ヘルニートの奇妙な事件簿

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ヘルニートの奇妙な事件簿

地獄にいたって、働かなければ食っちゃいけない。

でも、働けるのに働かないやつもいる。

彼らは、ただぶらぶらしているだけ。

彼らは、ニートだ。


 ***


「ちょっとヘル夫、いつまで寝てんのよ!」

朝から何度目になるかわからない、かあちゃんの怒鳴り声でヘル夫は目覚めた。

しかたなく、頭をかきかき上体を起こす。カーテンがかかっているから部屋のなかは真っ暗だったが、時計を見るともう午後の3時だった。

でかいあくびをひとつしてのっそりと立ちあがり、部屋の窓を開けた。

赤褐色をした巨大な太陽がビル街の上の煙ったような灰青色の空に浮いている。昨日の予報だと今日は酸性雨だっていってたのに、なんだか晴れちゃったなあ、へんな気持ちだなあとヘル夫は思った。


お気に入りの穴だらけぼろくそのジーンズをつっかけて、そこいらの店で千円で買ったへろへろのチェックシャツを着たヘル夫が階下に降りてくると、さっそく店のほうからまたかあちゃんの怒鳴り声が飛んでくる。

「あんたねえ、もうほんとに、いつまで寝てんのよっ! 今日は仕事を探しに行くっていってたじゃないの。それを昼過ぎまでだらだらだらだら。なんなのよもう! そんなことしてたらね、いつか天国にのぼっちまうわよ! 天上の七色の奇跡の光とやらに身を焼かれるわよ! ちょっと聞いてるのヘル夫!」

ヘル夫のかあちゃんはひとりで喫茶店を切り盛りしている。この家の一階は店になっていて、二階はかあちゃんとヘル夫の住居だ。

だからこそ、かあちゃんが仕事に出てしまうとヘル夫は好きなだけ寝ていられるのである。


ヘル夫が玄関でくたびれたブーツのひもを結んでいると、エプロンをつけたかあちゃんがしゅんしゅんと湯の沸くやかんを片手にぶらさげてやってきた。

「ちゃんと行きなさいよ。ヘルワーク」(「ヘルワーク」とは、地獄でいう「ハローワーク」、つまり公共職業安定所のことだ)

しかしヘル夫は返事をしない。ひもを結び終わって立ち上がり、つま先をとんとんとして足がちゃんと靴のなかに突っ込まれているか確認している。

「聞いてるの、ヘル夫」

「かあちゃん」いきなりヘル夫は返事をした。

「なによ」

「昼飯代、くれ」

この日ヘル夫が床を出てから、ふたりが交わすはじめてのコミュニケーション。しかし、ヘル夫が要求したのはメシ代だった。かあちゃんは錯乱する。

「ばかやろう! そもそもあんたは何にもしないで、誰が飯を食わせてくれてると思ってんだい! とうちゃんがいないからって、甘ったれるんじゃないよ! バカ! お湯ぶっかけてやろうか! 墓場のお供え物でも食べればいいんだあんたなんか!」

ぷんすかして店の方に戻っていってしまった。

なのでヘル夫は、玄関横の靴箱を開けると、かあちゃんが一番気に入っている外出用のおしゃれ靴を引っ張り出し、そのなかに手を突っ込んで、その中に貯めこんであるのを知っているへそくりのうち千円を引っ張り出すと、それをジーンズのポケットにねじ込んで、玄関を出たのである。


 ***


なぜ、自分の家とヘルワークを結ぶ道はでかい公園の中を通っていて、さらにそのなかの自分の通り道には、いつもたい焼き屋さんが露店を出しているのかとヘル夫は不思議に思う。

でも不思議に思うからといって、たい焼きを買わないということはなく、かあちゃんのへそくり千円でたい焼きを三つ買い、ときおり中央の噴射口から血を噴き出す仕掛けのある、赤黒い血の池のまわりの黒くニス塗りがされたベンチに腰掛けてそれを食べる。ヘル夫の名前はヘル夫だが、たい焼きの中身については、ヘルあんとデスあんどっちが好きかと問われたら、自分の名前に反してデスあんの方が好きだ。荒々しい味がなんともいえない。


