化け物は泣いた
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そこはまるで、深淵の底だった。
静寂が支配し、何人たりとも近付けない領域。
暗闇の中で、自分が居ることだけは確信する。
自分の状況を理解するのに時間という概念は要らなかった。
そして、頭の中でレコードの様に流れるのは、自分の過去。
水の波長みたいに広がっていく自らの罪は、誰に語るでもなく、独りでに喋り始めた。
——それは僕が、『蘭月』になる前の話。
それまで、自分が果たして人間なのか分からなかった。
いや、そもそも自分が生物なのかも曖昧だっただろう。
僕の記憶は、彼と……殺月と出会う所から始まる。
それより前の記憶は殆ど覚えていない。唯一思い出したのは、多数の人間が僕を『見ていた』事。
恐怖。憎悪。妬み、憎しみ。ありとあらゆる負の感情で僕を見ていた。
——『化け物』
人は皆、口を揃えて僕をそう呼んだ。
その時はそれがどんな意味だったかは分からない。
けれどそれが、僕が思い出せる一番昔の記憶。
そんな化け物を、人間に変えてくれたのは殺月だった。
その時の彼は『蘭月』と名乗っていたし、僕も彼をそう呼んで慕っていた。
殺月と出会ったのは、真昼の公園。太陽が一番高く昇っていた初夏の事。
ブランコに揺れていた僕に、当時大学生だった殺月が声をかけてきた。
「ねぇ君。僕と友達にならない? 」
僕に大きな日陰が落ちてきて、見上げると彼がいた。
みすぼらしい格好の僕に誰も寄り付かなかったのに、彼だけが僕の前に立っている。
「……とも、だち? 」
僕に真っ直ぐな視線を送りながら、優しさで満ち溢れた笑顔をする殺月。
僕は言葉の意味が分からず首を傾げていると、「いや、友達じゃないな……」と殺月は呟く。
「——僕と、親友になろう。」
今ならこんなにも犯罪臭漂う誘いに乗らないだろうけれど、当時の僕は言葉をきちんと理解出来てはいなかった。
それに、殺月の背中から太陽の光が輝いて、僕にはそれが天使みたいに思えたから。
だから僕は、自分に差し出された手を取ってしまったんだ。
それが今から七年前。七月の出来事。
それから殺月と訪れたのはファミレス、ショッピングモール、バッティングセンター。
どれも意味の分からない事だらけで、僕はずっと混乱していたけれど、今は分かる。
殺月はこの時、僕の緊張をほぐそうとしていた事を。
殺月と思う存分遊んだ後、河川敷を歩いていると彼は僕に聞いてきた。
「そういえば、名前を聞いていなかったよね。名前、なんて言うの? 」
僕には『名前』の意味が分かっていなかった。
そもそも僕がそれまで、誰かと共に居た記憶は無い。
「名前って? 」
不思議に思った僕が聞き返すと、殺月は驚いた顔をしてから、直ぐに笑った。
「名前って言うのはね、君が今ここにいるって証だよ。君が今、生きている証。」
その言葉がストンと心に落ちてきた。
僕は、今まで自分が生きているかどうか、なんてどうでもいい話だった。
所詮、人の真似事をした所でまた『化け物』だと言われる。
僕がここにいることを、嫌がられる。
けれど、彼は違う。初めて僕を受け入れてくれた。
どうしてだろう。この人と一緒に居れば、僕は人間になれるかもしれない。
自分の中に生まれた小さな思い。
慣れない胸の膨らみに困惑していると、殺月は腰を下ろした。
僕の両手を掴み、そっと包み込む。
「なら、名前を付けよう。君にぴったりな名前を思い付いたんだ。それはね——アオイ。今日から君はアオイだ。」
僕はその名前の由来も、意味も分からなかったけれど、初めての贈り物に心を弾ませた。
「アオイ。アオイ……! 」
砂糖みたいに甘い贈り物。
それから僕は『アオイ』としての生活を始めた。
