月は笑う
「蘭月ちゃん! そこから三百メートル先、二時の方向! 」
鈴蘭さんが僕達の店に加わってから一週間。
彼女のお陰で作業効率はぐんと上がり、僕達の仕事は捗っていた。
鈴蘭さんが、後方から標的を目で追いそれを僕や胡蝶蘭さんに知らせる。
「彼の者を風のように走らせよ、走! 」
僕は胡蝶蘭さんの身体強化を手伝い、身体能力が上がった胡蝶蘭さんがトドメを刺す。
「我が剣、アングレカムよ。今俺の願いを聞き入れよ。全てを切り裂く剣となりて全ての邪を切り刻め! せりぁぁぁ! 」
胡蝶蘭さんの持つ、大きな剣が霊を真っ二つに切り裂いた。
その剣の名前はアングレカム。どうやらこの名前も蘭の花から取ったらしい。
胡蝶蘭さんに昔、『どうしてこの名前にしたんですか?』と尋ねたことがあったけれど、それの答えは貰えなかった。
正確に言えば、答えが分からなかった、だけど。
『さあな。俺はこの剣を預かってるだけだ。名前の由来なんて、俺が知りてぇくらいさ。』
その、どこか遠くを見つめる顔に、僕はそれ以上何も踏み入る事は出来なかった。
ともあれ、僕達のチームワークはかなり良い方で。
最近この辺りに『邪の者』が良く現れるようになった。
依頼も一日四件以上と、どんどん忙しくなっている。
流石の胡蝶蘭さんも顔色を曇らせる程には緊急事態らしい。
「……っし。今日の仕事はここまでだし、紫蘭と合流すっか。」
別の仕事で一人行動している紫蘭と合流する為に、待ち合わせ場所に移動する。
月は段々と高くなり、人の数も減っきていた。
「ねえ、胡蝶蘭さんはお昼の間、どんな仕事をしているんですかあ? 」
眼帯を付け直した鈴蘭さんが、上目遣いで胡蝶蘭さんの顔を覗く。
——そういえば一つ、驚いた事がある。
それは、目で見て分かるくらいに鈴蘭さんが、胡蝶蘭さんに好意を寄せているのだ。
好意と言うのはつまり、鈴蘭さんは胡蝶蘭さんの事が好きだと言うこと。
友情や尊敬では無く、恋愛感情の類いであると僕は何となく察し。
鈴蘭さんは、いつもより少し明るげな声で積極的に胡蝶蘭さんに話しかけている。
肝心の胡蝶蘭さんといえば、鈴蘭さんの相手はあまり乗り気では無いらしい。
まあ、十歳以上も離れていれば、恋愛対象には入らないということだろう。
そうこうしているうちに、目的の場所に着いたらしい。
遠くの電光灯の下で、大きく手を振る紫蘭の姿が目に入ってきた。
「皆さん、お疲れ様です。お陰様で、今日の仕事も捗りました。これはそのお礼です。店に戻って食べましょう。」
紫蘭の右手から差し出されたレジ袋の中からは、白い湯気がもくもくと立っていた。
そして、お腹の虫を刺激する肉々しい香り。
「肉まん……! 」
お昼から何も口にしていなかった僕は、目を輝かせる。
紫蘭はそんな僕を見てクスリと笑った。
「蘭月の食欲が暴走しないうちに帰りましょうか。」
「紫蘭、それどういう意味? 」
「いえいえ大した意味はないんですよ。それに、蘭月には肉付きという単語とは無縁でしょうからね、色々と。」
「セクハラおじさんは、嫌われるよ?」
紫蘭の煽りに頬を膨らませる僕を見て、二人が笑う。
鈴蘭さんが仲間になってからは、こんな事ばかりだ。
僕にはまだ慣れない、フワフワした感覚。
それをいつか、心地いいと感じる日は来るのだろうか。
いつか、仲間の為に頑張りたいと思う日が、来るのだろうか。
そんな事を考えていた僕は、完全に頭から抜け落ちていた。
自分が今、どういう状況に居るのかを。
どうして僕が今、生きられているのかを。
——そして、それは音もなくやってくる。
「やあ、随分と楽しそうだね。……蘭月。」
一瞬で、僕を恐怖のどん底へと落とす声。
僕を呼ぶ声色は優しく、けれども凍えてしまうほどに冷たい。
矛盾した表現が、彼には良く似合っている。
目の前の暗闇から現れたのは、あの日と同じ目をした彼だった。
「——せい、げつ……。」
青い瞳は、月光の下で宝石の様に輝く。
触れたら壊れてしまいそうな淡いキラメキを放つ殺月は、足音も立てず僕達に近付いてくる。
足が竦んで動けない僕の前に立ちはだかったのは、紫蘭と胡蝶蘭さんだった。
「調査をした時から薄々気づいていましたが……やはり貴方だったとは。今でも信じ難いですね。」
紫蘭は悲しげな瞳で殺月を睨みつける。
