【40】 龍の墓所
丘に近づけば、灯りが点っているのが見えた。それを頼りに畑の畝を進む。丘に登る階段はところどころ崩れ落ち、長い間だれもここに立ち入らなかったことがわかる。灯りの周囲にラドゥとメフメト、白装束の男たちが立っていた。エリックも一緒だ。黒い布で目隠しをされている。おそらく水晶はラドゥの手にあるだろう。
「エリック、大丈夫」
亜希とシュテファンの声に、エリックが顔を上げた。
「アキ、シュテファン、来てくれたんだね」
「謎は解いたよ」
エリックの顔は笑っているように見えた。
「よく来たね、迎えを寄越さなくて失礼」
ラドゥが柔らかな微笑みを浮かべる。思ってもいないことをよくも、と亜希とシュテファンは唇をへの字に曲げて顔を見合わせた。
「最後の水晶を一緒に探そうではないか」
メフメトが手を広げ、尊大な態度で出迎える。
「エリックの顔を見せて」
シュテファンは強い口調で叫ぶ。ラドゥは白装束の男に指示を出した。男はエリックの目隠しを外した。疲れ切った顔だが、エリックは無事だった。
「無事で良かった」
「ありがとう、私のためにすまない」
エリックは申し訳なさそうに頭を下げる。
「ここは一体何なの」
周囲を見渡せば、土に埋もれた石が点在している。よく見れば、建物の土台の跡のようだ。崩壊してかなりの時間が経過したのだろう、石は苔むし、風化しかけていた。
「ここは修道院の跡地ですね、いや修道院というか墓所なのかもしれない」
エリックの指さす土台の跡を辿れば、十字架の形をした建物の基礎だということが分かる。
「もしかして、ここに眠るのは」
「さあ、最後の水晶はどこにある」
ラドゥの声にエリックは振り返る。シュテファンから片目のレンズを受け取り、月の光に掲げた。見上げれば頭上には満月が輝いている。月の光を集めたレンズが像を結ぶ。
「これは・・・剣か」
墓所の遺跡の中心部に剣が浮かび上がった。それは龍の紋章がついた鋭い輝きを放つ剣だった。剣は宙に浮き、その切っ先は地面を示している。
「あの下だな」
メフメトは白装束の男たちに地面を掘るよう命じた。用意周到なことにスコップを持参している。
男たちが五人がかりで土を掘り下げていく。三十分ほど根気よく掘り進めたとき、スコップの先端が何かに当たった。そこから慎重に手で土を払っていく。ラドゥが土埃に顔をしかめながら穴を覗き込む。
「これは、石碑か、いや石棺だ」
エリックに亜希、シュテファンも控えめに穴を覗き込んだ。土の中には白い大理石の石棺が埋葬されていた。白装束の男たちは石棺を掘り出していく。この作業はラドゥやメフメトがいて良かったかもしれない、不謹慎だが亜希はそう思ってしまった。こんな人手の必要な発掘作業を三人では何日がかりになっただろう。
石棺の土が払われた。そこに刻まれているのは龍の紋章、そして祈りの言葉だ。
「ワラキアの王ヴラド・ドラキュラ、龍の子にして力の守護者たるもの」
シュテファンが棺の文字を読み上げる。ラドゥは忌々しそうに唇を歪めて棺を見つめている。
重苦しい音を立てて棺の蓋が開く。そこには美しい赤色のビロードのマントの上に輝く一振りの剣が納めてあった。白装束の男の一人がそれを手に取り、メフメトの元に恭しく掲げた。刀身には祈りの言葉と、見事な細工の龍の紋章が刻まれている。メフメトはラドゥに剣を手渡した。
「兄ヴラドの剣だ。父から譲り受けたものに間違いない」
月明かりに輝く剣を眺めながらラドゥは無表情で呟く。白装束の男が棺の主を確かめようと赤いマントを捲り上げた。そこには金色のボタンをつけた黒色の貴族の服、そして黒い眼窩で虚空を見つめる頭蓋骨があった。
「これがドラキュラ公」
亜希はその骸に目を奪われた。一五世紀に生きた彼の人生を追い、ここで対面することができようとは。最後の夢に見た彼の姿が重なる。彼は人の尊厳にかけて龍の力を封印することを選んだのだ。全身に鳥肌が立ち、知らず涙が溢れた。
「首を落とされたのは、やっぱり偽りだったんだ」
シュテファンも呆然としている。彼の死は誰にも辱められる事は無かった。スナゴヴの修道士達の手によって、ここで龍と共に眠りについたのだ。
ラドゥが龍の紋章の剣に嵌め込まれていたピンク色の水晶を取り外した。
