【13】 シギショアラ ホテル
亜希もスマートフォンの明かりに目を凝らして見れば、煉瓦に何か文字が刻まれている。四桁の数字だ。どれも一三か一四で始まるランダムに見える数字。
「これは年号だ」
「一四~一五世紀の人物の墓というわけね」
亜希は思わず鳥肌が立った。本の数字は何だったか。
「一四三一年、ドラキュラ公ヴラド・ツェペシュの生年だ」
「一四三一を探しましょう」
二人は壁の年号を探し始める。かすれて読めない数字もある。ちゃんと残っているだろうか、一瞬不安が過ぎる。残りの穴四つに差し掛かったとき。
「あった」
亜希は興奮に息を呑む。下段を調べていたエリックがすぐさま駆け寄る。数字を指でなぞりながら読み上げる。間違いなく一四三一だ。
「この穴だわ」
「さてここに何があるかな」
煉瓦の枠に囲まれた穴は漆喰で塞がれている。手で押してもびくともしない。エリックが地上へ戻り、金槌を背負って持ってきた。補修工事の作業員が置いて帰ったものだ。亜希は驚きのあまり目を見張るが、その行動力にはもはや頼もしさすら感じた。
「完全に泥棒だわ」
「気は進まないけどね、このまま帰ることはできると思う」
エリックはにっこり笑って亜希を共犯にしたてようとしている。亜希も今のエリックを止めるつもりはさらさら無かった。共犯上等だ。エリックは壁を金槌で叩く。地下に派手な破壊音が響き渡り、誰かかけつけやしないか亜希は肝を冷やす。
根気よく叩きつけるうちに、徐々にヒビが入り、一部が欠けてきた。そうなればあとは脆い。漆喰の封印は思ったぼどの厚みはなく、ガラガラと崩れ落ちた。中は空洞になっているのか、冷気が漂ってきた。
「何かある」
壁の中は棺を納める空間だ。奥に布に包まれた木箱が置いてあるのを見つけた。エリックが手を伸ばして木箱を取る。中から骸骨でも出てきやしないかと、亜希は緊張しながら見守っている。
古びた木箱は辞書くらいの大きさだ。エリックは蓋を開けようとするが、中で何かがひっかかっているのか全く開く気配がない。木箱を置いてハンマーを振り上げようとするので、亜希は慌ててエリックを止めた。
「すごいわ、エリック」
「アキの夢のおかげだよ」
二人が揚々と階段を上がろうとしたその時、正面から目が眩むほどの眩しい白色光に照らされた。警備員がやってきたのだろうか。これをどう説明しよう。
「やあ、アキ」
その甘ったるい声色は聞き覚えがある。ブラショフで出会った美青年、ラドゥだ。光に慣れてきた目で見上げればラドゥが小首を傾げて立っていた。その周囲には白装束の男達。ブラショフで彼らに亜希を襲わせたのはラドゥだったのだ。
ラドゥの傍らには褐色の肌の男が立っている。ラドゥより頭一つ背が高く、癖の強い黒髪、大ぶりな黒い瞳。口髭をきれいに整えた精悍な顔立ちの男で、四十代手前といった印象だ。
「また会ったね」
ラドゥの甘い微笑みに、亜希は白装束に襲われた恐怖が蘇ってくる。まさかエリックがここに呼び出したのでは、と思いエリックの顔をちらりと見やるが、彼は激しく首を振る。
「彼は、エリックといったか、私の仲間ではないですよ」
「お前がラドゥ」
エリックはラドゥを睨み付けた。二人は初対面のようだ。
「あなたのような田舎者がその本を手にする必要はない。こちらに渡しなさい」
ラドゥの声は優しいが、高圧的な響きを帯びている。
「私は先祖から代々受け継いだこの本を守る。お前こそ何故本を狙う」
「私は封じられた龍の力が欲しい。私にはそれを有効に使う知恵がある」
ラドゥは確固たる自信を持っていた。そして、今や本を狙う悪人がどちらなのか、亜希には明瞭に理解できる。
「龍の力はヴラドさえ恐れたものだ、この世のものではない」
「お前に何が分かる。私はあのとき見た。強大な深紅の龍の力を。愚かなヴラドのものは私が受け継ぐ権利がある」
彼の言葉に、亜希は夢に見た、森の奥で繰り広げられた戦を思い出す。彼も同じ風景を見たのだろうか。
「お前は一体」
呆然とするエリックの問いにラドゥはクスクスと笑う。
「私はラドゥの魂の記憶を引き継ぐ者。この身体は借り物だがね。こちらはメフメト。私のパートナーだよ。トルコを拠点にアジアとヨーロッパをまたにかけて実業家として活躍している。彼もまた魂の記憶を持つ者だ。この現世でも金と権力を持っている」
ラドゥはメフメトと呼んだ男の顔を艶めかしい表情で見上げる。メフメトは愛しげにラドゥの腰を抱いた。白装束たちはメフメトが金の力で手配した私兵なのだ。
「何これやばすぎるわ、どうしよう」
目の前で寸劇を見ているような気分だ。歴史上ラドゥはメフメトの小姓だった。二人はワラキア支配のために手を組んだ。ヴラドは共通の憎むべき敵だった。それが、今この世に蘇り龍の力を復活させようとしている。
「困りました、まさかここで襲撃を受けるなんて」
