【未完】螺旋

伊島糸雨

殺伐感情戦線:第13回「約束」


 ミサキが人と指切りげんまんをするのを見たのは、小学生の時が最初だった。

 アワノ君っていう子と両想いになったとかで、付き合って二ヶ月目くらいにやっていた。その時の文句は確か、

「大人になったら結婚しようね」

 なんて可愛らしいもので、不安だからと付き添いを頼まれた私は、建物の陰からその様子を眺めていた。

 アワノ君は「いいよ」とか言って、二人は約束をする。将来を誓い合った二人はそのまま大人になることもなく、翌月に別れた。アワノ君の方がフったと聞いている。ミサキの”約束”への執着にうんざりしたらしかった。

「だから言ったじゃん。約束なんてするもんじゃないって」

「でもぉ」

 人目を気にするという概念がないのか、涙と鼻水を流して嗚咽を漏らすミサキにティッシュを渡す。彼女は素直に受け取って、体面なんて存在しないふうにチーンと鼻をかむ。私はそれを、隣で眺めている。


 ミサキが人と指切りげんまんをするのを見たのは、二十歳の誕生日が最後だった。

「次は、なっちゃんから生まれたいな」

 はい、指切りげんまん。約束だよ。

 暗闇の中で、テレビの光が瞬いていた。ベッドを背にして座り込んで、私を見るミサキの微笑みが、やけにくっきりと浮かび上がっていた。

 ミサキは死んだ。

 それが、彼女が交わした最後の”約束”だった。


 *     *


「指切りげんまん。約束だよ」

 ミサキ、鞍月くらつき未崎みさきは、約束ごとにやたらとこだわる考え方をしていた。私はそのこだわりの起源をおそらく知っていて、ミサキがそれを話してくれたのは、自惚れでなければ私だけだったんじゃないかと思う。

 小学校低学年、確か二年生の時に、ミサキは両親を亡くしている。夏休み、ミサキを叔父叔母夫婦に預けて海外旅行に出た先で、交通事故にあったそうだ。不安がったミサキに対して、両親は「絶対に帰ってくるから大丈夫」と約束をしていたらしい。指切りげんまん、で。

 結局、約束は守られなかった。彼女が気にしているのは、そのことだ。

 ミサキは叔父叔母夫婦に引き取られ、その関係で私がいた学校に転校してきた。暗い感じでボソボソと自己紹介をするミサキはなんかよくわかんない子だったけれど、私はまぁ好奇心九割くらいで話しかけて、なんだかなんだ長く一緒にいた。

 私は中学も高校も、地元から出ることなく、漫然と過ごしていった。ミサキも同じだったとは思わない。あの子は私なんかよりよっぽど苦しんでいただろうから。

 彼女を縛り付けることのほとんどは、彼女が取り付ける“約束”だった。私にはそれが、自分で自分を痛めつけているかのように見えて、何もできないと諦めながら、いじらしいと感じていた。ミサキのある種必死な様は、私を必要としているのだと、奇妙な感覚を私にもたらしていた。思えば、あれは征服感とか、そういう類の嫌なものだった。

 高校の時からちょくちょく酒も煙草もやっていた不良でガサツな私と違って、ミサキは明確に女の子だった。自分の外見を整え、振る舞いに気を使い、基本的に分け隔てなく人と接した。なぁんでこの子と私は一緒にいるんだろうな、と私みたいなやつにとっては定番の屋上でぼんやり考えたりもしたけれど、どこにいたって気がつくとミサキはいて、階段に続くドアの隙間から小さく手を振っているのだった。

「なっちゃんはかっこいいよね。お酒とか煙草とか、そういうのって誰かと一緒にやるものだと思ってたけど、なっちゃんは違う。ぜんぶ一人でやっちゃって、私とは違うよね」

 広げた弁当を箸でつつきながら、ミサキが言った。私は「まさか」と鼻で笑って、購買で買ったパンをちぎる。「かっこつけてるだけだよ」

 他がいたらミサキは来ないでしょ、とは言わなかった。

 ミサキにそういうのは似合わない。というより、私が嫌なのだった。

 まぁ、一人の方が、気楽なのもあったけど。

 本当のことを言う代わりに、疑問をぶつける。

「どうして私なんかと一緒にいるの」

「えぇ?」

 ミサキは器用に眉を八の字にしている。困った、というのがすぐにわかる、なんともわかりやすい表情だった。

「いや、答えたくなきゃべつにいいんだけど」

 個人的で、勝手な質問ではある。ミサキが嫌なら、私はわからないままでも構わなかった。

 けれどミサキはゆるく首を振って、

「ううん、嫌じゃないよ」

 と静かに言った。

 どんどん涼しくなっていく秋の空気が、風となって私たちの肌を撫でていった。青空に日が差して、半袖でもまだ寒くない。ミサキの茶色い地毛が、さわさわと風に揺れた。

「なっちゃんは、私との約束をずっと守ってくれるでしょ」

 そう言って、彼女は笑う。

「私ね、わかってるんだ。約束、約束、って私のエゴなんだって。誰も守る義理なんてない。私が悲しいのも腹をたてるのも、ぜんぶ私の勝手なんだよ。なのにね、なっちゃんはいっつも律儀に守ってくれるよね。なっちゃんのそういうとこ、好きなんだ」