アオイとしての生活は、全てが初体験だった。
人と話すのも、外を自由に散歩するのも。
そして僕は学校にも行き始めた。
殺月が保護者がわりになってくれて、諸々の手続きは紫蘭が行ってくれた。
初めて会った時の紫蘭は、今と同じように気味の悪い笑顔を浮かべていた。
心の見えない、絵を貼り付けたみたいなその笑顔がとても不気味に思えて、思わず殺月の背中に隠れてしまった。
その時からかもしれない。僕が紫蘭に苦手意識を持ったのは。
殺月の笑顔は裏表のない太陽みたいな笑顔だった。
それにひきかえ、紫蘭は笑顔こそ輝いていたけれど、その周りに隠しきれない闇が蠢いている。
言うなれば、月のような笑顔。
太陽と月。真逆な二人の雰囲気は、何故か綺麗に混ざり合って、綺麗な形で保たれている。
それがどうしてなのかは、僕には到底理解出来ない。
館の主としての責務を全うする紫蘭と、それを手伝う殺月、そして胡蝶蘭さん。
胡蝶蘭さんは僕を見るや否や、思い切り抱き締めてきた。
状況が飲み込めず、慌てふためく僕を見て、殺月は胡蝶蘭さんをこっぴどく叱っていたのは、今でも懐かしく思う。
初めての事だらけで戸惑う僕。いつも元気な胡蝶蘭さん。僕を優しく導いてくれる殺月。そして、そんな僕達を遠くから眺める紫蘭。
僕は、皆と居る時少し歯がゆかったけれど、不思議と嫌ではなかった。
そんな日々が、いつの間にか日常へと変わった頃、僕は思い出す。
——所詮、僕は化け物でしか無かったのだ、と。
「蘭月ー! 僕欲しい物があるんだ! 」
殺月と出会ってから早六年。僕は十五歳になり、高校への進学を考えていた。
今日は十二月二十四日。クリスマスイブ。
大学を卒業した殺月は、紫蘭と共に店の管理を担っていた。
紫蘭の右腕となり、様々な交渉事を行っている。
「……アオイ。欲しい物があるのは別にいいんだけれどね? その一人称、まだ治してなかったのかい? 」
メガネをかけ、書類の山に目を通す殺月は、僕の顔を見るや否やため息をついた。
この六年間、一番慕っていた殺月に引っ付いて回っていた僕は、いつも彼の真似事をしていた。
その中でも、殺月を一番悩ませたのはこの一人称だった。
「いいかい、アオイ。君は女の子なんだから、『私』って言わなくちゃいけないんだよ。ほら、リピートアフターミー。わ・た・し。」
「・・・・・・? 蘭月はいつから紫蘭の真似をするようになったんだ? 」
蘭月の顔には『駄目だこりゃ。』なんて書いてあったけれど、僕はあまり深くは考えなかった。
自分の癖を直ぐに治す事なんて出来るわけ無い。
それに、僕にとって自分の性別なんてどうでもいい話だ。
「それで、欲しい物って何? 」
書類の山から目を離した殺月は、椅子から立ち上がって僕の元に近付いてくる。
「んー……忘れた。」
蘭月が余計な話をするからだ、なんて心の中で思いながら、彼の胸に飛び付く。
蘭月の匂いに顔を擦り付けながら、お願いしてみることにした。
「でも、蘭月と出掛ければ思い出すかも。」
小動物を見るような目で僕を見下ろしながら、溢れる笑いを抑えきれずに笑みを零す。
自分の頭に柔らかな感触を感じて顔を上げると、殺月が僕を優しく撫でながら微笑んでいた。
「いいよ。お姫様の仰せのままに。」
「……蘭月のそういうとこ、嫌い。」
プクッと頬を膨らませながら殺月から離れ、ドアノブに手をかける。
「早くしよう。今日、雪になるかもってテレビで行ってた。」
テーブルの上に置いてあったコートを持ち上げ、僕の後を歩く殺月。
「そうだね。——今夜は特に冷えそうだ。」
それは、僕が光を失う数時間前の話だ。
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