もうヘルワークのことなど忘れかけて、ヘル夫がぼやーっとした表情で平和にたい焼きを食んでいたところだった。

目の前を南国の闘鶏もびっくりだというような、全身ピンだらけのパンクス風の格好をした赤いモヒカンの兄ちゃんが必死の形相で走り抜けていった。

そのあとしばらくして、パンクスの走っていった足取りの上を、よれよれのスーツを着たあんちゃんが息も絶え絶えにのろのろと駆けてきた。それで、ヘル夫の前で力尽きてがっくり地面に膝をつき、首をがっくりと折って下を向いてはあはあうめいていた。


彼は、ヘル夫の幼馴染、デモ介だった。この近くにあるデス袋警察署に勤務する若い刑事である。

「おい、デモ介、どうした」

「はあ、はあ、はあ、なんだ、ヘル夫か」

「はあはあって、感じてるのかこんなところで。このばか野郎。たい焼きでも食う?」

「はあ、はあ、どっちへ行った」

「なにがよ」

「見ただろ。鶏のトサカみたいなモヒカンのパンク野郎、どっちへ行った?」

「どっちったって、ここは道は一本しかないだろう。あっちだよ。なんでもいいから、そんなにあせらずたい焼きでも食えよ。な」

「おれは勤務中なんだよ」

「おまえは勤務中かもしれないけど、おれは勤務中じゃない。おれは勤務を探し中なんだよ。つまり暇なんだ。だからまあそんなにあせらずおれに付き合ってたい焼きでも食えよ。大丈夫だ。おれじゃなくて、おれのかあちゃんのおごりだから」


ようやく落ち着いたデモ介は、ヘル夫からもらったたい焼きをぱくつきながらぶつぶつと話し出した。

「またとり逃したぞ」

「何をだ」

「犯人だよ」

「何の」

「麻薬の売人」

「麻薬う? いいじゃねえかここは地獄だぜ。麻薬くらいでがたがたいうなよ」

「ただの麻薬じゃないんだ」

「何の麻薬だ」

「……ヘブントリップ系の薬だ」

「げげ。そりゃまずいな」

「まずいよ。キマると天国が見えちゃう系の薬だぜ。地獄にはあってはならないものだな」

「まあ、楽しそうだけどな。白い翼を生やして天界を飛び回ったり……」

「おまえなあ」

「蓮の葉に乗って宇宙の果てまでいけるんだろ。偉い坊さんに会ったり……」

「そんなこと、うちの署のお偉いさんの前でいったらしょっぴかれるぞ」

「いいじゃんか、天国。おれも興味あるぜ。地獄にばっかりいたら、飽きちまう」

「興味云々の問題じゃないんだ。ああいう薬を市井で売られたら困るんだよ」

「なんで」

「おまえみたいなアホが増えるだろ。仕事もしないでふらふらしてばっか。それでいて天国に憧れるという……。どうにも仕様がないやつらだ」

「へえへえ。そうでござんすか。じゃあおまえ、さっきやったたい焼き返せっ。この薄情者っ」

「だめだっ、一度もらったんだから。それだし、おれもうあんこの部分全部食っちまったもの」

「それで犯人に逃げられてれば世話ないよなあ」

「いや、大変なんだぞ」

「なにがさ」

「ここのところ失敗続きで、あんまりヘマばかりやっていると、おれ、地方に転属になっちゃうんだぞ」

「いいじゃんか、地方。空気がうまそうで」

「何をいってやがる。地方に近づくってことは、天国との境界に近いところにいかなきゃなんないんだぞ。そんなのはごめんだ。おれはこのヘル東京が好きなんだ。この街の地獄の掟を、暗黒の境界を守りたい、そう思ってこの仕事に就いたんだからな」そういってデモ介は赤褐色の太陽を見上げたが、ヘル夫はばかじゃなかろかこの男、と思った。


「それにしても困った」

「なにがよ」

「あいつ、どこに逃げ込んだかなあ」

「モヒカンパンク?」

「そうそう」

「逃げ込んでないんじゃない?」

「はあ? どういうことだ」

「おまえみたいなあほ面三流刑事に追いかけられたって、奴さんは別に怖くもなんともないだろ。たぶんどこかでまたヤクをばらまいているよ」

「げげ。そう思うか」

「思うね。バカ野郎はどこまでいってもバカ野郎だからな。追われるほうもバカなら、追うほうも……」

「余計なことをいうな。しかしなるほど、そうかもしれん。おれが追いかけていることなんか大して気にせずに、また悪いことをしているかもしれんなあ。さすが生粋のバカ野郎でかつニート。自己を鑑みたうえでの冷静かつ的確な判断だ」