「あ、……」

 私は自分の喉から、言葉にならない呻きが漏れるのを聞いた。

 ミサキは私なんかよりよっぽど女の子で、彼女の必死さはいじらしく、いつか崩れてしまいそうだと私に思わせる。風に波に時間の中にさらされて、いつか朽ちて壊れてしまうのではないかと。

 彼女が他の何よりも、自分の約束ルールに縛られているのを、私は知っていた。ほとんど強迫に似た形で、鞍月未崎を内側から叩いている。小指を絡めて腕を振るあの儀式は、そういう怪物との契約なのだ。

 破られれば、針を飲むのはいつだってミサキ自身だ。

 他の誰も、その責を被らない。

 パンを掴んだ手を膝に下ろす。私は喉に絡みつく唾を飲み下して、質問を重ねた。

「その……見た目、とか、人と話すときの感じは」

 楽しいから。自分が綺麗だと嬉しいから。みんなと仲良くしたいから。そんなの、当たり前だよ。

 そういう答えならいいのに、と私は期待して、そんな約束してもいないこと、違って当然だとも思っていた。

 ミサキは箸を置いて空を見上げる。光に目を細めて、楽しいかもわかんないのに笑顔をつくり、

「これはね、私が私とした約束なの。自分でしっかりできるようにするんだって。私さ、なっちゃんみたいに強くなれないから、こうやって取り繕うしかできないけど……約束は約束だから。しっかり守れるように、頑張らないと。でしょ?」

 そして私を見る。小指を差し出すときの真剣な眼差しで私を見て、きっとその先に、私の瞳に映る自分自身を見つめている。

 そして不意に相好を崩すと、彼女は言った。

「ね、なっちゃん、約束して」

 なにを、と沈黙で答えると、ミサキの冷えた手のひらが、放り出された私の手の甲に触れた。私は驚いて身じろぎをするけれど、ミサキが思ったより強い力で私を拘束して、放さない。「痛いよ……」と言っても、彼女は聞かなかった。

「私との約束を守るって、約束して」

 切迫した様子で、捲したてる。

「私のそばにいて。私を置いていかないで。私より先に死なないで。お願い……」

 祈るように言うミサキを、私は隣で眺めている。

 これまで何度も見てきた。ミサキの泣くところ。ミサキの怒るところ。守られなかったすべての約束たち。

 その中に、こういう思いがあるのも、なんとなくわかっていた。だから、私は彼女が安心できればいいと、ずっと応え続けていた。

 人は裏切りの生き物だ。生きていく中で、たくさんの契約を反故にして、たくさんの約束を無視される。だからこそ、知らないふりして、なかったことにして、傷つかなかったことにして誤魔化して生きるのに。

 彼女はそれができない。あるいは、偽らないと、自分に課しているのかもしれなかった。

 ミサキ、ずるいよ。私がどう答えるのかなんて、わかってるくせに、それでもまだ、不安でたまらないんだね。

 私はそれを、彼女に言わなかった。

 代わりに、重ねられた手に、空いた方の小指をそっと絡める。隙間に爪の先を差し込んで、掬い上げて、握り締めて、

「いいよ、約束する」

 それは重く、残酷な言葉だ。互いを縛り付け、どちらかが傷つくことを避けられない。私の言葉が、私を殺す刃になる。

 けれどそれは、ミサキも一緒だった。これまで二人で生き残ってきたのだから、きっと大丈夫だと、そう信じる他にない。

「うん、ありがとう……」

 私たちは唱和する。ゆーびきーりげーんまーん……

 ミサキ。もし私が裏切ったら、あなたが飲む針も、私に突き刺してくれる? そうやって、私のことを詰ってくれるのかな。

 きっと、無理だろう。ミサキはすべてを自分で飲み込んで、苦しんで……唯一の私さえも、失ってしまう。

 それだけはいけなかった。どれだけ世界がミサキを裏切ったって、私だけは絶対の味方でなければならなかった。私も、その事実によって救われるはずだから。

 ごめんね、と言って、ミサキは手をどけた。「あっ」と言って慌てるから、私は「大丈夫だよ」と笑ってみせる。

 赤くなった手の甲は印のようで、吹き付ける風がやけに冷たく感じられた。


 *     *


 ミサキは可愛かった。元のぶんもあるし、努力のこともあって、まぁそれなりに異性にモテていた。ミサキは告白されるばかりで自分からどうってことはなかったけれど、中高合わせて五人くらいは付き合っていたんじゃないかと思う。五人って結構多いな、と私なんかは思うわけだ。なにせゼロだから。比較するのも馬鹿らしい。

