幕間―ヴラドとラドゥ

 山間に赤い夕陽が溶けてゆく。ちぎれ雲が残照に燃え、紫色に染まる空には一番星が瞬き始めていた。シギショアラの街には、かまどから立ち上る煙が幾筋も空に向かってのびている。パンを焼く匂い、香ばしいスープの匂い、幸せな匂いが街を包んでいた。


「父上、龍の物語を聞かせてください」

 ヴラド・ドラクルはブラショフへ向かう道すがら、息子二人と街の通りに面した小さな家滞在していた。この家は次男のヴラドが生まれた家だ。難産で、妻はずいぶん苦しんだ。ずっと手を握ってやったことをドラクルは今も覚えている。


 小さなヴラドは今はもう六つになった。三つ年下のラドゥは母の血統を継いだ艶やかなブロンドにつぶらな瞳の愛らしい男の子だ。ヴラドと違い、甘えん坊でやっと話し始めた舌足らずな言葉も愛しい。いつも兄のヴラドを慕い、背中を追いかけていた。ヴラドはそんな弟を恥じらいからか、あっちへ行けとあしらうことが多かった。それでも、外を歩くときはちゃんと手を引いて兄らしく振る舞っている。


「お前は龍の話が好きだな」

 豊かな黒い髭を蓄えたヴラド・ドラクルはかわいい子供達を両脇に抱いた。ラドゥは父の腕にしがみついてころころと笑っている。

「昔、ワラキアの地には龍が住んでいた」

 父は語り始めた。この話は何度話したか覚えていない。自分も父ミルチャから聞いた話だ。父もまたワラキアを守った偉大な英雄だった。


「昔ってどのくらい」

 小さなラドゥが父の腕にしがみつきながら尋ねる。

「邪魔をするなよ、ラドゥ」

 ヴラドが小さな唇を尖らせる。ヴラドの髪は父に似て夜の闇のような漆黒だった。肩口まで伸ばした髪はゆるやかな巻毛だ。このやりとりも何度目だろうか。父は可愛い息子たちの姿に目を細める。


「そうだな、ずっとずっと昔だ。人間がこの地に住みつくよりもずっと前」

 ドラクルは物語を続ける。龍はここがワラキアと呼ばれる前から住んでいた。やがて人間がこの地に住み着いたことで、龍は森の中に身を隠した。人間は龍の存在を知り、龍を崇めた。龍も人間に危害を加えることはなかった。


 あるとき、異民族がこの地にやってきて、住人を追い立てた。金品だけでなく命を奪った。そして、たくさんの血が流された。どうかこの地を守る力をください。一人のワラキア人の願いに、龍はその偉大な力を貸した。異民族は滅び、平和が訪れた。龍は返り血で真っ赤に染まった。そして姿を消した。


「ねえ、龍はそのあとどうなったの」

 ヴラドが父にしがみつく。その答えは何度も聞いていたが、それでも尋ねる。

「龍はまた眠りについたんだ」

「龍さんは眠っちゃった」

 ラドゥが可愛らしい声で繰り返す。


「お前は黙ってろよ」

「だって、このお話はもう飽きちゃったんだもん。父上、他のお話をしてください」

 小さなラドゥにせがまれて、父ヴラドは笑いながら村に伝わるおとぎ話を始めた。ヴラドは龍の話が好きだった。龍が力を貸したという英雄に憧れを抱いていた。父が始めた新しい話は耳に入っていなかった。


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