「たい焼き返せよ」

「捜査を手伝ってくれ」

「何をいってやがる。おれは今からヘルワークに仕事を探しに……」

「どうせ行かないだろう。本屋に行ってアイドルの写真集を見てへらへら笑って帰るだけだろうが。それでおまえん家のかあちゃんには『今日も仕事がなかった』とかいって。あほか。地獄は常に忙しいんだ。仕事がないはずがなかろう」

「よくご存知で。じゃあ、手伝ったら何かお礼とか、くれる?」

「役に立ったらな。多少は何か考えよう」

「よし、やるぞおれは。あのパンクスを見つけ出せばいいんだな」

ヘル夫は残ったたい焼きをいちどきにぱくりと食べてしまうと、ひざの上にこぼれたたい焼きのかすをひと粒ずつつまんで口のなかに入れ、それから立ちあがった。

「あてはあるのか?」と聞くデモ介に、ヘル夫は「付いてきなさい」といって公園のなかを歩き出した。


ふたりは公園の大広場にやってきた。この部分は南側が駅に面しているので、多くの人が集まる。広場の中心から放射状にたくさんのベンチが並べられて、大勢の人々が憩いの時間を過ごしている。

広場の一角には一段高くなったステージが備えられており、そこでは浮浪者たちが賭け将棋大会をやっているらしい。ああとかううとか勝った負けたのうめき声が聞こえてくる。

また広場の北側には建物のごとく巨大な天然石が鎮座しており、入口上側に『魔王殿』という木彫りの看板がかかっている。ここは地下に広がる古代の宮殿の遺跡で、地下には地上の悪魔たちとは比べ物にならないほどの世にも恐ろしい獰猛で凶悪な悪魔たちが闊歩しているのだという。

でもまあふたりにはそんなのは関係ない。ヘル夫は広場の端っこに座り込んで目の前になにやらわけのわからない、おどろおどろしい絵にぐねぐねした筆文字が書き連ねてある葉書を並べ立てている、ニット帽をかぶった青年の悪魔のひとりに近づいていった。


「よっす」

「あ、ヘル夫ちゃん」

「景気どお」

「景気も何も、こんなもの、誰か買うと思う?」

「いや、買わないなあ。田舎から出てきたガキのおのぼりさんならともかく」

「でしょ?」

「それにしちゃあ偉くも続けてるじゃない、路上詩人」

「好きなんだよね、この公園と、雰囲気と、だらだら感が」

「わかるわかる。おれもさっきあっちでたい焼き食ったもん。で、毎日食ってる」

「仕事は見つかったの?」

「さあねえ」


デモ介がヘル夫の小脇をつついた。「おい。誰だよこいつは」

「え、バケちゃんのことしらないの。バケちゃんはこの辺の若者のなかでは情報通なんだ。毎日ここでこうやって絵を売ってるからね」

「彼は路上営業許可は持っているのか」

「知らないよそんなの。細かいこと気にすんな。だからおまえは女にもてないんだよデモ介」ニートにそんなことをいわれたくないとデモ介は思って言い返そうとしたが、ともかく捜査進展が第一だとして、この場はヘル夫に任せることにした。


「……へえへえ、ふうん。ライブハウスねえ」

「うん。特に駅の東側にある繁華街にあるライブハウスに、かなり出回ってるらしいよ。それで若いのがラリラリでヘロヘロで、そんな感じらしい。ここのところ東側からここに遊びにくるやつらで、どう見てもパキパキになっちゃってるやつがたくさんいるもん。デス之助とか、マッド太郎とか」