「これで五つの水晶が揃った」
月の光の下でラドゥが妖艶に微笑む。その顔は美しく、そしておぞましいものに見えた。白装束の男たちがこちらに剣を向ける。
「さて、これからどうする、謎は解けたのか」
亜希はバッグから龍の紋章のメダルを取りだした。これを渡してしまって良いのだろうか、亜希はメダルを握りしめる。
「さあ、それを渡しなさい。お嬢さん、彼の命と引き換えだ」
エリックの背には白装束の男がナイフを突きつけている。シュテファンは亜希の手からメダルを受け取り、ラドゥに手渡した。エリックは目を細めてそのメダルを見つめている。
「正しい行いだ」
ラドゥはメダルを受け取った。エリックを下がらせて、メダルを遺跡の土台の上に置いた。黒いサテンの巾着袋から水晶を取り出す。剣から外した水晶を合わせると、それは血のような深い赤色の光を放った。しなやかな細い指で水晶をひとつひとつメダルに嵌め込んでいく。最後の水晶が嵌め込まれると、龍の目が赤く光り始めた。
「お前に龍の力は渡せない」
突如、エリックが白装束の男の腕を振り切り、ラドゥに飛びかかった。ラドゥは目を見開き、手にした剣でエリックの身体を貫いた。
「エリック」
亜希とシュテファンが同時に絶叫する。ラドゥの持つ長剣はエリックの胸を深々と貫いていた。エリックの口から赤い血が流れる。ラドゥは凄絶な笑みを浮かべながら剣を一気に引き抜いた。エリックの胸から血が迸り、ラドゥの顔を濡らした。ラドゥはそれを不快そうに美しい刺繍の白い絹のハンカチで拭き取って投げ捨てた。
「愚かな男だ」
「何も殺すことはないだろう」
メフメトの言葉はそれが些末なことのような響きを帯びている。
「そんな、どうしようエリックが死んでしまう」
亜希とシュテファンはエリックの元に駆け寄る。エリックは胸から夥しい血を流しながら膝をついた。彼の身体を支えるシュテファンの手も鮮血に染まる。
「何も起きない、とんだガラクタだったのか」
ラドゥがメダルに目をやった。メダルにはエリックの身体から迸った血がべっとりとついていた。それを見てラドゥは顔をしかめる。
遠くで雷鳴が轟いた。天を見上げれば、あれほど星が瞬いていた夜空に厚い黒雲が渦巻き始める。雲は星を、月を飲み込んでいく。雲の中で稲妻の閃光が走る。
「“我に伝承者の血を捧げよ 古の龍は蘇る”」
シュテファンが空を見上げて呟く。亜希はハッとしてシュテファンの顔を見つめた。支えなしでは立っていられないほどの致命傷を受けたエリックがゆっくりと立ち上がった。そしてラドゥの方を見る。その瞳は血のような深い赤色。胸から流れる血は止まっていた。
「エリック、あなたは一体」
亜希は呆けた表情でエリックを見上げる。その顔は彼のものではなかった。豊かな巻き毛の黒髪に、口には厚い髭を生やし、赤いビロードのマントを羽織っている。毅然と立つ姿は夢で何度も見たヴラド・ドラキュラであった。シュテファンも言葉を失っている。
「久しいな、ラドゥ」
エリックのものではない、ヴラドの低い声。
「お久しぶりです、兄上」
ラドゥは不敵な笑みを浮かべる。
「まさかあなたが眠れる龍の正体とはね」
ラドゥは肩を震わせて笑う。
「お前は龍の力を手に入れてどうする」
「知れたこと、龍の力があれば世界中の人間を操ることができる。私は世界の王になれるのだ」
ラドゥは両手を広げて恍惚とした表情を浮かべる。歪んでいる、と亜希は思った。何故彼はこんなにも屈折してしまったのだろう。
「それが生ける屍の王だとしてもか」
「ええ、そうです。小国ワラキアの支配さえ満足に成しえなかった兄上より、私の方が優れていることを証明してあげましょう」
ラドゥは声を上げてひとしきり哄笑した。ヴラドはその様子をただ無言で見つめている。
「龍の力は私のものだ、ヴラド、もう一度眠りにつくがいい」
ラドゥは右手を挙げる。白装束の男たちがヴラドに斬りかかる。その数二十名あまり。亜希は呆然とするシュテファンの腕を掴み、白装束の男たちの間を縫って崩れた壁の後ろに隠れた。
ヴラドが腕を薙ぎ払う。男たちは目に見えぬ衝撃波に吹き飛ばされた。ラドゥが立ち尽くすメフメトのスーツの胸元から銃を奪い、ヴラドを狙う。
「ラドゥ、もう無理だ。こんな男を相手に戦って一体何ができる」