 とはいえ、どれもこれも期間は短くて、次が来るのにも期間はあった。しょっちゅうというわけでもなく、長く続くわけでもない。誰も彼も、ミサキの“約束”への執着に耐えられなくて、途中で投げ出してしまうのだった。

「ただいまー」

「お邪魔します」

「あら、ナツキちゃん。いらっしゃい」

 ミサキに続いて靴を脱いでいると、リビングからおばさんが顔を出した。ミサキを引き取った叔母さんだ。

「あとでお茶持って行くね」

「ありがとうございます」

 おばさんはニコニコしながら台所へと向かった。リビングからは、夕方のニュースが聞こえていた。

『……アメリカで初めて、死者の体細胞を用いた体細胞核移植によるクローンが誕生し──』

 玄関からミサキの部屋までは綺麗に片付いて、落ち着いた静けさは健康的な家庭であることを私に知らせる。小学生の時から、おばさんは私にもよくしてくれた。ミサキから家に関する嫌な話は聞いたことがない。

「どーぞ」

「どーも」

 ミサキが開けてくれたドアをありがたく先に潜って、見慣れた部屋の中で定位置に腰を下ろす。木製の家具が多い中で、テーブルだけはガラスだった。相変わらず洒落てるな、と思いながら、ぐるりと室内を見渡す。

「久しぶりだよね、うち来るの」

 ミサキが対面に座りながら言った。私は「そうだね」と頷いて、

「前来たの、一ヶ月くらい前か」

「CD返しに来てくれた時だね」

 あれは失敗したなー、とミサキは言った。失敗ってことはないだろう、と思う。私の感性に合わなかったってだけで。

 勧められたから聞いてみたけど、あんま趣味じゃなくてすぐに返したのだった。なんだか申し訳ないな、なんて思いながらドアホンを押したら部屋着のミサキが出てきて、そのまま部屋に上げてもらって少し遊んだ。遊んだと言っても、だらだら喋るくらいだけど、私にはまぁ、それが一番良かった。

 ノックの音がしてミサキが返事をすると、おばさんがお茶を持ってきてくれていた。テーブルの上にお盆ごと乗せてから、「ゆっくりして行ってね」と微笑んで階段を降りて行った。

 私はグラスに口をつけて、唇を濡らした。「それで?」

「なんかあったんじゃないの?」

「うん……」

 ミサキはそれまで気丈に振る舞っていたのを、くしゃっと顔を歪めて呟いた。

「また、約束破られちゃった」

 そしてそのまま、唇を噛み締めて、嗚咽を漏らす。私はそれを、やっぱり眺めているしかない。

「彼氏、別れようって?」

「うん……」

「そっか」

 私は天井を仰いだ。真っ白い照明が目に沁みて、まぶたを閉じる。

 ミサキがまた針を飲むのかと思うと悔しかった。そういう風にしか生きられないミサキに、どうして合わせることができないのだろう。堪え性のない男たち。身勝手な連中。自分のことを優先してミサキを捨てるのに、好きだの何だのと口ばかりは達者で、本当に、ろくでもない。

 私なら、と思う。私なら、ミサキをこんなことで泣かせないのに。私なら、ミサキのために他を捨ててもいいのに。私なら、私なら……。

 でも、それが思い上がりだというのも、よくわかっていた。私とミサキは互いを思えば思うほど、それぞれの首筋に刃をあてがって、心中へと近づいていく。そういう関係性に、とうの昔になってしまっているのだった。

 痛みはミサキだけのものであって、私はそれを解消しえない。できることと言ったら、せいぜいが、拙い慰めの言葉をかけるだけだ。

 目を開けると光の洪水が飛び込んでくる。私はゆっくりと立ち上がって、ミサキの隣に座った。腕を背に回して、背中をさする。言うことも、言えることも、私には何もなかった。