「へえ。あいつらもバカの仲間入りか」

「まあ、彼らはもともとバカだけど、ともかくそういうこと」

「つまりそこにはきっと売人がいる、と」

「そうなるんじゃないかな」


「……だってさデモ介。ライブハウスだと」ヘル夫がデモ介の方を向くと、彼はバケの売っている葉書を手にとってうんうんうなっている。

「どうしたデモ介。手がかりをつかんだんだ。ライブハウスに行こうぜ」

「そうなんだけど」

「ああ?」

「この葉書はいったい何なんだ?」

「何なんだって失礼な。バケちゃんの渾身の作品だよ」

「この、悪魔ふたりが夕焼けをバックに手をとっているところに『行こうぜおれたち』と筆書きされている、これが?」

「そうだよ。いいじゃんか青春で」

「この、地獄の獣王ベヒーモスがかわいい子猫ちゃんと戯れて『今日も午後はちゃんちゃらちゃん』と書かれている、これが?」

「いいじゃんか。みんな仲良しで」

「この、メドゥーサたちが百人並んで阿波踊りをしている……」

「うるせえなあ。いいんだよ。こう見えてバケちゃんはいろいろなところで活躍してるんだぞ。ここの界隈のポップアートコミュニティで彼を知らないやつなんかいないんだ。まったく芸術心のないやつだなあデモ介は。とにかく行こうぜ」

「うん。でも、何か一枚買っていきたい気もしてきた……」


ヘル夫たちは駅の西口の目抜き通り、ケツァクァトル通りを少し行き、そこから一本折れて、ラブホテルやキャバレーやおとなのおもちゃ屋、それにライブハウスが軒を連ねている狭い路地にやってきた。

この界隈にライブハウスは全部で十軒くらいある。「ニルヴァーナ」「天竺」「メッカ」「マンダラ」「マンダラ2」等々、地獄界では口に出すと怒られるような、天界のなんらかの宗教のキイワードを冠した名前のライブハウスばかりである。


ヘル夫はしばらくそれらのライブハウスのある辺りを行ったりきたりしていたが、そのうちに「アダム」という、この辺りでは結構広いハコに直感的に目をつけて、地下の会場への階段を降りていった。

入口でデモ介に金を出させてチケットを2枚もぎってもらうと、血をべとべと塗りつけたような、真っ赤な鉄の扉を開けて、店のなかに入った。


ライブの盛りあがりは、ふたりが会場に入ったときから最高潮だった。

彼らが最初に見たのは、「ルシフェル」というビジュアルバンドだった。

ボーカルは半身に白い服、もう半身に黒い服をまとい、それぞれ白い羽と黒い羽もつけていた。

ギターとベースはそれぞれが天使と悪魔の格好をしていた。純白のドレスのようなものと、全身をカラスの羽根だけで作ったような漆黒の衣装を着込んでいた。

ドラムはダンボールに銀のカラースプレーを吹きつけて作ったのであろう、ごつごつした岩のようなきぐるみを身にまとっていた。

「それでは聞いてください、おれたちの新曲! 『神は悪魔を愛したもうた』! ワン、ツー、スリー」

デゲギャーン! アンプからすごい音が鳴り響く。音厚で客はひっくり返りそうだ。そして歌がはじまる。


イエスは霊に導かれ荒れ野の地に行かれた

それは悪魔に試みられるためであった

敵を愛せ、迫害する者のために祈れ

敵を愛し、悪魔のために祈れ

悪魔とは 「欲望」!

そう、おれたちは「欲望」!

おれたちは経験する「残酷な、天使のテーゼ」を!

おれたちは歌う「残酷な、天使のテーゼ」を!

ぶちやぶれATフィールド

おれたちの明日を掴み取るために

GO! GO! GO FOR IT!


デモ介はモッシュしまくるぎゅうぎゅうの客の波のなか、息もできないままで必死に叫んだ。「貴様ら! このライブの内容は、悪魔集会条例に抵触しているぞ! いますぐ演奏をやめなさい! 天国の神の歌を歌うとはなんたることかっ!」

しかし、誰も彼の話なんか聞いてないし、演奏がうるさいから誰にも聞こえない。つづいてバンドは「ヨハネ黙示録」「ソドムもゴモラもまっぴらだぜ」「きよしこの夜パンクバージョン」そして最後に「旧約聖書をもう一度」をぶっつづけて歌い、そしてアンコールの大合唱のなか、さっさとステージを降りた。

そのころにはデモ介ももうひとりでこの会場の混乱を抑えることはできないだろうとあきらめていた。ただともかく、この、バンドが入れ替わっている時間帯に、売人を見つけてしょっぴかなければいけないと思い、この休憩時間中にデスビールやヘルカクテルで喉を潤そうとドリンクコーナーに向かう大量の人の流れでぐじゃぐじゃになった会場のなかを、うろうろと歩き回った。そういえばヘル夫はどこにいったのだろうか。