「ああ、同意見だぜ紫蘭。でもこうやって現実になっちまったもんはしょうがねぇ。……よう、久しぶりだな。元気にしてたかぁ、蘭月。いや、こう言った方がいいのかぁ?殺月さんよぉ!」
大きな背中に守られながらも、二人から漂う隠しきれない殺気に、僕は言葉が出なかった。
そんな二人を前にして、楽しげに笑みを零す殺月は足を止める気配がない。
「はは、そんなに睨まないで欲しいな紫蘭。そして、胡蝶蘭。せっかくの再会なんだから、もっとロマンチックに行こうよ。まあ、今日は君たちに用はないんだけれどね。俺はただ、蘭月を貰いに来ただけなんだから。」
三つの殺気が混ざり合う。
最悪の状況の中、僕は二人の間から、様子を伺っていた。
「って事だからさ、そこを退いて貰えないかな。二人とも。」
殺月の言葉に、胡蝶蘭さんは一層怒りに満ちた顔で身を乗り出す。
「てめぇ・・・・・・蘭月はモノじゃねぇんだぞ!?」
胡蝶蘭さんと殺月がぶつかり合う中、紫蘭は何を考えているのだろう。
かつて、自分の右腕だった殺月に。
こんな時、僕が考えていたのは過去の記憶だった。
徐々に世界から音と、色が薄れていく。
灰色になった世界で、僕は死人の様に三人を傍観していた。
少し前までは、力を合わせ、互いを認め尊重し合っていたはずの三人。
和気あいあいとしたその空気が、僕は好きだった。
……なのに、今は違う。
睨み合い、警戒し、対立している。
いつからこんな事になったんだろう。
自問自答として、気づいてことはただ一つ。
——そうだ。この状況を招いたのは紛れもなく僕だ。
あの日、本来死ぬべきだった僕は生き残り。
あの日、本来生きるべきだった殺月が死んでしまったから。
全部僕が起こした結果だ。未来を望み、親友を捨て去った僕。
それなのにも関わらず、僕は罰せられる事も苦しめられる事もなかった。
ならば、これは罰だ。罪を償いもせず、生きてしまった僕への贖罪の余地。
「……やめて。紫蘭、胡蝶蘭さん。」
彼が今、敵として紫蘭達の前に立ちはだかるなら。
そのせいで、胡蝶蘭さんや鈴蘭さんが、傷付けられてしまうくらいなら。
あの日、僕を守ってしまったせいで、敵になってしまったのなら。
——全て、僕が背負って行こう。
そして、彼を間違った道に歩ませない様に。
紫蘭と胡蝶蘭さんの間を割って出た僕は、紫蘭達の方を振り返る。
そして、僕は簡潔にそれを皆に伝えた。
「——僕は殺月について行くよ。」
その言葉に、紫蘭が目を見開いていたのには少し驚いたけれど、僕の心は変わらない。
「し、正気かよ蘭月! 自分で何言ってるのか分かってんのか!? 」
胡蝶蘭さんの言葉に僕は首を縦に振った。
「ごめんね、皆。でも、これは僕が背負うべき業だから。」
殺月は、そんな僕を後ろから抱きしめる。
力がこめられた手を、僕は決して拒めなかった。
「嬉しいよ、蘭月。やっぱり君は俺を分かってくれる。流石は俺の親友だ。」
その言葉に、その息遣いに、僕は目を細めた。
そう、僕と殺月は親友なんだ。だから、これ以上、彼を間違った道へは進ませたくない。
唖然とする紫蘭達を見て、僕は胸が締め付けられた。
自分が今、成そうとしているのは紫蘭が最も嫌った『裏切り』という行為。もう、僕は紫蘭達の元へは戻れないだろう。
それでも僕は、そんな紫蘭達の視線から目を逸らすために瞼を閉じた。
途端、何か強い振動が、僕の全身に走り回る。
「——!! 」
倒れかかる僕を抱き抱えた殺月に、胡蝶蘭さんの怒鳴り声が響く。
「てめぇ、蘭月に何した!?」
「何って、眠ってもらったんだよ。ここから先は汚いモノの巣窟だ。彼女は何も知る必要は無い。俺はこれ以上、蘭月を汚したくはないからね。」
意識を失った僕を抱いて、殺月は後ろを向く。
「さようならだ。俺は蘭月を貰っていくよ。」
紫蘭達に背を向け、歩き始めた殺月を暗い闇が飲み込んでいく。
禍々しいその闇に、胡蝶蘭さんは何も出来なかった。
「——全ては、貴方のシナリオ通りという訳ですか。」
その場にいる誰に言うでもなく、けれど独り言にしてはあまりにも重すぎる言葉は、月明かりに照らされ塵となって消えていった。
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