エピローグ 大いなる龍の遺産
エリックに亜希、シュテファンはへとへとに疲れ切って、墓所の遺跡の礎に座って日が昇るのをただ見つめていた。透明な満月が西へ傾いてゆき、雲を照らしながら朝日が昇る。ドラキュラ公の守ろうとしたワラキアの緑の大地に輝く光が射してくる。
「きれいね」
亜希が誰に言うともなく呟いた。シュテファンも無言で頷く。
「そうだね」
エリックは眩しい光に目を細めた。
メフメトに揺り起こされた盗掘屋のイスマイルは何も覚えていなかった。なぜこんな場所にいるのかと驚いている。邪悪で哀れな魂は去った。
メフメトは困惑するイスマイルと白装束の男たちを連れてトルコへ帰っていった。長い夢を見ていたようだ、というメフメトの言葉が印象的だった。ヴラドの棺は元の場所に安置して、土をかぶせた。通りに戻ると、エリザベスが車の前で待っていた。
「龍の封印の行方、確かに見届けたわ」
三人をブカレストのホテルへ送ったあと、彼女はそれだけ言って去っていった。
ホテルで昼まで休んで、エリックは行きたい場所があると亜希とシュテファンを連れ出した。旧市街の王城跡だ。警備の男に小銭を握らせて中へ入った。古の王城の地下へ降りていく。
「エリック、一体何があるの」
亜希とシュテファンが聞いてもエリックは教えてくれない。行き止まりの壁の前でエリックは立ち止まった。
エリックは修復工事の業者が置いていった仕事道具からハンマーを拝借し、突然壁を壊し始めた。亜希とシュテファンは慌ててエリックを止めようとしたが、穴が開いた石壁の奥を覗き込んで言葉を失った。
「彼が私に命と、この遺産を残してくれたのです」
石壁の奥にはいくつもの頑丈な箱が置かれていた。腐食した鍵を壊し、箱を開ければ古い金貨が出てきた。
「これは、本物」
「そうだね、ドラキュラ公の時代の純度の高い金貨だよ」
亜希はハッと思い出して、カーディガンのポケットを探った。ブカレストのホテルのベッドの下で拾ったコインを手の平に乗せる。それは箱の中いっぱいに詰め込まれた金貨と同じものだった。
「これは、メッセージだったんだ。ドラキュラ公がトルコへの支払いを拒否した一万ドゥカートの金貨だよ」
「彼は国を守るために支払いをするべきかどうか、最後まで悩んでいたのかもしれないね。しかし、トルコと戦うことを選び、国のためにこれを残したのでしょう」
他の箱にはたくさんの書が入っていた。古い言葉で書かれたその内容は一五世紀の政治、文化に関するもの、手記など多岐に渡っていた。
「すごい、これはすごい資料だよ。この国の中世の記録は多くが失われ、口伝によるものが多い。でも、ここには詳細な記録がある。これを読み解けば当時の文化が分かる」
エリックとシュテファンは。研究者としての血が騒ぐらしく、資料を手にして興奮を隠せない様子だ。
「ドラキュラ公は私に語りかけました。ここに宝物を隠したこと、そしてそれをこの国の助けに使って欲しいと」
「これは彼が集めた彼の生きた時代の資料なのね」
「そう、この手記は彼の日記だよ。ここに彼のサインがある。これでドラキュラ公の伝記がもっと詳しく書けるかもしれない」
串刺し公の異名をとり、暴君と恐れられる一方、愛する国を守るために戦い続けた英雄ヴラド・ドラキュラ。彼の苛烈な人生を辿る旅は終わりを告げた。彼の心の片鱗に触れ、真実を知ることができた。亜希はエリックを通して最後に見たドラキュラ公の矜持を秘めた深い深緑色の瞳を生涯忘れることはできないだろう。
亜希はスーツケースを持ってヘンリ・コリアンダ空港の出国ゲートに立っていた。
「楽しい旅だったわ、本当にありがとう」
見送りにやってきたエリックとシュテファンと握手を交わし、肩を抱き合った。
「こちらこそありがとう、寂しくなるよ」
エリックの言葉に亜希は思わず涙ぐんだ。寂しいのは亜希も同じだ。この冒険の旅で、二人が古くからの友人のように思えた。
「アキ、必ず日本に遊びに行くよ。そのときは肉じゃが食べたいな」
「もちろん、美味しい肉じゃがをごちそうするわ」
シュテファンは嬉しそうに頷いた。後ろ髪を引かれながら、亜希は何度も二人を振り返り手を振った。
スーツケースにはルーマニアのお土産に買った色違いのストールが入っている。淡いグリーンとピンクだ。母にはきっとグリーンが似合う。また余計なものを買ってきて、なんて文句を言うだろう。それでもいい。これをつけて、一緒に散歩にでかけよう。亜希の心はルーマニアの青空のように晴れやかだった。
日本に帰って、亜希はすぐにイーストトラベルの河合に、代理のガイドによくしてもらえたとお礼のメールを送った。時差ボケをしている暇もなく、勤務先から週明けからの復職の連絡があった。
その後、エリックからのメールで金貨は国庫に入るが、発見した書物は大学を通じて管理することになったそうだ。エリックはシュテファンと共同で資料を研究するという。一生かかっても読み尽くせないほどの量があると嬉しい悲鳴を上げていた。
研究で明らかになったドラキュラ公の時代の文化や歴史、彼の自伝を日本語で紹介しないかとエリックから提案があった。串刺し公と呼ばれた男、ヴラド・ツェペシュの真実か、面白いかもしれない。また必ず会おう、とエリックと約束した。
忙しい仕事の合間に、ルーマニア語の勉強を始めた。再びルーマニアを旅したいと思っている。彼の愛した美しい国を、今度は母を連れて。
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