そうこうしている間に、次のバンド演奏がはじまってしまった。

MCグループ「シャカ・ザ・シェイク・ミッドナイト」は、仏教典をもとにしたラップミュージックでここのところ人気をあげている。

厚いベースと重々しいバスドラムが単調に流れ、緊張した感じのするシンセサイザーのリフの流れるなか、サングラスをかけた、肌の色が黒い太った悪魔が、右手を動かしてリズムを取りながらラップを歌いだす。


YOU!

マカ、ハンニャ、ハーラーミータ、シンギョウ、カンジー、ザイボウサツ!

ギョウジン、ハンニャーハーラッ、ミタジー、ショウケンゴウン、カイクウ!

ドウ、イッサイ、クウヤク、シャーリーシー……


SAY!

シキフーイークウクフーイーシキシキソクゼークウクウソクゼーシキ!

ジューソウギョーシキヤクプーニョーゼイシャーリーシーゼーショーホウクウソウ!


デモ介はまた叫ばなければいけなかった。「やめろ! これは悪魔界ではご禁制の『般若心経』ではないかっ! こんなもの唱えて、君らのお父さんお母さんが悲しむぞおっ! 君らは悪魔で妖怪でワルモノなんだぞっ! こんなもの唱えてどおするんだあっ!」

しかしまたもデモ介の叫びは群衆の黄色い声にさえぎられて、誰の耳にも届かなかった。

もはやこんなところにいるのは我慢ならんと思ったデモ介は、捜査はともかくここから出ようと思い、壁のような人並みを押しのけ、ヘル夫を探した。


ヘル夫は会場の後ろのほう、客もさすがにまばらな部分で、壁にもたれてぐったりしていた。

デモ介はあわてて駆け寄った。まさか、売人に感づかれて何かとんでもないことをされちまったんじゃないだろうな!?

しかし、声をかけると、ヘル夫はへらへら笑いながら顔をあげた。


「どうしたヘル夫! 売人にやられたのか!?」

「ああ、まあ、やられたっちゃあ、やられたねえ」

「何をされたんだ!? まさか、やばいクスリを打たれたとか……?」

「ああ、そんなんじゃないから大丈夫」

「じゃあどうした」

「さっきそこで、友達にあってなあ」

「友達? 友達にあって、なんでこんなになっちまったんだ」

「それでさあ、聞いたんだよ。モヒカンの売人の話」

「おお、それでどうした。何かわかったか」

「うんうん。わかった。やつの居場所はわかったわけ」

「なるほど。それにしても、おまえのその体たらくは何だ」

「それでねえ、そいつがさあ、上物をもってたんだよ」

「なんだ、上物って」

「ヘブン・ドラッグ」

「はあ?」

「それで、おれ、ちょっとくれっつって、分けてもらって、さっき飲んだらさあ。これが効く効く。もう、楽しくって」

「何だおまえ、じゃあ、今ヘブン・ドラッグを摂取してるのかっ!?」

「そおそお、そおなの。今ネ、おれの頭のなかには、美しい空と、七色の光と、青々しい林檎の木々と、やさしそうな女神と、おちゃめな天使と、白い猫がぐーるぐる回ってパンケーキみたいになってんだあ」

「このばか野郎! 麻薬の捜査をしにきて、麻薬でヤリってるやつがどこにいるっ!」

「ここにいるじゃんよお」

「アホッ!」

「でも、おれがもらったやつは、大したものじゃないんだと。そのモヒカンの売人が扱ってるブツは、ほんと、神様に転生できるくらいぶっ飛べるやつらしいぜ。へへへ。楽しみ」


 ***


ヘル夫たちは、ライブハウスで聞いた情報をもとに、モヒカンたちの本拠地だと思われる場所までやってきた。

デス袋駅から南へしばらく歩き、墓地の間の長い小道を通り抜けたところに、ほとんど人の住んでいない人淋しい地区がある。そこに、今や誰も来ない見捨てられた悪魔寺が一軒あるのだが、その寺の敷地内に、売人たちのアジトがあるというのだ。


