もうひとつのプロローグ:現代 日本・神戸
***もうひとつのプロローグ:現代 日本・神戸
シャッター通りと化して久しい商店街を織田亜希はひとり歩いていた。くすんだアーケードから漏れる気怠い光に春の陽気が感じられる。春とはこうも憂鬱だっただろうか。
気まぐれに誰も客がいない和菓子店で桜餅を二つ買う。一つは同居の母親の分だ。公園のベンチに座って一人で食べたらいいのに、と亜希は苦笑する。
新卒で営業としてシステム会社に入社、三年間外回りを必死にこなした。文学部を卒業したのに中小企業の営業か、公務員の方がましだと母親には未だに揶揄される。
働き盛りの夫を膵がんで亡くした母は、女手ひとつで亜希を育ててくれた。それまで専業主婦だった母が社会に出ることは並大抵の苦労では無かったに違いない。しかし、潜在的にあった依存体質がさらに助長され、亜希は母に縛られるようになっていく。病気がちで病院事務の仕事を休むことも多く、金銭面の依存も始まった。
そのうち顕在化する介護問題が否応なしに脳裏を過ぎった。いずれ独立できるよう手に職をつける必要性を感じ、プログラマに転向して四年、それからシステムエンジニアとして一年経験を積み、大きなプロジェクトに関われる予定だった。
その矢先、一番の取引先が不況で倒産した。その煽りを受けて会社は人員整理や休職といった手立てを取るしかなかった。
現在、亜希は休職中だ。今日は今後の見通しを聞くために会社に顔を出した帰りだった。あと一月休んでもらえないか、ということだった。その間給料は六割程度保証されている。金銭面もそうだが、母親の聞くに堪えない皮肉や愚痴に精神を削られていた。
小さなアンティークショップの前で立ち止まる。中央アジアの色鮮やかなアクセサリーや小さな銀細工の動物が並んでいる。ショーウインドウの向こうにはモザイク文様の美しいトルコランプが天井からいくつもぶら下がっていた。
亜希はノスタルジックなランプの灯りに惹かれるように店内へ足を踏み入れた。アンティーク家具が所狭しと並び、花を象ったガラス製の置物やレトロな万年筆、仕掛けオルゴールなどが雑多にディスプレイされている。非日常な空間に亜希は思わず心躍った。
ふと、本棚に立てかけてある一冊の本に目を留める。
「手に取っても大丈夫やで」
不意に声をかけられた。金縁めがねをかけた小柄なじいさんが店の奥から顔を出した。ここの主人だろう。
「ありがとうございます」
ただの冷やかしのつもりだったのに、声をかけられてしまった。亜希は愛想笑いを浮かべながら本を手に取った。意外にズシリと重い。年季の入った革張りの表紙の中央には、浮かし彫りで西洋の龍がデザインされている。
ページを捲ると独特の紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。カリグラフィ文字はアルファベットに違いないが、英語とは違うようで亜希には読めない。内容は版画絵と文字で構成されている。まるで教会に納められた古い聖書のようだ。
無用の長物と分かっているが、不思議と惹かれるものがあった。
しかし、こんな立派な本の値段はいくらだろう。
「千円でいいよ」
亜希の心を見透かしたようなタイミングだ。
「えっ、なんだかすごく古いし、貴重そうな本ですけど」
亜希は驚いて聞き返す。
「ウチはもう来月閉店なんだよ、欲しい人の手に渡った方がいい」
それなら、と千円を払って龍の紋章の本を手に入れた。買い物をするつもりは無かったけれど、これもご縁なのだろう。亜希は本を小脇に抱えて家路についた。
「そうなの、他を探した方がいいんじゃない」
その夜、亜希は母に休職期間が延長されたことを話した。母は金銭面の不安から簡単に言うが、せっかく積み上げてきたキャリアを棒に振る真似はしたくない。システム関連はスキルがあれば条件の良い他社に横出世が通例だが、亜希にはまだ経験が不十分だ。中途半端なスキルではプログラマのままこき使われるのが関の山だ。
だから公務員になれば良かった、と愚痴る母に亜希は母さんの言う通りだったわ、と心にもない相づちを打つ。
亜希は憂鬱な気分のままシャワーを浴びた後、自室に引っ込んでテレビのBSチャンネルをつけた。日本の騒がしいバラエティより、海外の風景をただ流すだけの番組が好きだった。
画面に映る印象的な風景に、アンティークショップで買った本を適当にめくっていた亜希は手を止めた。紹介されているのは、修道院の壁画だ。青を基調にした絵で、モチーフは天国へ続く階段。その雰囲気が龍の紋章の本の挿絵にそっくりだったのだ。どこの修道院なのだろう。俄然興味が沸いて、解説に耳を傾ける。
「ルーマニアなんだ」
どこにあるのかも知らない縁遠い国だ。テレビに映るのどかな自然の中に佇む修道院の風景を眺めるうちに、高揚感が湧き上がる。無意味だが、不思議な偶然だ。明日もっと調べてみよう。そう決めてふとんに潜り込んだ。
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