エリックも打つ手無しのようだ。人の良さがどこか呑気に見えて、亜希は思わず肘でエリックの腕を小突く。突如、教会の明かりが灯った。ラドゥは周囲を警戒する。
「おい、誰かいるのか」
男の声が響き渡る。ラドゥは小さく舌打ちをした。
「ここで面倒はよしましょう、また会いましょう、アキ」
ラドゥとメフメト、白装束の一団は裏口の扉から逃げ出したようだ。エリックは周囲を伺いながら階段を上がっていく。誰がやってきたのだろう、警官ならどう言い訳するのか。あまりの急展開に亜希は動揺を隠せない。
「エリック、危ないところだったね」
現れたのは薄茶色の髪の青年。亜希はあっと声を上げた。イスタンブール空港で話かけてきた男だ。
「シュテファン、助かったよ」
「あなたたち、知り合いなの」
「ああ、あなたがアキですね、こんばんは」
にっこり笑うシュテファンに、亜希は呆然としている。本物の警備員がやってくる前にここを離れた方がいい。三人でホテルへ戻った。
「今夜着いたんだ」
無人のロビーでソファに座った。もう深夜一時が近い。緊張が解けて一気に疲労感が押し寄せてきた。それはエリックも同じだった。
「ぼくはシュテファン。ルーマニア北部モルダヴィア地方の出身だよ」
シュテファンは人懐こい笑顔を浮かべる。亜希は愛想笑いでそれに答えた。今はそれが精一杯だ。
「彼はドラキュラ公と親交の深かったシュテファン大公の血筋なんだよ」
「まさか、あなたも前世の記憶があるなんて言わないでしょうね」
亜希はシュテファンに怪訝な顔を向ける。
「残念ながら。しかし、勇敢だったシュテファン大公の偉業を伝えるために大学で、歴史文化を学んでいるんだよね」
「あなたたちはどういう繋がりなの」
「私はブカレスト大学の講師、まだ非常勤でね、時々ガイドや雑貨の仕入れをして食いつないでいるんだ。彼とは講義で知り合ったんだよ」
エリックとシュテファンは頷き合う。
「龍の紋章の本を聞いて、偶然あなたを空港で見かけたときには驚いたよ」
あのときから奇妙な歯車は回り出していたのだ。
「エリックに連絡して、あなたは私の本当のガイドを騙して今ここにいるわけね」
本来のガイド、ミハイには金で話をつけたらしい。エリックの大胆さには驚かされる。
「言い方はトゲがあるけど、まあそういうことかな。どちらにつくか信じてくれたかな」
エリックの言葉に、亜希は大きな溜息で返事をした。
「さて、この箱だけど」
エリックが布に包まれた箱を取り出した。布を取り去ると、木彫りの箱で表面には素朴な彫刻が施してある。
「この絵、本にあった月の絵」
亜希がバッグから龍の紋章の本を取り出す。月のページを開くと、片側だけのレンズのメガネをかけた月の絵の彫刻が箱に施されていた。
「いいね、繋がってきた」
エリックは力強く頷く。
「ワクワクするね」
シュテファンが人なつこい笑顔を向ける。亜希はぎこちない笑顔で返す。今会ったばかりなのに、突然数年来の友人のように振る舞えない。
「でも開かないなこの箱」
エリックが箱をいろんな角度から触ってみるが、開きそうにない。振ればカタカタと音がする。何かが入っているのは確かだ。
「これ、からくり箱ですよ」
「ああ、なるほど」
シュテファンの言葉にエリックは何か気が付いたようだ。亜希は首を傾げる。
「からくり箱って」
「ルーマニアの民芸品で、木で作られた箱です。手順に従って操作しないと開かない仕組みになんだよ」
エリックは箱のパーツを一つ一つ丁寧に確認しはじめた。すると、一つの部品をずらすことができた。
「すごい」
亜希とシュテファンは息を呑んで見守る。箱の側面と思っていたところが動く。上部の蓋をずらし、全四工程で箱が開いた。
「すごいわ」
中からは真鍮の枠がついた片目のレンズが出てきた。分厚いレンズの作りは現在の技術ではないだろう、ずいぶん年代物だ。本の挿絵によると、月が片眼鏡をかけている。
「これは何を意味するのかな」
シュテファンがレンズを手に取ってあれこれ眺めているが、古くさいだけで何の変哲もないただのガラスレンズだ。
「ちょっと外へ行きませんか」
エリックが龍の紋章の本とレンズを持ってホテルの裏口に出た。無人のテラスのテーブルに本を置く。上空の月を見上げ、レンズを本に向けてかざした。印字が剥げたと思っていた白紙のページに文字が浮かび上がってきた。
「月の光で、文字が読める」
亜希は目を見開いた。鳥肌が立ち、心臓がドキドキしている。エリックも興奮を隠せないようだ。シュテファンも二人を見比べて大きな目をぱちぱちさせている。
「アキ、どうしますか」
亜希の中で答えはすでに決まっていた。
「このまま旅を続ける」
「歓迎します」
エリックは亜希に握手を求めた。シュテファンも仲間はずれになるまい、と便乗する。その手はとても温かかった。
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