メフメトは叫ぶ。ラドゥはただヴラドを憎しみのこもった目で睨み付けている。引き金を引いた。二度、三度、乾いた破裂音が響く。しかし、銃弾はヴラドの身体に到達する前に溶けるように消え去った。
「俺が憎いのなら、お前自身の力で戦え」
ラドゥは目を血走らせて剣を構え、ヴラドに斬りかかった。ヴラドはそれを軽々と避ける。ラドゥは剣を振り上げた。しかし、兄の身体にかすることもできない。
ヴラドが剣を振り下ろした。切っ先がラドゥの頬を掠り、白い肌に赤い筋が流れる。ラドゥはその血を舐めとり、ヴラドに突進する。何度も、何度も。ヴラドはラドゥの剣を受け止める。激しい金属音が響き渡る。
「兄上が憎い。あなたはいつも遠くを見ていた。側にいる私など目にも入っていなかっただろう。トルコへ人質に取られたとき、私は怯えていたが兄上はそんな私を気にもかけなかった。戦で対峙したときも兄上の目に私は映っていなかった」
ラドゥは怒りに任せて剣を振り回す。その目には血の涙が流れていた。ラドゥの生ぬるい太刀筋は武人であるヴラドにはすでに読めていた。ヴラドは大きく剣を跳ね上げた。ラドゥの剣も宙を舞う。
「うわあああ」
ラドゥが雄叫びを上げ、がむしゃらにヴラドに立ち向かう。その非力な拳で何度も逞しい胸を打った。ヴラドは全く動じない。ラドゥの頬に鉄拳が飛ぶ。ラドゥの体は易々と吹っ飛んだ。ラドゥは兄ヴラドの顔を見上げる。哀しみを宿した深い緑の双眸が自分を見下ろしていた。ラドゥは立ち上がる。唇の端が切れ、血が流れていた。よろめく足取りでヴラドに縋り付き、弱弱しい拳で胴を殴り続ける。
「強くなったな、ラドゥ」
ヴラドは泥だらけの弟の頭をかき抱いた。ラドゥはゆるゆると顔を上げる。そこには慈愛に満ちた兄の顔があった。
「兄上」
ラドゥは慟哭する。亜希とシュテファンはその壮絶な姿をただ無言で見守っている。
「お前の魂を天に返すのが俺の最後の仕事のようだ」
ラドゥは悔しさを滲ませ、兄の顔を見上げる。
「私なら、メフメトの力を利用して祖国を守ることができた。兄上よりも上手に貴族たちを懐柔させることもできた。兄上に私の力を見せつけたかった」
「お前はワラキアを売り、偽りの平和を築こうとした。しかし、それも民を安らぐ一つの方法だったかもしれぬな」
ヴラドは目を閉じる。ラドゥの兄への対抗心がワラキアをトルコの属国に貶めた。それは彼を蔑ろにした自分のせいでもあった。
「ああ、やっと私を見てくれたのですね、ヴラド」
ヴラドの目が赤く光った。ラドゥは身もだえる。
「哀れなラドゥよ、俺も後に行こう」
ラドゥは兄の姿を見つめ、一筋の涙を流した。その顔は微かな笑みを浮かべていたように思えた。そしてその姿は霧のように消えていった。蜷局を撒く黒雲の一点が穿たれ、天から一筋の光が射した。
「この国は平和か」
ヴラドが訊ねる。壁に隠れて一部始終を見ていたシュテファンと亜希はそろそろと立ち上がった。シュテファンは呼吸を整え、姿勢を正した。
「はい、平和です。貧困や疫病、自然災害、苦労はありますが、わが国はそれを乗り越えてゆく力があります」
ヴラドはその答えを聞いて、穏やかな笑みを浮かべた。
「龍の力はもう必要あるまい」
「はい」
ヴラドはシュテファンの頭を撫でた。骨ばった大きな温かい手だった。そして亜希の方を見て目を伏せて礼をした。亜希は思わずお辞儀をした。彼にお礼を言われたような気がした。
ヴラドの身体から赤い霧が立ち上る。それは翼を広げた龍の形を成し、月光の導く天へと昇ってゆく。その後を黒髪の少年と金色の巻き毛の少年が手を繋いで駆けてゆくのが見えた。天を見上げれば雲は風に流れ、見る間に星空が広がってゆく。
ヴラドの立っていた場所にエリックが佇んでいた。
「エリック」
シュテファンと亜希が怖々近寄る。振り向いたその顔は困惑の色が浮かんでいる。しかし、先ほどまで大量の出血で蒼白だった顔色は元に戻っていた。
「エリック、生きてるの」
「そうみたい」
「良かった」
亜希とシュテファンはエリックと抱き合って泣いた。東の空に光が差し始めていた。
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