 しばらくの間そうしていた。肩に乗ったミサキの頭の重みを感じながら、壁に貼られたカレンダーをぼんやり眺めていると、不意にミサキが小さく笑って、私の膝に倒れこんだ。

「どうしたの急に……」

 ミサキは赤くなった目のまま小さく笑って、

「なっちゃんだけだよ、こんなことしてくれるの」

「いや、はぁ? ほんとなに……わかんないんだけど」

 私はたじろいで、ミサキの頬をつつく。「やめてー」と言うから手を離した。ふつうに柔らかかった。

 はぁ、と息を吐いて、向かい側に置きっぱなしにしたグラスに手を伸ばした。すると距離の縮まった私の腹に、ミサキが顔を突っ込んだ。

「ばっ!」

 慌てて手を引っ込めて腹部を見下ろすと、ミサキが顔を埋めて……鼻先を擦り付けていた。目を細めて心地よさそうにしながら、鼻をふんふん鳴らしている。

「み、ミサキ、なにして……っ」

「んふっ」

 臍のあたりでミサキがよくわからない声を上げる。私はどうすればいいかわからず右往左往して、ひっぺがせばいいのかとミサキの頭に手をかけた。柔らかく繊細な髪が、指の隙間をこぼれていく。

「やだー、なっちゃんのお腹がー!」

「なに言ってんの!」

 ミサキは両腕を私の腰に回して離れようとしなかった。私はしばらく試行錯誤した挙句、とうとう根負けして両腕を下ろした。くすぐったくて恥ずかしいだけだからまぁ……、と自分を納得させるのには苦労した。

 私が諦めたのを見て、ミサキは満足げに笑う。そうしていると、もっと幼い子供のようで、私はつい破顔した。

 ミサキはまた私の腹に顔を近づけると、浅い吐息を漏らす。

「私ねぇ、なっちゃんのお腹好きかもしれない」

「……ミサキ、やっぱり今日変だよ」

 今度は何を言い出したのかと呆れて言うと、ミサキは膨れて「変じゃないよ」と抗議した。私は変だと思う。友達の腹が好きとか、意味がわからないから。困惑しか生んでない。

 ミサキはとりなすように「まぁまぁ」と言って、

「なんというか、落ち着く? のかな……。膝枕くらいなら何度かしてもらってるけど、その度に思ってたんだよね。この場所いいなー、って。あれかな、赤ちゃん返りかな」

 難しい問題にでも取り組んでいるみたいに、眉根を寄せて考え込む。私は「よくわかんないよ」と言って、彼女の髪を梳いた。

 ミサキが私の子供になるのを想像する。もっと幼いミサキは、私の膝の上で横になって、私はそれを上から見つめる。すると今みたいにお腹に頬を寄せて、穏やかな表情で眠りにつく……。

 愛らしいだろうな、と考える。私を頼りにして、私という存在に、私という肉体に落ち着きを覚えるのは、庇護欲を唆るに違いなかった。私の中で絡み合ったミサキへの色々な思いのすべてが、娘に対するものとして結実するのなら……、それも、悪くないように思えた。

「ねぇ、知ってる? 叔父さん、生命科学の研究してるの……」

「ああ、うん。知ってるよ。なに研究してるかは知らないけど」

 ふと思い出したように、ミサキは私の目を見て言った。以前に彼女自身が話していた気がする。

 私が頷くと、ミサキは急に小声になって、

「……研究内容ね、クローン技術なの。これ、他の人に言わないでね」

 秘密なのに私に言ってもいいのかと思いつつ、私もつられて小声になる。

「クローン技術って、あの……」

「うん、羊とかのやつ。叔父さんのは、死んじゃった人のクローンを赤ちゃんからつくる、っていうのなんだって」

 羊、っていうのは、中学の理科の教科書に載っていた“ドリー”とかいうやつのことだろう。私はリビングを通りがかった時のニュースを思い出した。「体細胞が、どうとかいう」

「それはよくわからないけど」

 ミサキはそう前置いてから、

「それって素敵だなって思うの。だってさ、生まれ変わりでしょ? 同じ外見で、別の人生で」

「そうなの……? 別人じゃない、それ」

「えぇー、違うよー。魂が同じなんだよ、たぶん」

「わかんないじゃん……」

「もー、細かいなぁ」

 ごろんと頭を転がして、また私の腹に顔を向ける。それから再度両腕を伸ばして、私の腰を抱きしめた。

「なっちゃんのところは、安心するな……次があるなら、なっちゃんの子供になりたいよ」

「……なに言ってんの」

 私は苦笑して、ミサキの頬に触れる。今度は嫌がることもなく、目を閉じていた。

 次なんてないよ、ミサキ。

 今ここにあるのがすべてで、クローンとか、魂とか、次とか、そんなものは重要じゃないんだよ。

 目の前にいるミサキが大事。それをなしに、他の可能性なんて語れないでしょ?

