ワラキアー眠れる龍の遺産ー

神崎あきら

プロローグ:1476年 ワラキア郊外

 ***プロローグ:1476年 ワラキア郊外


 巨大な嵐が近づいていた。

 空を仰げば鉛のような黒雲が立ちこめ、遠く雷鳴が轟いている。時折走る稲妻が雲の影を鮮明に描き出し、それは悪魔を思わせた。天を突く糸杉の木立が気まぐれな風に煽られて、虜囚の嘆きのような音を立てた。陽光はこの地上に届かない。


 湿った風が敵兵の血に濡れる頬を撫でた。ヴラドは足元に転がるトルコ兵の骸を冷酷な深緑の双眸で見やる。周辺にはワラキアの忠臣たちの骸も折り重なっている。

 ここで切り伏せたのは十人、いや一二人か。仲間は四人失った。ヴラドは胸の前で十時を切り、仲間のために祈った。トルコの軽騎兵の整然とした足音が近づいてきた。ヴラドは父より譲り受けた龍の紋章を刻印した剣を握りしめ、たった一人森を駆ける。


 森が開けた。目の前に待ち受けるのはトルコの小隊だ。ヴラドは包囲されていた。

「ヴラド・ツェペシュ、観念せい」

 豊かな白髭を蓄えた老将軍が剣を突き出す。ヴラドはそれでも構えを解かない。

「兄上、もう終わりです」

 白銀に緻密な金細工を施した甲冑を身に纏う男が目の前に立った。およそ実戦向けではない、まるで調度品のような優美かつ繊細な意匠だ。背後で指揮を執る高位の将軍か、鎧は全く汚れを帯びておらず、顔が映るほどに磨き上げられていた。兜を取った男の顔に、ヴラドは射貫くような視線を向ける。


「貴様、裏切り者が」

「ワラキアの民はオスマン帝国に服従し、平和が訪れるのを望んでいる。それを無駄な抵抗により戦を引き延ばしているのは愚かな兄上なのですよ」

 色白の肌に金色に光る艶やかな巻き毛。息を飲むほど端正な顔立ちをしているが、美しい深緑の瞳を細め、口元には残忍な笑みを浮かべている。


「服従の果ての平和など、偽りでしかない」

 ヴラドの喉元には無数の剣が突きつけられている。しかし、怖じ気づく様子は無く、毅然とした態度を崩さない。

「あなたは裏切られた。ワラキアの貴族たちにね。そして民の信頼も得ることはできなかった。愚かな君主として、後生に語り継がれるがいい」

「ラドゥ、貴様はこのワラキアを売り、お前自身の魂をも売ったのだ」

 ヴラドは剣をラドゥの胸元に突きつける。ラドゥと呼ばれた白銀の鎧の男は笑みを浮かべたまま動じない。


「さようなら、愚かな兄上」

 賛美歌のような美しい声を合図に、トルコ兵たちが一斉に婉曲した軍刀を振り上げる。ヴラドは俊敏な動きでそれをすり抜け、壮年の兵を切り伏せた。返す刀で横にいた巨漢の首を削ぐ。龍の紋章を彫刻した黒鉄の鎧が血飛沫を浴び、紅く染まる。


 突如、ヴラドは脇腹に鈍い衝撃と灼熱を感じた。左背後から伸びた長槍が腹に突き立てられていた。槍は包囲するトルコ兵たちの隙間を縫って、一本、また一本と飛び出し、ヴラドの体幹を貫いてゆく。ヴラドは臓腑を抉られ、焼け付くような激痛に顔を歪める。


 軍刀を持ったトルコ兵が力を失ったと見えたヴラド目がけて剣を振りかぶった。ヴラドは瞬間、顔を上げトルコ兵を袈裟懸けに切り伏せた。戦神のごとき気魄に兵達は恐れ戦き後退る。


 足下に腹から流れる血だまりが広がっていく。次第に体温が失われてゆくのが明瞭に感じられた。体幹を貫いた三本の槍が一気に引き抜かれ、ヴラドは支えを失い大地に倒れた。


「最期までしぶとい男だ。安心してください、兄上。その首はスルタンメフメトの元へ届けてあげますよ、ああ、もう聞こえていませんね」

 ヴラドの返り血が頬を濡らしているのに気がつき、ラドゥは蝶の刺繍の施された絹のハンカチでそれを拭い、忌まわしいものを扱うように投げ捨てた。ヴラドの血は大地を染め、深紅のビロードの絨毯のようだ。


 ―誇り高き英雄よ、その贄を受け取った お前に力を与えよう


 その荘厳な声は天からか、大地からか、命の灯火を消そうとするヴラドの脳裏に響いた。遠い昔に聞いた父の昔話が蘇る。ワラキアには古くからこの地を守る龍がいる。祖国が危機に瀕したとき、その力を受け継ぐ者が国を守ることができる。そんなのは嘘、と隣にいた小さなラドゥは言った。ヴラドも笑っていた。

 意識が大地と同化していく。すべてが紅い闇に包まれた。


 ヴラドの亡骸を前にしたトルコ兵たちが動揺し始めた。母国語で神に祈り始める。靴先にヴラドの体から流れ出す鮮血が思念を持っているかのように迫る。ラドゥは戦き、思わず後退する。体幹を串刺しにされ、血は流し尽くした。こんなにも身体に血が残っているはずがない。


「血すらもその執念を貫くか」

 ラドゥは吐き捨てるように漏らす。

「ラドゥ様、何か妙です」

 ヴラドの流す血は大地に広がり続け、徐々に意味のある形を成してゆく。それを見た騎馬兵の目に戦慄の色が浮かんだ。


「悪魔だ、悪魔の龍だ」

 ヴラドの血は翼を広げた巨大な龍の姿を成した。兵たちは恐怖に怯え、錯乱し始めた。

 騒乱のさなか、天を揺るがす轟音が響き渡った。次の瞬間、稲妻が大地を貫く。ヴラドの血より出現した深紅の龍が鋭い矢のように暗雲を突き、天に昇った。

 トルコ兵たちの恐怖は頂点に達した。突如、天より再び龍が現れ、凄まじい疾風が軍を蹂躙した。兵は木の葉のように鎧ごと切り裂かれ、血煙が舞う。絶え間ない絶叫が夕闇の森に響き渡った。


 龍が去り、分厚い雲間から光が射す。血塗られた大地には無数の無残な屍が転がるのみ。


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