【12】 シギショアラ 山上教会 地下墓地
蝋燭の明かりがかき消えるように、父子の光景が消えた。教会の祭壇の上に一冊の本が置かれていた。窓から差すのは冷たい月の光。革の表紙には見慣れた龍の紋章が刻まれていた。
亜希は教会に立っていた。アーチ状の高い天井、左右に並ぶ聖人の彫刻、壁を見れば鮮やかなフレスコ画が描かれている。見覚えがある、ここは昼間に訪れたシギショアラの山上教会だ。不思議なことに椅子も机も真新しい木の匂いがした。祭壇には木製の素朴な十字架が立つ。ここが建てられたばかりの風景を見ている、そう直感した。
亜希はフレスコ画の真下に立った。青い背景に天に浮かぶ白い月や星が瞬いている。地上には敵と戦う騎士、その下にアーチ状の煉瓦で形作られた穴が八つ並んで描かれていた。そのうちの一つが光りを放っている。これは一体何を意味するのか、もっと絵を眺めていたい。そう思ったが、フェードアウトするかのように周囲の景色がぼやけていく。それと共に、亜希の意識も薄れていった。
スマートフォンのアラーム音に亜希は飛び起きた。エリックとの約束の時間の三十分前に設定していたことを思い出す。五つ星だというホテルの部屋はアパートの部屋の広さに近いためか、落ち着いて過ごせる。スマートフォンの画面を見ると、母からラインが入っていた。
―元気なの、連絡くらい寄越しなさい。
相変わらずの調子だ。一応労いの言葉と受け取っておこう。そう言えば、ブラショフで届いたメッセージの返信をしていないことに気が付いた。
―食事も美味しいし、観光も楽しいよ。もしかしたら、日程が延びるかも。
当たり障りの無い返事をしておく。離れてみて、いつも自分を縛り付けていた小言なのに、何となく懐かしい気持ちを覚えた。母に対してセンチメンタルな気分になった自分にも驚いた。
ライトグレーのカットソーに青いロングカーディガン、ジーンズにスニーカー、バッグに龍の紋章の本を入れた。本はかさばるが、ラドゥや白装束が狙っているかもしれない、部屋に置きっぱなしにするのは憚られた。
ロビーに降りるとエリックはソファでくつろぎながらジプシーの子供と笑い合っている。亜希に気付き、立ち上がって手を振った。親しみ易い雰囲気の男性だ、と思う。彼の周囲にはいつも人がいる。そう言えば、彼はガイドではない。一体何者なのだろう。
「お腹は空いたかな。レストランまで歩いてすぐですよ」
レストランの裏口を出る。オープンテラスはランタンで幻想的にライトアップされ、多くの客で賑わっていた。
空き地を抜けてメイン通りに出た。ここは特に歴史地区だからということもあるが、ルーマニアの街はネオンが薄暗い。
街で一番大きいというスーパーも店内は薄暗く、営業しているのかどうか分かりにくい。その先にエリックのおすすめのレストランがあった。店内はダウンライトの瀟洒な雰囲気で、足下には赤色の絨毯が敷かれ、頭上には豪奢なシャンデリアが煌めいている。黒い艶のあるテーブルにはワイングラスとナプキンが準備されていた。高そうな雰囲気の店だ。貧乏性な亜希はたちまち萎縮する。
「心配をかけたお詫びです。ここは私がおごりますよ」
亜希の動揺が伝わったようだ。亜希は自分の分は支払う、と断ったがエリックは気にしないで、といって聞かない。それに、まだ心配は続いているんだけど、と思ったが口にするのは野暮なのでやめておいた。
「さあ、何でもいいですよ」
メニューには写真がない。さすが高級店だ。
「えっとシュリンプはえび、かな」
エビとポテトのグリル、チキンのシチュー煮込み、飲み物はレモネードを注文する。亜希はレモネードにハマっていることに気が付いた。
「また夢を見ました。ドラキュラ公の、おそらく子供の頃。この街に滞在していた彼は弟と一緒に父親の語る物語を聞いていました」
「弟はラドゥですね」
亜希は夢に見た愛らしい金色の巻毛の子が成長した姿を思い浮かべる。エニグマで会った謎の青年ラドゥとイメージが重なる。彼は一体何者なのだろうか。
「とても仲の良さそうな兄弟だった」
彼らが、いずれ殺し合いをするなんて。亜希は陰鬱な気持ちになる。
長身の店員が飲み物を運んできた。レモネードは透き通ったグラスに入っている。他のレストランで出てくる素朴な分厚い瓶グラスが好きだった亜希はやや拍子抜けした。エリックはソーダ水を手にして乾杯する。
「ワラキアの龍の伝説、知っていますか」
「ええ、私も父から聞きました。古い伝承です。昔からこの地に住む龍で、人間に力を与えたという」
ルーマニアに旅立つ前に見た夢を思い出す。赤い龍はトルコの大軍を瞬く間に滅ぼした。そのような力を悪意のある人間が手に入れたとしたら、考えるだに恐ろしい。二人の間にしばし沈黙が流れた。