もはや陽は暮れ、赤褐色の巨大な太陽は黒さを増して血のような茜色に輝き、地平に消えようとしていた。空からは地獄の藤色の夜の帳が降りてきて、空を染めようとしていた。

誰も面倒の見ていない寺は、入口の門に柵が張られ、さらにそれが鉄条網でがんじがらめにしてあった。

デモ介はこれをひらりと飛び越え、まだ少しラリり気味なヘル夫はデモ介に助けられてなんとか柵を乗り越えて、そのまま地面にどさりと落ちた。

広い境内は静かだったが、デモ介はかすかに、黒々と聳え立つ寺の本殿の向こう、その裏手のほうでなにやら騒ぎ声が聞こえるのに気付いた。ヘル夫は頭のなかから楽しい情景が消えつつあるのに気付き、ちょっと悲しかった。デモ介は悪魔拳銃を腰から引き出すと肩の高さに構え、少しずつ声のするほうへ近づいていく。ヘル夫はさっきライブハウスで会った知人がもう一錠ヘブン・ドラッグをくれていたことを思い出し、それをポケットから出して飲みくだした。


本殿の裏には、黒い大きなテントが張られていた。外との仕切りに隙間がなく完全に密閉されているのでなので内部の様子は一切見えないが、ともかく若者の嬌声が中から聞こえてくるし、テントの外側の黒い布に中から発せられるいろいろな色の妖しい明かりが映えているのが見てとれた。

デモ介は確信した。間違いない。この中では売人たちがヘブン・ドラッグをキメまくってバカ騒ぎをしているのだ。


デモ介はさらにゆっくりと少しずつ、足音を立てないようにテントの入口までにじり寄っていく。うしろからはふらふらとしながらヘル夫もついてくる。

そしてデモ介は覚悟を決めて、テントの入口をばさっと開けて中に踏み込み、声をあげた。「おれはデス袋地獄警察署捜査一課刑事の煉獄山デモ介だ! 貴様ら全員ヘブン・ドラッグの売買および摂取容疑で逮捕する!」


外から見てもそうだったように、テントの中は広かった。奥の方に台座があり、その中心にはピラミッドの上に仏像が置かれている。仏像の後ろの壁にはステンドグラスの真んなかにキリストの受難象が掲げられていた。さらに仏像の右左にはヒンドゥーのシバ神やブラフマンの像や、果てはトーテムポールやミニチュアのモアイなどが並び、その前にはコーランや仏教聖典や死海文書のレプリカなどが山と積まれている。ということはそこらにいくつかある仰々しく飾られた燭台の上で燃えている炎は、ゾロアスターの神の化身・神火なのだろうか。


ともかく天界の各宗教の聖性を具現化したと思われる物体がそこらじゅうに見て取れる。これは、悪魔界ではめちゃくちゃな法律違反だ。宗教に関しての物的な悪事をすべて犯しているといえるほど、ひどいにも程があるほどの空間をこしらえてくれたものだ。

おそらくヘブン・ドラッグを摂取した若者どもは、これらの天界の偶像物からインスピレーションを得て、それぞれの夢うつつの世界で神と一体化したような心持ちになって遊ぶのだろう。

なんと低俗な、とデモ介は思った。悪魔としての誇りがあれば、こんなことをしなくても楽しく生きていけるはずだろう、と考えたのだ。


しかし、テントの中にいた売人たちは、きょとんとしているだけだった。別にデモ介を怖がっていないわけではないが、どうにもそうは見えなかった。

彼らだって自分たちが悪いことをしているという自覚はあったし、逮捕されるのも嫌なのだ。

ただ、今はここにいるメンバー全員が一斉にしてヘブン・ドラッグでキマりまくっているので、今目の前で起こっている現実の正体が何なのか、つかめずにいるのだ。

だから、みんなで楽しくやっているのに、変なやつが入ってきた、くらいにしか、思っていない。

ちなみに、赤いモヒカンの売人もちゃんとテントの中にいて、あっちのほうから、仲間と一緒にこちらをぼやっと見ていた。


そこでいきなり、ヘル夫が後ろからデモ介の体をつかみあげた。

「げげっ、ヘル夫、何をするっ」

「みんなあっ、聞いてくれえ、こいつはなあ、ほんとうに刑事なんだ。でもなあ、毎日毎日毎日毎日毎日毎日くそくだらない仕事をさせられて、ほとほと疲れ果てちまったんだと。それで、みんなの仲間に加わりたいっていうんだな。どおだろう。みんな、こいつも仲間に入れてやってくれないかあっ」