「約束したじゃん」

 そばにいる、置いていかない、先に死なない、ってさ。そのためには、ミサキがいないとダメなんだよ。

「うん、そうだね。なっちゃんは、約束守ってくれるよね……」

 ミサキは微笑むと、しばらくして、静かな寝息を立て始めた。まるで、赤子のように。

 愛おしい、と思う。それがどんな種類のものであれ、表現する言葉は同じだった。可愛いミサキ。私に約束をくれたミサキ。ミサキのことが、愛おしかった。

 想像によってお腹が疼くのは、きっと、そのせいなのだろう。


 *     *


 高校を卒業して、私たちは別々の大学に通うことになった。私は私立文系で、ミサキは国立理系。もともと学力も差があったから、まぁそうなるだろうな、という予想の範囲内だった。

 私もミサキも実家通いが可能ではあったけれど、ミサキの方は一人暮らしを始めることになった。引越しの時には私も手伝って、「いつでも遊びに来てね」と合鍵をもらった。いや、いいのかそれで……合鍵だぞ、と思っていたら、「なっちゃんだからいいの!」と強引に握らされた。

 そこまで言われたら引き下がるほかない。せめて有効活用しようと、そこそこの頻度でミサキの家に遊びに行った。たまには泊まって、夜通し映画を見ることもあって、電気を消した部屋で二人並んで、色んな色の光が明滅するのをじっと見ていた。そんな時は会話もほとんどなくて、心地いい沈黙がワンルームの中に満ちていたように思う。

 二年生になると、授業や予定が重なることが増えて、あまり会うことができなくなった。連絡だけは取り合って近況報告をしたりはしていたけれど、物理的な距離としてそばにい続けることは難しくなっていった。

 仕方がないことだった。私は自分の生活を選んで、優先して、ミサキを置いている。いつかこうなって、私自身が約束の効力によって罪悪感を抱くだろうことは予想できていた。その上で小指を差し出したのだ。できる限りで、彼女の求めに応え続けるのだと。

 ならば可能な範囲で努力すべきだと私は考えた。針はきっちりと、半分にしなければならない。

 平日は難しくとも、週末にはミサキに会いに行った。大学に友達はいたけれど、大学の構内から出たら会話もしないような希薄な仲だった。サークルは別にやりたいこともなくて入らなかった。それに時間を食われるよりは、ミサキと一緒に過ごしたかったからだ。

 ミサキが他の人と様々な約束をしてはそれに縛られて傷つくのに、私と彼女の間にあったのは、高校生の時に屋上で交わした一つだけだった。私は自分で自分を縛り付けて、たった一つのために日々を洗練していく。大学生としての私じゃない、木江きのえ奈津希なつき個人としての日々を、ミサキのために使うと決めたのだった。

 ミサキが私を信じてくれたように、私もまたミサキを信じていた。誓いによって、私たちは生かされていた。

 ミサキよりも私の方が数ヶ月早く誕生日を迎えて、私はその日を彼女の家で過ごした。「帰らなくていいの?」とミサキは心配したけれど、両親には先に伝えてあったから何も問題はなかった。私は二十歳とか関係なしにちょくちょく飲んでいた酒をミサキの家に持ち込んで、ピザとケーキを食べながら二人でこっそり酒盛りをした。

 楽しかった。ささやかで、ゆるやかな時間の流れを共有するのは、私たちの関係が変わらずにあることを信じさせてくれた。隣にいる時間は減ってしまったけれど、しっかりと約束は果たされているのだと思えていた。

 ミサキはきっと、彼女自身のことの多くを私に明かしてくれているだろうと思っていた。私が彼女に向けていた信頼はそういうもので、安心感はその前提のもとに成り立っていた。ミサキはここにいる、だから私は約束を果たしていられる、大丈夫だ、という、存在しない不滅性への、根拠のない安心が。

 ミサキの家に泊まった翌朝のことだ。トイレットペーパーがなくなって、替えを補充しようと洗面所の棚を開けると、何かが入ったビニール袋が転がり落ちてきた。拾い上げて中を見ると、どうやら薬のようで、私は首を傾げる。こんなもの、前からあっただろうか。しかもどうして棚の中なんかに……。

 見なくても良いはずだった。そっともとに戻して、鼻歌でも歌いながらトイレに向かえば良かったのに……独占欲、知っていたいという欲求……知らないことがあるのが嫌だった。そういうロクでもない感情で、袋に書かれた文字を見た。

