていかなければならない。

 死後の世界でくらい、ゆっくり休めると、信じたいがために、祈った。

 そうして、好きだった人の墓を、私は後にした。

 何も変えられないまま、明日はやってくる。

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君に会いたい 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa

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