「そ、そんなこといってバカ野郎……」しかしヘル夫はデモ介の口も塞いでしまった。

「今日はさあ、こいつにも楽しい目を見させてやってくれよお。毎日さあ、街の平和を守ってんだなあ、こいつは。ひとりの誇りある悪魔として、だ。だからさあ、みんなでさあ、たのしくやろうよ今日は。ちなみに、おれ、天国大好きだぜっ!」


その言葉に、テントの住人たちはきょとんとした顔からにんまりした顔に変わると、わっと歓声をあげて、われよわれよとふたりのほうにやってきた。

それで、ヘル夫におさえられているデモ介の口をこじあけると、そのなかにがばがばとヘブン・ドラッグの錠剤を入れて、さらにポカリスエットもごぼごぼと注ぎ込んだ。

ヘル夫はデモ介の鼻の穴を押さえた。苦しくなったデモ介は、口のなかのものをすべて飲み込んでしまった。それでしばらくするとぐたっとなったので、ヘル夫は彼を床にごろんと転がしてしまった。

ヘル夫はすぐに仲良くなった背のでかい悪魔からヘブン・ドラッグをただでもらうと、そこらへんにあったポカリスエットやグレープフルーツジュースでそれを胃のなかへ流し込み、げらげらと笑いはじめた。


DJが皿を回しはじめた。

台座の左右にすえつけられた巨大なウーハーから、ヘルトランスやヘルハウスミュージック、ブレインデッドアシッドやゴーマッドブレイクビーツが大音量で間断なく流される。みんなは踊りに踊った。天子の羽をつけて、袈裟を着て、頭をそって、ターバンを巻いて、お経を読んで、ラーガを弾いて、シタールを弾いて、馬頭琴を弾いて、ノアの箱舟を削って、木造仏を削って、トーテムポールを削って、たいまつを振りかざして、ちんこを振り乱して、踊りに踊った。

もちろん、デモ介も意識を取り戻すとすぐに立ちあがり、踊りに踊った。彼の頭のなかでは今、光と闇が交じり合い、しかしすこしも濁ることなく、大きかったり小さかったりする玉の泡のようになって、世界中を右に行ったり左に行ったりして、デモ介自身はその泡に乗って天地乾坤間をどこまでも行くことができて、ときには巨大なお釈迦様に出会い説法をしてもらったり、ときにはキリストの奇跡を目の当たりにしてああ悪はただの悪でしかないのだそして悪も正義もなく本来我々は空気に近い自然な存在なのだと悟ったりした。それでずっと踊っていた。


 ***


「ただいま」

ヘル夫はほんとうに小さく玄関でそう呟き、少しの音もたてないように靴を脱いだ。なにせ、もう朝の5時だからだ。

それでまた、ぜったいに音をたてないようにと階段を登っていき、二階にたどりついて、居間の扉をゆっくりと開けてなかに入り、台所まで行って蛇口から静かにコップに水を貯めると、それをぐびぐびと飲んだ。

今日はよくよく踊った。よかったよかった。悪いやつも見つけたし(逮捕はできていないが)、踊りつかれてくたばってしまったデモ介も家まで送り届けたし、何だか大仕事をやった気になるなあ。そう思いながら台所の明かり取りの小窓を少し開けて、黄褐色の朝日を目に受けていたときだった。

後ろのふすまががら、と開いて、そこに鬼がいた。


「あんた、どこ行ってたの」

「は」

「どこ行ってたのよ」

「いや、あのねえ……」

まさか「天国」と答えるわけにもいかないので(それはそれでほんとうなのだが)、ヘル夫は口ごもった。


「どこってほら、仕事見つけに」

「こんな朝方まで、ヘルワークがやってたわけ?」

「いやまあ、そう。あのね、ヘルワークで紹介を受けて、それでね、ちょっと……」

「うそつけっ! またほっつき歩いて遊んでたんでしょっ! あたしのへそくりまで抜いてっ」

あっ、しまった。

ばれてたのか。

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