【2】 ドラキュラ伝説
夕食を囲みながら、亜希はルーマニアへ旅行することを母に告げた。予想通り、大金をかけて海外旅行なんてくだらない、ドブに捨てるようなものだ、とあらん限りの愚痴をつらつらと並べ立てる。「行くだけ無駄よ、やめておきなさい」
母はいつもこうだ。亜希の希望が自分の意にそぐわなければ断固反対する。就職活動の時には思い切って母の意見に逆らい、地場のシステム会社に入った。その当時も愚痴や嫌みの応酬に辟易したが、未だに蒸し返すのだから大した執念だ。
「どうしても行きたいの」
亜希の真剣な顔に、母は一瞬口を噤んだ。その先は堰を切ったように誰に育ててもらったのだ、恩知らずと非難がエスカレートしていく。ここで母の言いなりにはなっては、不思議な縁が途切れてしまう気がした。そして一生母の呪縛から逃れることができない。亜希はどうあっても行く、と心に決めた。
決意を固くしたものの、亜希は暗い気持ちで自室に籠もる。気晴らしに図書館で借りたガイドブックを読み始めた。
「食べ物は日本人の口にあう、か」
ルーマニア料理の紹介に亜希はほくそ笑む。旅に食の占めるウエイトは大きい。これまでの団体ツアーでは、食事で感動した記憶がない。団体で訪れた客に同時に食事を出すことを最優先に求められているのだから、相応なメニューになりがちなのだ。
そして、“ドラキュラ”というキーワードが目を引いた。
ドラキュラと言えば吸血鬼の代名詞。もはや吸血鬼そのものを指す単語という印象がある。ルーマニアではドラキュラ城が観光名所だと知ったときは、国をあげてお化け屋敷を経営しているのかと思っていた。
だが、ドラキュラは吸血鬼ではなく、実在の歴史人物だ。旅立つ前に勉強しておこうと、ドラキュラについての伝記を借りておいた。
ドラキュラ公、本名はヴラド・ドラキュラ。ヴラド・ツェペシュの異名をとる。ツェペシュは「串刺し公」の意味だ。この恐ろしい処刑法を特に好んだことに由来する。トランシルヴァニア地方のシギショアラという街で、ヴラド・ドラクルの子として一四三一年に生まれる。祖父ミルチャ老公より歴代ワラキア公を務めた家系であった。
当時、ヨーロッパ世界は大国オスマン・トルコの脅威に直面していた。また、国内情勢も不安定で、ヴラドは三度に渡り公位についているのがそれを表わしている。
また、ヴラドは君主の権限強化に努め、国内の経済発展のために多くの施策を行った。その反面、地主貴族と対立し厳しい手段を取るとこもあった。
ヴラドは三度目の治世に現在の首都ブカレスト近郊で敵刃に倒れた。トルコについた実弟ラドゥの陰謀による証拠が残されている。その後、ヴラドの首級はスルタンのいるコンスタンティノープルへ送られ、朽ち果てるまで城門にかけられたと伝えられている。
亜希はヴラド・ドラキュラの苛烈な物語に引きこまれた。気が付けば夜中二時を回っていた。読書の共に淹れた紅茶はすでに冷え切っていた。
吸血鬼として名前を知っていた人物がまさかルーマニアの小国の君主だったとは。その数奇に満ちた人生は有名な吸血鬼小説よりもドラマチックだ。
小説「吸血鬼ドラキュラ」はイギリスの作家ブラム・ストーカーが一八九七年に書いた怪奇小説だ。当時、移民問題に悩まされるイギリスの人々の不安と、得体の知れぬ侵入者である吸血鬼ドラキュラの恐怖が時勢とリンクして人気を博し、ドラキュラは今もなお有名なモンスターの一人である。
ストーカーはその恐ろしい吸血鬼の名前を一五世紀のワラキアの君主から拝借した。どこか不気味な印象を与える響き、人々を震え上がらせた串刺し公の恐怖伝説が自身の考えたモンスターにぴったりだと考えたのだ。皮肉にも、ルーマニアの小国ワラキアの君主の名前は、吸血鬼として世に広まってしまったのだ。
亜希は眠る気になれずにパソコンを開いた。一通の電子メールが届いている。イーストトラベルの河合からだった。
「仕事が早い」
弾む気持ちでメールの添付ファイルを開くと、希望通りの旅程が組まれていた。ガイドブック片手にそれぞれの観光地を見比べていく。ブラン城とシギショアラ、この二カ所がドラキュラ公に関連する場所だ。伝記によれば、ブラン城はドラキュラ城として有名であり、シギショアラはドラキュラ公の生まれた街だ。
他にホテルや航空券も手配できることが記載してある。亜希は早速返信をしたためた。
ふとした思いつきが具体的になっていく。亜希は嬉しくなり、ベッドサイドに置いた龍の紋章の本に手を伸ばす。
「あっ」
手の平に鋭い痛みを感じ、亜希は思わず本を手放す。恐る恐る手を見ると、本の角を覆う金属で切ったようだ。慌ててハンカチで手を押さえるが、流れ出す血は足元に落ちた本の開いたページにポタポタと滴り落ちた。
亜希は慌ててバスルームに駆け込み、手の平を洗い流す。派手に切ったようだが、血は止まったようだ。本を汚してしまったことが気になって、部屋に戻る。
床の上の本が紅い光を帯びているように見えて、亜希は何度も瞬きをして目をこする。もう一度近付いてみたときには、光は消えたようだった。不思議なことに、ページに血痕は無い。別のページを捲ってみるが、やはり血で汚れたページは無かった。
「気のせいだったのかな」
亜希は首を傾げる。手の平には焼けるような痛みが残っていた。
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