テーブルに料理が並ぶ。エビとポテトのグリルは、むき身のエビにペースト状にしたポテトを巻き付けて焼き上げてある。皿の上にエビを立たせて、見栄えも楽しめるよう工夫してある。
「おしゃれだわ」
ダイナミックな盛り付けに亜希はしみじみ感心する。
チキンのシチュー煮込みはママリガがついていた。ほろほろに煮込んだ鳥肉のシチューにプレーンのママリガはよく合う。
料理の見栄えだけでなく、味も大満足の良店だった。客はまばらなのが意外だ。夜はわいわい騒げる店の方が人気なのだという。帰りに街のライトアップを見に行こうとエリックが提案してくれた。
店を出て賑やかなバーの脇の階段を上り、旧市街地を散策する。石畳の通路は両脇に立つ街灯の明かりに照らされて幻想的な風景だ。時計塔も控えめにライトアップされ、闇夜に佇む姿は昼間とは印象が全く違う。カップルやランニングをするおじさんと、一般人も散策を楽しんでいる。
仄かな灯りに照らされる市街地を見下ろす広場のベンチに並んで座った。とても静かな夜だ。都会のようにネオンが眩しくないので、月や星も輝いて見える。
「今日は特に月が明るい」
空を見上げるエリックの言葉に、亜希は夢の続きを思い出した。月の光に照らされた本の情景、教会の真新しいフレスコ画。
「教会に月の光が射して、この本を照らしていた」
亜希は龍の紋章の本をバッグから取り出した。月光の下で本を眺めると何か起きるのではないか。そう思いついて、高まる予感に震える手でページをめくる。
「アキ、これを」
エリックが目を見開く。興奮気味にページの一部を指さした。太陽と月が描かれた見開きページだ。
「えっ、何、何があるの」
「よく見て、数字が浮かび上がっている」
太陽と月のページにうっすらと四桁の数字が浮き出ていた。数字は一・四・三・一。亜希とエリックは顔を見合わせる。互いに沸き立つほど胸が躍っている。
「すごいよ、アキ。夢がヒントをくれましたね。これは長く所有していた父も知らなかったことだ」
「あのう、喜んでいるところ水を差すようだけど、この数字の意味は」
「それは、分からないね」
二人は落ち着きを取り戻し、ガックリと肩を落とした。
「あっ、そうだ教会の地下墓地」
亜希が立ち上がった。夢に見た壁のフレスコ画の煉瓦造りの穴は教会の地下墓地の棺を入れる穴に似てはいないか。今度は亜希が興奮気味にエリックにそれを説明した。
「面白いね、今から行ってみよう。そこにヒントがあるかもしれない」
オープンテラスの喧噪を後にして裏路地を通り抜け、逸る気持ちで山上教会への階段を上る。昼間と違い、薄暗い裸電球だけが頼りだ。息を切らして駆け上がり、月明かりに照らされる教会が見えた。
今は夜九時だ、周囲には誰も居ない。エリックは入り口の重厚な木製の観音開きの扉を押した。ガチャと音がする。当然だが、施錠されている。
「やっぱり、開いてない」
せっかく来たのに引き返すしかないのか、亜希は恨めしそうに教会の扉を見上げる。よし、とエリックは裏口へ回り込む。黒木の一枚扉だ。ここも施錠されている。
項垂れる亜希の目の前で、エリックは力任せに扉に突進する。南京錠が留め具ごとごろりと外れ、扉が開いた。
「これ後から謝らないと」
大人しそうに見えて、思いがけず強引なエリックに驚いた。唖然とする亜希に、エリックはにんまり微笑む。
「行きましょう」
器物損壊、不法侵入だが謎を解きたい気持ちが勝った。亜希は息を潜めて後に続く。月の光に照らされた祭壇は荘厳な雰囲気で、思わず胸が高鳴る。
地下墓地への入口は太い木のかんぬきがかけられている。エリックと協力してそれを外す。こんな大胆なことをするなんて、亜希は内心呆れた、しかしわくわくする。
地下への扉が開くと、昼間には感じなかった黴臭い匂いが鼻を突いた。奥の明かり取りの窓から弱々しい月光が差し込み、通路を仄かに照らしている。
「ここにスイッチがある」
エリックが扉の脇にあったボタンを押すと、バチッと音がして裸電球がついた。エリックは階段を降りてゆく。ここに遺体は無いと分かっていても、わざわざ夜にかつて墓地だった場所に行くのは気持ちの良いものではない。
「夢のお告げのヒントを探そう」
「穴が光っていたわ」
亜希とエリックは漆喰で封印された穴を注意深く調べて行く。しかし、どの穴も違いは見られない。
「全部壊してみようか」
「何言ってるの、無茶だわ」
亜希は深刻な顔のエリックを慌てて止める。本気でやりかねない。意外と大味なのはラテン系の血なのだろうか。
「これを見てください」
エリックが何かに気がついたらしく、煉瓦を指さした。
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