 薬局名と、薬の名前。初めて見る名称だった。なんだこれ、と思って、「ねぇ、ミサキ」と彼女を呼ぶ。

「この薬、どうしたの」

「えっ」

 ドタドタと慌てた様子のミサキが現れて、私が差し出した袋を受け取った。

「どこか悪いの? 大丈夫か?」

 顔を覗き込もうとしたら、ミサキは顔をそらして、「大丈夫。なんでもないよ」

「なんでもないの」

「でも、」

「なっちゃんは気にしないでいいの。ほら、紙、替えておいてくれるんでしょ」

 食い下がろうとする私の背を押して、トイレの方へと追いやる。追求するのも悪いと思って、私はそれ以上触れることはなかった。ミサキも何もないふうに振舞って、その日は別れた。

 帰りの電車で、うっすらと覚えている薬の名前を検索にかけた。最初の何文字かを打ったら近いのが出てきて、それをタップする。出てきた文字列を見て、

「は、」

 心臓が跳ねた。吸い込んだ息が停滞して、思考が止まる。

 ページを読み進めて、その病がそう珍しくもないものだと知る。けれど、重要なのはそこではなかった。

 前提が崩れる。もしかしたら、ミサキは私の知らないところで、私に知らせないまま、ふとした拍子に消えてしまうのかもしれない、と。じわりと、足元から冷たい泥濘のような恐れが這い上がってきて、スマホを握りしめる。ドアのそばの手すり部分に背を預けて、俯いた。

 彼女を絡めとるしがらみには、のこぎりの刃がびっしりと付いていて、彼女が動くたびに皮膚を裂き肉を抉り、指先から血を滴らせる。加えて彼女は針を千本痛み分けするでもなく一人で飲み込んで、涙を流しながら口も食道も胃も何もをズタズタにして、終わらない苦しみに喘いでいる。

 そういう妄想が脳裏にちらついて、胸が痛かった。結局、私にできることなんてたいしてなくて、気づかないふりをして日常を演じるだけなんじゃないか。彼女との約束を守ることだけが私に求められていることなんじゃないか……。

 不安になる。わからなくなる。彼女に巣食う憂鬱は、笑顔であっても潜んでいて、私はこれまでそれに気づいていなかった。その事実が私をうちのめして、けれど、気づいたからといってどうしようもないじゃないか、という声が私を詰る。

 ミサキといたいと考えるほど、ミサキをこの手で縛り付けておければいいのにとも思えて、本当に自分が嫌になる。

 傷つけてでも留めたい。傷つかないでいて欲しい。

 どちらも本心で、私には、とても選べるものではないのだった。


 *     *


 世間では、いつかに聞いたクローン技術が話題になっていた。それまでは全面的に禁止になっていたのが、故人の再生に限定して、部分的に可能になったというものだった。ミサキはそれを見たのか、「やったね」とメッセージを送ってきた。私は複雑な心持ちで「そうかな」と返信し、「そうだよー」というのに嘆息する。彼女はいったいどこを見ているのだろう。私は時々、それがわからなくなる。

 いつも通りの私。いつも通りのミサキ。そういう上っ面の取り繕いで、私たちは繋がっている。がんじがらめの砂上の楼閣に腰掛けて、いつ崩れるのかと怯えている。こんなはずじゃなかったのに、と思い、こうなるのは必然だろ、と冷たく吐き棄てる思いもあった。友達でしかない。親友でしかない。幼馴染でしかない。竹馬の友だからって友をどうにかできるわけじゃない。救おうなんて、おこがましい。でも、一緒に沈んでいくこともできないなんて、私たちはどこまでいっても他人なんだと、彼女を見て、思う。

 どうせなら一緒に死んでくれ。どうせいつか死ぬなら、その時は私を誘って欲しい。それでも一秒だってミサキより長生きすれば、私は約束を果たして終わることができる。そのはずだ。そうあって欲しいと、願うしかない。考えることは鬱々とぬかるみを増して、下手に歩くと足元を掬われてしまいそうだった。

 悩むうちに、ミサキの誕生日を迎えた。彼女も二十歳になったから、一緒にコンビニに行って酒を買って、彼女の方は気になるからと煙草も買った。あまりゴツゴツしたやつじゃなくて、女の子っぽいフレーバー付きのやつ。

 可愛いものが似合う可愛さは、いつでも輝いていた。私はそんな彼女をいいな、と思って、これからもこの状態がだらだらと長く続けばいいと夢想する。理想の、妄想として。現実はいつだって、頭の中に追いついてはくれない。

