【1】 旅の支度
翌朝、亜希は母親の嫌みから逃れて、図書館にやってきた。ルーマニアに関する本はそう多くはなく、ガイドブックはかろうじて二種類。
ルーマニアは東ヨーロッパに位置する国で、ラテン語でローマ人の土地、という意味を持つ。公用語はルーマニア語。首都ブカレストがあるワラキア地方、カルパティア山脈に囲まれたトランシルヴァニア地方、そして北部のモルドヴァ地方の三つのエリアに分かれる。農業国で、手つかずの自然や中世の景観を残す町並みが見どころ。
テレビで観た修道院はモルドヴァ地方の「五つの修道院」と呼ばれる有名な観光地だと分かった。
「五つの修道院」は一五~一六世紀に建てられたモルドヴァ地方のヴォロネツ、モルドヴィツァ、フモール、アルボレ、スチェヴィツァの五つをさす。外壁に施された美しいフレスコ画が見どころで、それぞれの修道院で主に使われる色が異なる。龍の紋章の本にあった絵に雰囲気が似ていたのは「天国の梯子」だ。
ルーマニアに行ってみたい。ガイドブックをめくりながら、その思いが現実味を帯びてきた。アンティークショップで買った本、そしてたまたま見た番組。不思議な縁に呼ばれている、そんな気がした。何より、数日間でも母の側を離れる口実になる。海外旅行なんて金の無駄と目くじらを立てるに違いないが、これは小さな反抗だ。
海外旅行は大学時代に行った台湾、社員旅行でハワイ、どちらも団体パックツアーでお気楽な旅だった。海外旅行に行くための資金は貯金で何とかなりそうだった。休職中で時間はある。もし復帰したら保守やメンテで呼び出しがある。まとまった時間はなかなか取れないだろう。
これはチャンスかもしれない。英語は苦手だ。しかし、どちらにせよ現地はルーマニア語、語学力は気にしないでおこう、と腹を括った。
図書館からの帰り道、大手旅行会社の店舗を見つけた。ルーマニアに行くにはまずここだ。亜希は意気揚々と自動ドアをくぐり、番号札を取った。
平日の昼間で顧客は暇を持て余したマダムが多い。横のカウンターでは欧州一周旅行や豪華客船の旅と景気の良い話が繰り広げられており、気が引けてしまう。
「ルーマニア、ですね。こちらのようなツアーがあります」
男性アドバイザーが怪訝な顔を押し隠し、パンフレットを持ってきた。
「へえ、ツアーがあるんですね」
「そうですね、ブルガリアも訪問するんですよ」
ルーマニアだけでは集客できないという。やはりマイナーなのか。早くも出鼻をくじかれた気分だ。
ツアーはブルガリア三日、ルーマニア三日の行程で、一人参加なら三八万円。思ったより高く、悩ましい。
「時期は、五月ですか」
「五月はブルガリアのバラ祭りが有名なんですよ」
ここでブルガリアを売り込まれても、と亜希は眉根をしかめる。しかも五月、さすがにその時期には復職が、もしかしたら退職が決まっているかもしれない。
「個人ツアーはできますか」
その質問にアドバイザーはせせら笑う。割高なこと、海外の危険性についてあれこれ説明が始まる。これは団体ツアーにしておけという説得なのだろう。女性の一人旅はおススメしませんという結論だ。亜希はパンフレットだけもらい、がっかりしながら店を出た。貧乏人の個人ツアーは儲けにならないのだろう。
店を出て何度ため息をついただろう。まさかこんな序盤で躓くとは。シャッター通りの商店街は一層くすんで見えた。気が付くと、見慣れない路地を歩いていた。そのまま進めば駅にたどり着け宇rだろう。
アジア雑貨店、シニア向けの洋服店、インドカレー屋の前を通り過ぎる。ふと、気になる看板が目に飛び込んできた。“東欧専門 イーストトラベル”とイタリック文字で書いてある。
「東欧専門」
亜希は立ち止まり、復唱する。赤煉瓦の古い喫茶店を改装したつくりで、木枠のガラス窓の向こうに薄暗い店内が見える。
亜希はドアを開けて店内を覗き込んだ。ドアにぶら下がる呼び鈴がチリンと鳴った。すると、テーブル席でパソコン操作をしていた女性が顔を上げた。
「いらっしゃい、どうぞ入って」
眼鏡をかけたベリーショートの女性が笑顔で手招きする。客は亜希以外誰もいない。勧められて着席した。年季が入っているが、ベロアのクッションの良い椅子だった。壁にしみ込んだタバコの匂いは昔、父に連れられていった喫茶店を思い出す。
「飲み物を入れますね」
彼女は相当暇を持て余していたのだろう、嬉しそうにティファールでお湯を沸かし始めた。年齢は四十台後半、人懐こい雰囲気の女性だ。コーヒーカップと共に名刺を出された名刺には、イーストトラベル代表 河合真知子と書いてある。個人経営の旅行社だ。
湯気が立ち上るコーヒーを飲みながら周囲を見渡せば、ヨーロッパの荘厳な教会や美しい城のポスターが壁一面に貼ってある。本棚にも東欧専門の名に恥じない、観光ガイドブックはもとより写真集や文化、宗教、歴史書などがずらりと並んでいた。
「ルーマニアに興味があって」
「そう。うちの専門はハンガリーなのよ、でも東欧のコネクションはあるからご案内できるわ」
亜希の希望を河合は真っ向から受け止めてくれた。聞けば、パートナーはハンガリー人で現地で旅行社を展開しており、近隣の同業者にも連絡できるということだった。
「もちろん、個人ツアーはうちにおまかせよ」
良かった、大手では煙たがられたが、ニッチな需要を受け止めてくれるところもあるのだ。
亜希は「五つの修道院」をメインに中五日程度で訪問できる観光地を相談すると、専用車での周遊を提案された。日本語ガイドを依頼するならドライバーとは別料金。ガイドやドライバーの経費は自分持ちなので、さすがに二人も連れてはいけない。それならドライバーのみ、簡単な英語で会話はできるという。
飛行機で首都ブカレストへ飛んで車で北上するルートで、美しいお城や修道院のある避暑地シナイア、ドラキュラ城として有名なブラン城、ブラショフ、中世の街並みが残るシギショアラ、山を越えて五つの修道院、それからまたブカレストに引き返すというコースが一般的とのことだった。お城や街も興味があるし、修道院の観光はまる一日かけて行うというのが気に入った。
関西国際空港から乗り継ぎはあるが、飛行機でブカレストへアクセスできるという。
「旅程ができたらすぐにメールをしますね」
あとは見積もりだった。団体ツアーで三八万、それ以下なら検討の余地はある。話した感じ、河合の人柄も信頼できそうだ。
お礼を言ってイーストトラベルを出た。もう一度看板を見上げてみる。この路地に迷い込まなければ出会えなかった旅行社だ。なんだかルーマニアへの道が繋がっていく。
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