 ビールとかカクテルの缶がテーブルの上に並んでいく。出前で注文した寿司をつつきながら、寿司に甘い酒は合わないなと笑った。

 ひととおり片付けたら、店で買った四号のチョコレートケーキを持ってきて、ろうそくを二十本無理やり突き刺していく。ずるりと沈む感触で、銀のアルミを立てていく。カラフルな塔は私とミサキで場所が違って、対称にはならなかった。つけるね、とライターで火を点して、電気を消した。

「何か願いごととかあるの?」

「えぇー、秘密」

 何となしに聞いてみたら、彼女がはにかむのが、二十の小さな火に淡く照らされた。

 なんだろう、と考えかけて、ミサキの「はい、歌うたお、歌」という言葉に遮られる。私は頷いて、二人で手を叩きながら声を上げる。

 ハッピバースデートゥーユー……ハッピバースデートゥーユー。

 ハッピバースデー、ディア、ミサキ。ハッピバースデートゥーユー。

「誕生日おめでとう」

「おめでとう、私」

 目を瞑って、数秒じっとしてから、勢いよく息を吹きかけた。

 唯一の光源が消えて、暗闇に包まれる。私は手探りで立ち上がって、どうにか電気をつけた。それから振り返って、思わず呟く。

「ミサキ……」

 ミサキが目の端に涙をためて、拭うでもなく煙の残滓を見つめていた。窓ガラスに映り込んだ横顔も、私の目に映る彼女も、呆然と中空を見つめて、その頬を雫が流れ落ちていった。

 歩み寄って、背後から腰に手を回して、彼女を抱きしめる。背中に頬を寄せて、静かに「大丈夫?」と口にする。大丈夫なわけないのに、私の言葉は幼くて、他に紡げるものもなかった。

「うん、ごめんね、なっちゃん」

 ミサキはそう言って、指先で涙を拭った。

「私が生まれた日なんだよね」

「うん。ミサキが生まれた日だよ」

「なんだかおかしいね、人生ってさ」

 彼女は笑って、前に回された私の手に触れる。親指でさすって、ポツリとこぼした。

「……私のお願いも、叶うかな」

「内容次第だよ」

「そうだよね、うん……じゃあ、たぶんきっと、叶う! 大丈夫!」

 ケーキ食べよう! と勢いよく叫ぶから、私は彼女から離れて、取り分けに移った。四号くらいであれば、二人でも食べきれる。頑張ったミサキが三分の二ほどを平らげて、私は残りを食べた。プレートの部分は、ミサキの提言によって半分にされて、それぞれの胃の中におさまることになった。

 満腹で一息ついていたら、彼女が無言でベランダを指差した。私はおおよそのことを察して、「いいよ」と首肯する。

 ぺりぺり、と外装を剥がす音がして、ビリッ、と紙を引きちぎる音がした。彼女が試行錯誤しながら、ミチミチに詰まった煙草を取り出して口に咥えるのを見届けて、私はライターで火をつける。

「吸ってみて」

 彼女は想像以上にスムーズに、煙を吸って吐き出した。初めは大抵うまくいかないものだと思っていたけど、もしかしてそれは私だけだったのではないかと不安になる。

「なんか上手だね。初めてなのに、むせないし」

「ずっとなっちゃんのこと見てたから」

 ふふん、と得意げに言って、少しずつ灰を増やしていく。私は妙に照れくさくなって、それを誤魔化そうと煙草を口にした。

 不思議な感覚だった。ずっと一人でやってきたことに、そこから一番遠いと思っていたミサキが関わってくるのが、時間の流れを嫌でも感じさせた。成長して歳を重ねて、やがて終わるその道程に私たちはいる。自分がいったいどの地点にいるのかも、わからないまま。

 口から吐いた二つの煙が、柔らかな軌跡を描いて宙を舞う。粒子はやがて混じり合い、境界も曖昧になって、薄く広く拡散していく。

 のっぺりとした街の景色と向かい合って、ミサキは何を見ているのだろう。薄く赤らんだ顔で、手すりの上に腕と顎を乗せて、ぼんやりとしたその瞳で、何を考えているのだろう。

 せめて私がいるときは、安穏としていて欲しかった。もしも彼女の口先で揺れる白い線がそれを阻むというのなら、私が握り潰して捨ててしまえばいい。そんなものいらないよ、と言って、私もやめてしまえばいい。

「あ、終わっちゃった」

 ミサキがフィルターのちょっと手前くらいまで燃焼し尽くした煙草を指に挟んで、私を見る。「それは吸いすぎ」と言って、私は手持ちの携帯灰皿に吸い殻を入れさせた。

「特別なことしちゃったね」

「うん、そうだね」

 私も半分ほどでやめて、残りは捨てる。残留した紫煙のヴェールを払って、待っていたミサキに、中に入ろうと促した。

 時刻はとうに十二時を回って、私たちは真っ暗な部屋でベッドに背を預けている。映画を見るときの、いつもの姿勢だった。テレビの画面では少女が買い物をしていて、その後に起こるであろう悲惨な出来事を思わせない。色彩の瞬きに、私たちも家具も、一様に照らされていた。

「なっちゃん。私はね、こう思うんだ」

 父、母、姉、弟。家族を殺されて、少女が泣いている。けれど、生き残りがバレると殺されてしまうから、必死に唇を噛んで、堪えている。

「私の痛みは私のもので、私が苦しいのは私のせい。そういうシンプルな世界観が一番気楽でさ。きっとそうした方が、生きてる間のどうしようもなさも、少しはマシに思えるんだ、って」

 私はミサキに目を向ける。彼女は私を視界に捉えることなく、画面の中の物語を見つめている。

 そしてそのまま、言葉を続けた。

「こだわって、しがみつこうとすればするほど報われないんだってわかってる。でもね、どうにもできないんだ。化け物が私のことを叩いて言うの。確かめなきゃ、保証してもらわなきゃ、って。そうじゃないと、信じられないの。約束、って偽って人のことを試して、そうしてないと、不安でたまらないの」

 嵐が去った後、無造作に転がされた家族の死体を見て、少女が泣いている。どうして? どうして? と繰り返し呟きながら、嗚咽を漏らして、蹲っている。

「私ね、自分が嫌い。でもね、もしこうだったら、自分のことが少なくとも嫌いじゃなくなるかなっていうのは、あるんだ」

 ミサキと目が合った。そこにはあの、かつてのような真剣さはない。ただ穏やかに、凪いだ心の内を映すのみだった。

「次は、なっちゃんから生まれたいな」

 彼女は強引に私の小指を絡めとると、一息に、

「はい、指切りげんまん。約束だよ」

 寂しそうに、微笑んだ。

 小指は、そのまま放さなかった。

 映画が希望に向かって終わっても、隣り合って眠る時も。ずっと、ずっと。


 そのまま蕩けて癒着してしまえばよかった。

 少しだって、私を連れて行ってくれる可能性を期待するべきじゃなかった。

 ミサキは死んだ。自らで、その命を絶つことによって。


 そして、約束だけが残される。


 *     *


 母親から届いたメッセージで、私は放心して、それから大学の講義を飛び出した。

 頭の中は真っ白なのかぐちゃぐちゃなのかも見当がつかなかった。早鐘を打つ鼓動に息が上がって、走るのにも酸素不足に陥って、なにもかもが、ままならない。

 電話は通じない。メッセージにも既読はつかない。まさかそんな、と期待したい心を、冷徹な現実の確度が圧し潰していく。すべてが焦ったくて、すべてが邪魔だった。そこをどけよ、と誰も悪くないのに、苛立ちが募る。じっとしていられない。電車の中でも、足踏みが止まらなかった。

 家で母から話を聞いた。彼女の家からも離れた岬の下で冷たくなっているのが、今朝見つかった。自殺だ、と。

 どんな思いでそれを受け止めればいいのかわからなかった。ミサキが死んだ? ミサキが……。

 私の世界。私の日々。そういうものを構成していた一番大切なピースが急になくなって、私は首を傾げて崩れていくのを見つめるしかなかった。自分の足元、視界がぐらりと揺らいで、私は自室の壁に寄り掛かる。

 頭の奥は重いのに、心臓は血の巡りを止めて、冷たく軽くなっていくようだった。息をするたびに呻きが漏れて、鼻の奥の痺れとともに、嗚咽に変わる。どうして? どうして? 何度問いかけても答えなんてわからない。理由はどこにあった? 理由はどこにでもあったのだ。そのことごとくが、寄ってたかってミサキを覆い、彼女自身が彼女を殺す。何が決定的で、何がなければミサキはこうならずに済んだ? そんなのわかるわけがない! 私なんかにどうにかできるなら、もっと他にも救いようはあっただろうに! どうにもならなかった。どうしようもなかった……。

 大学には戻らなかった。その日は、部屋が茜色に染まっても、暗くなっても、私は泣きながらじっと考えていた。

 うんざりするほどの後悔と、頼りにならない思い出と、現実味を失った鞍月未崎の姿のことを。

 彼女と交わした、約束のことを。

 螺旋に繋いだ、指の温もりを。


 私はその日のうちに、酒も煙草も、ぜんぶを捨てた。

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【未完】螺旋 伊島糸雨 @shiu_itoh

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